「興亜観音」を否定すべきか、「興亜観音」から学ぶべきか。

TED TIMES 2020-61 「興亜観音」 11/10 編集長大沢達男

 

「興亜観音」を否定すべきか、「興亜観音」から学ぶべきか。

 

1、興亜観音

誘われるままに、ある観音さまにお参りしてきました。

熱海市伊豆山の「興亜観音(こうあかんのん)」は、昭和15年陸軍大将松井石根(まついいわね)によって、支那事変の日中両軍の戦没者を慰霊供養するために設立されました。

東條英機松井石根らの7人は、いわゆる「A級戦犯」で、占領軍により絞首刑にされます。そこで奇妙なことが起こります。A級戦犯は火葬され、遺骨は東京湾に捨てられますが、米兵は火葬場に残った骨壺一杯分の遺骨をコンクリート穴に捨てます。それを目撃した火葬場長は二人の日本人に知らせます。小磯国昭元首相の弁護人と火葬場隣の寺の住職です。二人は深夜に忍び込み遺骨を回収することに成功し、その遺骨が巡り巡って、この興亜観音に「七士之碑」の石碑とともに、埋葬されていました。驚くべき興亜観音です。

私たちは4人は、興亜観音の住職から、展示室内に案内され、興亜観音の由来と展示物の詳しい説明を受けました。大東亜戦争とは? 東京裁判とは? 日本国憲法とは?

いい機会です。ここでは東條英機について、『東條英機』(一ノ瀬俊也 文春文庫)をもとに、考えてみます。

2、東條英機

1)ファシストではない、人情軍人。・・・『東條英機』(一ノ瀬俊也)は、東條が道ばたのゴミ箱から菜っ葉の切れ端を見つけ、まだ食うには困っていない、と判断する話から始まります。そして東條が「人情」連隊長で、陸軍の正統である長州を憎み、陸軍本流のエリートではなかったことを説明します。どうして首相にまで登りつめたか。出世のすべての要因ではありませんが、「付け届け」があります。秩父高松宮殿下に自動車、枢密顧問官には食べ物・衣服のプレゼントです。そして東條は戦没者遺族の支援に配慮し、世直しの水戸黄門を演じようとしていました。

2)世界戦略のない、国内政治での開戦。・・・大東亜戦争の決断を下したの東條ですが、「開戦は国内政治だった」のです。○日中戦争の早期終結。でないと国民の不満は爆発する。支那事変で失われた命を代償に得たものを守る陸軍の面子。○対米戦を口実に、予算・物資を獲得してきた海軍の面子。○日本が中国で得た権益を無にする「ハル・ノート」の突きつけ。東條は陸海軍の一致がなければ、戦争はできないと思っていました。はじめ開戦にNOだった海軍は、大臣が及川から嶋田に代わり、YESに変わります。嶋田は10月30日にYESを決意、さらに31日東條に鉄を要求します。東條は陸軍と民需の鉄を削り海軍に与え、開戦にYESを引き出します。(加えて29日の連絡会議で、石油は南方油田から供給可能の報告がなされ、海軍による開戦NOの根拠は消滅している。『昭和16年夏の敗戦』(猪瀬直樹 中公文庫)p.177)。

3)思想のない、物取り主義と精神主義。・・・東條が総裁の大政翼賛会は、1942年に戦意高揚のためのキャッチコピー「欲しがりません勝つまでは」を、選びます。このことを『東條英機』(一ノ瀬俊也)は、何かが欲しいために戦争している下品な下心があると、痛烈に批判します。だから負けた。東條には思想がありませんでした。当否は別にし、石原莞爾のような「五族協和」の思想、2.26事件を起こした皇道派のような「日本思想」はありませんでした。事実、東條は皇道派、右翼とテロ、そして新聞を恐れていました。東條にあったのは、物質力より精神力、必勝の信念だけでした。

3、天皇ファシズム

興亜観音を訪れた私たちに事件が起こりました。ひとりが住職の話を聞くのを拒否したのです。「興亜観音は左翼テロのターゲット」、「思想信条に合わない」。戦後民主主義には、太平洋戦争(GHQの造語)論、日本国憲法東京裁判三種の神器があります。そのコアにある考え方が「天皇制ファッシズム」です。しかしその戦前批判は根底から覆っています。天皇制はコミンテルンの造語(谷沢永一)、ファシズムマルキストの間違えた用語(山崎隆)、天皇の戦争責任は問えない(小室直樹)。『東條英機』(一ノ瀬俊也)も、伊藤隆や古川俊久の新た歴史研究がなければ、書かれませんでした。戦後民主主義は根本から問い直されています。

物見遊山で訪れた興亜観音への参拝は、現実への参加(アンガージュマン)を要請するものになりました。