三島由紀夫を考える。『文化防衛論』で考える。

TED TIMES 2020-62「文化防衛論」 11/17 編集長大沢達男

 

三島由紀夫を考える。『文化防衛論』で考える。

 

1、文化

『文化防衛論』(三島由紀夫全集 第33巻 新潮社)は、日本の文化の現状を憂うるところから始まります。占領政策により、歌舞伎の復讐のドラマ、チャンバラ映画は禁止される。その後、禁止は解かれるが、日本を覆ったのは文化主義だった。何ものも有害であり得なくなり、文化とは、何か無害で美しい、人類の共有財産で、プラザの噴水のようなものになります。

<「菊と刀」のまるごとの容認が必要である。倫理的に美を判断するのではない。倫理を美的に判断するのでもない。文化を丸ごと容認するのである。現代では「菊と刀」の刀が絶たれ、際限のないエモーショナルなだらしなさが現れ、戦時中は「菊」が絶たれ、欺瞞と偽善が生じた>(p.376~7の要約)と三島は論じます。

文化防衛の防衛とは、誰から、何から、守るのでしょうか。占領軍か。現政権か。社会主義者共産主義者か。答えは、三島が使っている用語ではありませんが、「戦後民主主義」で、「平和憲法」です。「太平洋戦争論」、「日本国憲法」、「東京裁判」・・・それらに直接、三島は答えず、占領軍がもたらした戦後の文化総体に、反発しました。

「守るとは何か?」に対して三島は、「『守る』とは常に剣の原理である」とします。「『平和を守る』といふ行為と方法が、すべて平和でならなければならぬといふ考えは、一般的な平和主義的妄信であり、戦後日本を風靡している女性的没論理の一種である」(p.379)。

2、天皇

では文化とは何か。三島は日本文化とは天皇である、と答えます。もっと言えば日本語とは天皇です。

天皇は、日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。」(日本国憲法第1章第1条)。象徴とは何か。三島由紀夫和辻哲郎の言葉を引用しながら、天皇は国家を超えた文化共同体の象徴である、とします。

国民(人民、民衆、ピープル)は「国家とは次元の異なるもの」である。「その統一は政治的な統一ではなくして文化的統一なのである」「それを天皇が象徴するのである」( p.392)「国家が分裂しても国民の統合は失われなかった」歴史的事実における統合の象徴としての天皇が、文化的共同体の象徴概念である(p.392)。ややこしいのですが、カギカッコ内が和辻の言葉です。

そして三島は、文化共同体の象徴を、証明するものとして、「みやび」論を展開します。

「御歌所の伝承は、詩が帝王によって主宰され、しかも帝王の個人的才能や教養とほとんどかかわりなく、民衆詩を『みやび』を以て統括するといふ、万葉集以来の文化的同体の存在の証明であり、独創は周辺に追ひやられ、月並は核心に輝いている。民衆詩はみやびに参与することにより、帝王の御製の山頂から一トつづきの裾野につらなることにより、国の文化伝統をただ『見る』だけではなく、創ることによって参加し、且つその文化的連続性から『見返』されるといふ栄光を与えらる。」(p.398)

「みやびの源流が天皇で」、「日本の民衆文化は概ね『みやびのまねび』に発し」、つまり『万葉集』です。古今、新古今の勅撰和歌集です。「そして時代時代の日本文化は、みやびを中心とした衛星的な美的原理、『幽玄』『花』『わび』『さび』などを成立」させてきたのです(p.399)。つまり『源氏物語』などの文学、能・歌舞伎・祭りの歌舞音曲、茶道の陶器、絵画、日本の美術です。さらには剣道、柔道、空手、相撲のみやびも付け加えていいでしょう。それが日本文化です。

3、全体性と全体主義

御製の山頂から民衆の裾野へ。この表現は注目されていいでしょう。日本の国は富士山です。みやびはみやびのまねびによって支えられている。月並みが核心に輝いている。なんと、美しい。文化概念として天皇です。

<そもそも文化の全体性とは、左右あらゆる形態の全体主義と完全な対立概念であるが、ここに詩と政治とのもっとも古い対立がひそんでいる。文化を全体的に容認する政体は可能かといふ問題は、ほとんど、エロティシズムを全体的に容認する政体は可能かといふ問題に接近してゐる>(p.389)。「菊と刀」の原型は、天照大神の天岩戸隠れ、アメノウズメのエロティックなダンスにあります。全体とは政治ではなく、文化です。西欧近代の個人主義とはなじみません。それは単一言語、単一民族であったから可能だったのかもしれません。日本の私たちには防衛すべきもの守るべきものがあります。それは力で守らなくてはならぬものです。