絵画はパブロ・ピカソ、建築はル・コルビジェ、ジャズはジョン・コルトレーン、そして映画はジャン・リュック・ゴダール(1930~2022)になりました。

THE TED TIMES 2022-36「ジャン・リュック・ゴダール」 10/10 編集長 大沢達男

 

絵画はパブロ・ピカソ、建築はル・コルビジェ、ジャズはジョン・コルトレーン、そして映画はジャン・リュック・ゴダール(1930~2022)になりました。

 

○なぜゴダールか。

1、ワンシーン・ワンカット

なぜゴダールか。それはゴダールが、尊敬すべき監督として、第1にミゾグチ、第2にミゾグチ、第3にミゾグチと、答えたからです。

では、なぜミゾグチ、日本の映画監督・溝口健二なのか。それはゴダールが、溝口の「ワンシーン・ワンカット」に共感したからです。

ワンシーン・ワンカットとは、一つのシーンを一つのカットに納めてしまうことです。

演技の流れを中断させないことで、カメラは生きた人間の息吹をとらえる、そして現実を複製したに過ぎない映像はリアリティを持ち、「現実」になるのです。

この作劇法はやがて、ロシアの映画作家エイゼンシュタインモンタージュ理論に対立する、「アンチ・モンタージュ理論」と言われるようになります。

エイゼンシュタインの「戦艦ポチョムキン」は、全編を通して1~2秒の短いカットで、構成されています。しかもカメラワークがありません。カメラはフィックスされていて動きません。ていねいにカメラポジションとカメラアングルを変えて、1~2秒のカットを積み重ねています。それで、モーションピクチャー(動く映像)を作ることに成功しています。

では溝口はどうでしょうか。

「浪華悲歌」、「祗園の姉妹」に、1~2秒のカットはわずか、1~2分はあたりまえ、なかには5~6分にわたる、息の詰まるカットがあります。

それを演じる役者がたいしたものなら、微動だにせず動くカメラ、光と影の照明も名人技です。

溝口は世界に先駆けて「アンチ・モンタージュ」の撮影技法を確立していたのです。

「アンチ・モタージュ」は、ゴダールに代表されるフランス映画の新しい波=「ヌーヴェル・ヴァーグ」を評論する理論家によって言い出されました。ヌーヴェル・ヴァーグの特徴は、手持ちカメラ、ロケ、同録の3つです。

ゴダールは、ワンシーン・ワンカットを、報道カメラ出身のラウール・クタールと組むことにより、実現しました。セットではなくストリートで、しかも動き回る人物の撮影で、やってのけたのです。

代表的なカットは、「勝手にしやがれ」の新聞売りのシーンです。

パトリシア(ジーン・セバーグ)とミッシェル(ジャン=ポール・ベルモンド)が、並んで話しながら、パリの大通りを向こうに歩き、Uターンしてこちらに戻ってきます。

人が行き交っています。車も動いています。カメラの前の横切る人もいます。雑音と夾雑物もまた重要な出演者にして、映画は進行します。

それを撮影のクタールは、微動だにしない手持ちのカメラワークでとらえています。

光と影も演技し、映像は輝いています。

 

2、ビタミン剤。

ゴダールの映画を見ることは、クリエーターが創造のためのビタミン剤を飲むようなものだと、という評価が生まれました(発信源はテレビマンユニオンの村木良彦氏)。60年代後半のことです。

これには二つの意味があります。一つは皮肉です。

ゴダールは、「アルファビル」(65年)の発表以降、しだいに映画の破壊を始めます。そして映画は分かりにくくなってきます。新作はまたまた訳の分からない映画だった。この感想を素直に語ったものです。

そして二つめの意味は、分からない映画だったけど「もと」は取ったと、感動しているのです。

ゴダールの映画のあとは、クリエーターはだれもが元気になるのです。よーしオレもがんばるぞ、創作の意欲に燃え上がるのです。

なぜビタミン剤になるのか。それはゴダールの映画が、クリエーターの「脳」を刺激するからです。

まずゴダールは論理で、観客を挑発します。世界をどう考えるのか。生きるとは何なのか。平和は存在するのか。君は哲学をしているのか。

つぎにゴダールは感覚で、観客に挑戦します。

この街は美しいか。自動車という生き物は風景になっているか。青のスットッキングと赤のスカートのコーディネーションはどうだ。チェックのスカートは許せるか。この歌はどうだ。

そしてゴダールは欲望で、観客を誘惑します。

ゴタゴタ言う奴は撃ち殺せ。女がいたらパンツを脱がせろ。欲しいものがそこにあるなら、かっぱらえ。警官はいらない。女だ、金だ、死んじまえ。

ゴダールの映画は、人類の脳(大脳新皮質)をジンジンさせ、馬の脳(大脳旧皮質)をウルウルさせ、ワニの脳(大脳古皮質)をビンビンさせるのです。

ゴダールの映画は、ビタミン剤以上のドラッグです。

 

3、『映画史』。

クリエーティブな表現とは何か。

それに対する答えが、ジャン=リュック・ゴダ-ルの『映画史』です。

『映画史』は、1999年にヨーロッパで公開され、2000年に日本でも上映された、全8章、4 時間半の長篇映画。20世紀映画の最後の代表作です。

1)テレビが映画をダメにした。2)アメリカがフランスをダメにした。3)国家が私をダメにした。

この映画では、フランス人のゴダ-ルの毎度の主張が、繰り返し主張されます。

しかし『映画史』から伝わってくるのは、そんなケチな「論理」ではありません。

この映画は、「表現」の可能性と「表現」の極限のすべてを、「表現」しています。

「表現」への飽くなき挑戦が、クリエーターを勇気づけてくれるのです。

言葉の表現とは、詩、小説、アジテーション、聖書、歌、キャッチコピーです。

音楽の表現とは、鳥、動物、雨、嵐、雷、機械、赤ん坊、ロック、セレナーデ、シンフォニーです。

映像の表現とは、絵画、イラスト、文字、グラフ、設計図、フィルム、ビデオです。

時間の表現とは、一生、20世紀、歴史、人類史、地球、宇宙、映画の時間です。

言葉と音と映像と時間。この映像の4要素といわれるものが、それぞれその可能性の限りに協奏し不協し共鳴し反発し、映像は映画を発明し続けるのです。

それはまさしく「表現」と呼ぶにふさわしいものです。

ゴダールは映画を作りました。映画を破壊しました。そしていま映画を新発明しようとしています。

なぜゴダールか。だからゴダールのなのです。

 

勝手にしやがれ(1959年)

1、何を描いたか。

1)ミッシェルというかっこいいフランス男のアップで始まり、パトリシアというかっこいいアメリカ女のアップで終わる映画。

ミッシェルは不良だ。なにがそうさせるのか説明されない。車を盗んで警官に追跡され警官を殺し、パリに逃げ込む。友人に貸した金を受け取るためと憧れの彼女パトリシアに合うために、パリにやってきたのだが、いまは文無し。女友達の部屋に鍵を借り勝手に入ってしまう。そして彼女に会い。彼女の金をかっぱらう。

2)「ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン」を売っているアメリカ女のパトリシアに会う。

イタリアに行こうと、パトリシアに言う。ミッシェルはパトリシアが好きだ。

ミッシェルは貸した金を受け取るために、友だちに会いに行くが会えない。

警官殺しの捜査陣がだんだん迫ってくる。

パトリシアに会うが、金がない。トイレで男を襲い金を手に入れ食事をし、車をかっぱらいパトリシアを仕事場に送る。パトリシアはアメリカ人からインタビューの仕事をもらう。

パトリシアがアパートに戻るとミッシェルがいる。ベッドの周りでふたりは長い時間を過ごす。

3)翌日。パトリシアはインタビューの仕事にでかける。

ミッシェルはかっぱらった車を現金にしようとするがうまくいかない。

パトリシアが新聞社に戻ると刑事がいる。尾行をまくために映画館に入る。ミッシェルに会う。

ミッシェルは金をもらえるアントニオに会うことに成功する。アントニオの仲間がアジトを用意してくれる。ふたりは最後の晩をスタジオのような場所で過ごす。

4)翌朝、パトリシアはミッシュルの居場所を、なぜか、警察に密告する。警察が来る。

アントニオの仲間がミッシェルに拳銃を渡す。ミッシェルは断る。が、刑事は撃つ。

道に倒れたミッシェルが、パトリシアを見上げて言う、「最低だ!」。それを聞くパトリシアのアップ、彼女が振り向くと「FIN」のタイトルが出る。

 

2、どう描いたか。

1)脚本がいい。

(起)ミッシェルは、パトリシアに会いたくて、車をかっぱらい、警官を殺し、パリに来ます。(承)そして、パトリシアに会い。夢のような一夜を過ごすことに、成功します。(転)しかし、警察の捜査網は迫ってきます。パトリシアはミッシュルを裏切り、警察に密告します。(結)ミッシェルは警察に撃たれます。最後になって、アメリカ女のパトリシアに言います、「最低だ!」。

90分の構成はしまっています。台詞がシャレています。ベッドの中でいちゃいちゃしているときの会話もいいですが、ここでは、作家へのインタビュー・シーンでのやり取りを紹介します。

Q「現代でも愛は信じられますか」

A「信じられるのは愛だけです」

Q「エロチシズムと愛との差を認めますか」

A「そんな相違は一切認めません」

Q「女性は生涯に何人もの男性を愛せますか。肉体的にです」

A「(指を何度も折り曲げながら)もっとだ。重要なのは二つだけ、男と女だけです」

Q「ブラームスはお好きですか」

A「嫌いです」

Q「ショパンは?」

A「最低だ」

Q「人生最大の野心は」

A「不老不死になって死ぬことだ」

何が言いたいのか、何を言っているのか、よくわかりません。しかしかっこいい。なんだかインテリになったような気がして、気持ちいいのです。

2)映像がいい。

ⅰ)ワンシーン・ワンカット

パリの路上でミッシェルが、ニューヨーク・ヘラルド・トリビューンを売っているパトリシアに会うシーンがあります。車と人が行き交う中をふたりが歩きます。ある日の昼下がりの何気ないシーンです。

2分に近いこのシーンはワンカットで撮影されています。映像を何度も繰り返してみると、歩行者と車の動きがたくみに演出されていることが分かります。

ワンシーン・ワンカットは、映像を、ほんもの(reality)にし、いきいき(actuality)としたものに、します。

ⅱ)カメラワーク

まず画面が切り取り方が多彩です。

パトリシアの部屋で、彼と彼女がたわむれるシーンでは、画面一杯に顔が映るほどのサイズが使われます。ヘラルド・トリビューンの先ほどのシーンは、フルサイズです。ミッシェルが殺される前の晩の、パリの夜景では、画角の広いロングが使われています。

つぎにどのシーンも光と影が計算されています。映像に陰影があります。

そしてフレーミングがいい。かっこいいのです。

3)音楽とアート

エンディングに近いアジトのシーンでモーツアルトの「クラリネット五重奏曲」が使われます。嫌いなはずのブラームスも登場させます。ゴダールの耳は確かです。

音は音楽ではありません。救急車のサイレンに代表されるように、SEが効果的に使われます。わざとらしくありませんが、SEの音量はかぶせ方は極めて恣意的です。あきらかに演出されています。

つぎはアートです。写真、絵画がさかんにモンタージュされます。ハンフリー・ボガードの写真、ルノワールピカソの絵画。そしてそれらについての台詞が見ているものの想像力を刺激します。

さらには、ファッションがあります。ミッシェルの帽子、パトリシアのヘアスタイル、ストライプとのドレス。ミッシェルとパトリシアのスティル写真を並べれば、ファッション雑誌のエルやボーグの一冊になります。

 

3、世界はなぜ、ミッシェルのいかれたか。

この映画はかっこいいと思いました。

殺しとかっぱらいを繰り返すミッシェルとそのミッシェルと寝たパトリシアのカップルにいかれたのです。いかれたのは日本の私たちだけではありません。

ベルリン国際映画祭の審査員もいかれて、このゴダールのデビュー作に銀熊賞を与えました。世界が、不良のミッシェルにいかれてしまったのです。なぜでしょう。

1)資本主義を支えてきた、プロテスタンティズムの精神がほころびを見せてきたからでしょうか。勤勉、努力、誠実なんて、クソ食らえだ。真面目やったってしょうがない。世界のこころ中の、不良、ならず者、ろくでないが、拍手をしたからでしょうか。

2)アプレゲール(戦後世代)の時代がきたからでしょうか。神は死んだ。これからは俺たちの時代だ。不条理、理不尽、何でも来い。俺たちは反抗するぜ。平和の時代の根無し草たちの、反抗宣言の映画だったからでしょうか。

3)アメリカの時代を予言したからでしょうか。ミッシェルが好きなパトリシアはアメリカ女です。仕事をもらうためにアメリカ男に汚された女です。それでもたまらなく好きでした。もしアメリカ女に熱中しなければ、別の人生があったはずです。死に際に言った、「最低だ!」は、「アメリカ!」のことだったのです。だから世界が共感したのです。

たいそうな解説はできます。でもどれも納得できません。論理とか感性とかでなく、私たちは本能的に、ミッシェルのエロとテロにいかれてしまっているのです。

 

○女は女である(1961年)

1、何を描いたか。

1)アンジェラは小さなキャバレーに勤めるストリッパー。ミュージカルで踊るのを夢見ている。エミールは本屋の店員、ウイークエンドには自転車レースの選手でもある。

そんなふたりがパリで同棲している。アンジェラはこどもが欲しい。そしてエミールに打ち明ける。24時間以内にこどもが欲しい。

2)エミールは断る。自転車レースの選手は、女房と寝た翌日に負ける。ぼくは日曜日試合だ。

だれでもいいのなら、友だちのアルフレッドとどうか、とエミールは友を呼ぶ。

アンジェラとアルフレッドはすぐに結ばれたわけではなかったが、エミールとは争いが絶えなくなる。お互いが意地を張り合うようになる。

3)ある日アンジェラはアルフレッド会う。

エミールが、アンジェラの仕事場のキャバレーを訪ねる。しかし、アンジェラはいない。変だ。

エミールはヤケになる。女を買う。ちょうどそのとき、アンジェラもアルフレッドと寝ていた。

4)エミールの部屋に帰ってくるアンジェラ。そして告白する。アルフレッドと寝た。冷たい空気が流れる。しかしふたりは気づく。こどもができたか分からないのなら、いまここで二人でこどもを作ればいいと。そして、アンジェラとエミールは結ばれる。

 

2、どう描いたか。

この映画の脚本は、デビュー作「勝手にしやがれ」以前に書かれています。その意味でゴダールの処女作です。そしてゴダール初めてのカラー映画で、初めてのワイドスクリーンの映画です。さらに主演のアンナ・カリーナゴダールは恋人関係にあり、映画完成直後に結婚しています。

1)台詞。

○エミールは、アンジェラといる部屋に、友だちのアルフレッドを呼びます。

「このお嬢さんとこどもを作ってくれ」

「これは悲劇かい、喜劇かい」

○アルフレッドはアンジェラを、カフェで、口説きます。

「何をしたらぼくを信じる?壁に頭をぶつけたら?」

ルフレッドは、外に飛び出し前の家の壁に頭をぶつけて、戻ってきます。

「信じる!」

アンジェラは答えます。

○アルフレッドは、金がないのにカフェで長時間、飲んでいたことに気がつきます。

そこでカフェのマスターにこう持ちかけます。

「『ウィ!』と答えたら、君に1万貸す。『ノン!』なら、1万借りる」

「1万貸してくれ!」

マスター「ノン!」

「1万借りたからな、来週返す」

○こどもが欲しいと、しつこく迫ってくるアンジェラに手を焼いたエミールは、街で通りすがりの紳士に突然持ちかけます。

「すみません。こどもを作るために、彼女と寝てくれますか?」

紳士「都合が悪いよ。今日は忙しくてね」

○アンジェラとエミールはこども作りに励みます。終えたあとの二人の台詞です。

「君は破廉恥な女だから。アンファム」

「私はただの女よ。ユヌファム」

台詞が爆発しています。台詞が映像を動かしています。いま、このときが、あります。時代が切り取られています。ゴダールの才能です。

2)スクリーンの前と後。

ゴダールはテレビを憎みますが、ゴダールの映画はテレビ以上に、同時性を大切にします。

生きている映画を作ろうとしました。

映画は、大切に鑑賞してもらう作品、ではありません。

映画は上映されることによって、スクリーンの前の観客と、スクリーンの後ろの時代によって完成されるべきだと考えたのです。

ですから俳優は突然、カメラ目線で客席に向かって、話しかけてきます。観客は驚きます。

観客は、映画にアンガージュマン(参加)することを、強制されます。

さらに映画は、突然物語から離脱し、街の中に飛び出します。街は驚きます。

街が、映画に参加させれてしまうのです。

この映画は、パリの紳士に話しかけます。そしてこの映画には、パリの老人達が美しいポートレートになって、登場します。

3)アート。

アートいうと大げさです。ゴダールはセンスがいいのです。

まず音楽。

映画はミュージカル仕立てです。音楽の監督は、若かりし頃のミッシェル・ルグランです。

それはそれでいいのです。しかしゴダールのセンスが光る所があります。ジュークボックスのシーンで、当時ヒットしていたシャルル・アズナブールがかかります。かっこいいのです。センスです。

つぎは美術とコスチューム。

白を基調にした、エミールの部屋もいいです。いかにも、若い二人が住んでいそうです。

アンジェラのコスチュームもいいです。ストリッパーだから、趣味のいいかっこはしません。

ブルー地に白のストライプの男物のガウンを着ます。いいです。

チェックのスカートをはきます。エミールは「やめろ」と嫌います。

そしてチェックのスカートをはいたときに不幸が起こります。

かわいい、でもアメリカっぽい、だからゴダールは「やめろ」と言わせたのです。

そしてタイトル。

クレジットタイトルが画面一杯に出ます。「UNE FEMME EST UNE FEMME」。

これにも度肝を抜かれます。

作品は銀熊賞(審査員特別賞)に、アンナ・カリーナは主演女優賞に、輝きました。

 

○ALPHAVILLE(1965年)

1、何を描いたか。

いちど見ただけでは、何のことかさっぱり分からない映画です。

それは途中で見るのを止めようと思うほどです。

ただしエンディングだけはジーンときます。

数ある映画の中でも、これほど心を揺さぶる結末はありません。

それでもう一度見直します。

すると、極めて論理的な構造を持った、解りやすい映画であることが分かります。

論理とコンピューターだけが支配する未来社会で、人は愛を知らなくなってしまっています。

愛という言葉すらも。

その未来を訪れた男が、愛を知らない美しい乙女を愛に現在に救出する、話の映画です。

1)フィガロ・プウウダの新聞記者であるイワン・ジョンソンが銀河系の首都アルファビル(α都市)訪れる。目的はレオナルド・フォン・ブラウン教授に会うためだ。

α都市では何かが変だ。ホテルでは部屋でいきなり女子従業員の裸のサービスを受ける。

部屋ではフォン・ブラウン教授の娘ナターシャの訪問を受ける。ナターシャはB級プロブラマーだが、「恋するってどういうこと?」と、不思議なことを言う。

イワン・ジョンソンは、先にα都市に派遣されていた、アンリに会う。アンリはα都市で、自殺を催促されたが、どうにか生き延びたと言う。

アンリは言う「人間は確率の奴隷になった」「ここに芸術家、小説家、音楽家はいない」。

ジョンソンは、ここを脱出しよう、アンリを誘うが、

アンリは「意識と愛情で涙を流すものを救え」と謎の言葉を残して、死んでいく。

2)プールで死刑囚を処刑するショーが始まる。

死刑囚の男女比は50:1。罪状は「非論理的行動」。

死刑囚のひとりは、「人生は愛だ」と、叫ぶことにより処刑される。

死刑囚のもうひとりは、「愛と勇気には、犠牲が必要だ」と叫ぶことにより処刑される。

フォン・ブラウン教授を捕まえようとして、逆にイワン・ジョンソンが捕まり、電子脳の尋問を受ける。

ニューヨーク(ヌエバヨルク)生まれ45歳。黄金と女を何よりも愛する。それがイワン・ジョンソンだ。

イワン・ジョンソンは何かを隠していると疑われるが、釈放され、自由に行動することが許される。

フォン・ブラウン教授が発達させた、α都市の中心のα60を訪れる。

そこは巨大なコンピューター室だった。

電子頭脳は急速に発達し、人間を超えた。

α都市は「外部の人間」を吸収した。吸収できないものは殺された。

処刑劇場では、観劇の最中にイスの上で殺され、ゴミとして処理された。

適応できないもののために長期洗脳病院もあった。

3)イワン・ジョンソンがホテルに戻るとナターシャが会いに来ていた。

この街の誰も知らない「意識」という言葉を知った。

あなたがα都市にきてからは、分からないことばかりが起きる。

ナターシャは、「外部の国」に行きたい、と言う。

翌朝、イワン・ジョンソンは外部の国のスパイとして捕まる。

しかしジョンソンは警官を殺し逃げ、パトカーを乗っ取りブラウン教授に会う。

ブラウン教授に「外部の国」に帰ろうと誘う。

教授は断り、「君のような人間を絶滅する」と、言う。

ジョンソンは教授を殺す。

4)ジョンソンはナターシャを連れて逃げる。

ナターシャはα60の影響下にあり意識がもうろうしていた。

ジョンソンは、ナターシャに「愛という言葉だけを考えろ」と命令し、α都市を脱出する。

「外部の国」に帰還する車の中で、ナターシャが言う。

知らなかった言葉、習わなかった言葉がある。

それを今言いたい。

「Je」 、「vous」 、 「ame」。

「Je vous ame」(あなたを愛しています)。

FIN(エンドタイトル)。

 

2、どう描いたか。

この映画は1965年のベルリン国際映画祭金熊賞、グランプリに選ばれています。59年にもデビュー作「勝手にしやがれ」で銀熊賞に輝いているゴダールはこの年に、世界ナンバーワンの監督のひとりになったと言ってよいでしょう。ではなぜ、ベルリンはアルファビルを選んだのでしょうか。50年近くの過去に戻って、それを考えてみます。

1)エスプリ

まずこの映画パロディであることです。イギリス人のユーモア、アメリカ人のジョークです。

現在の私たちにわかりませんが、B級ハードボイルド犯罪映画、左利きの名探偵レミー・コーションのパロディであることです。

主演は、そのハードボイルドの名探偵を同じエディ・コンスタンチーヌ。

名探偵のSF物語に、ベルリンはまず、笑いました。

2)言語の冒険

死刑。その罪状は、「非論理的行動」。

この映画の会話は現代詩です。

「意識」を知らない、人々の国に、行きました。

人々は、「愛」という言葉を、知りませんでいた。

人々は、「なぜ」という言葉を、禁じられていました。

人々は、非論理、ゆえに死刑を宣告されていました。

ゴダールは、詩を書き、それを映画にしています。

ベルリンは、詩に酔ったのです。

3)映像力

処刑が行われるプールの無菌室のような清潔さ。

美しいシンクロのスイマーたちによって、人々の命は処理されていきます。

つぎに、不気味な劇場の回転イス。

そこで映画に夢中になった観客たちは感電死します。

イス全体は回転し、観客をゴミ処理場に転落させ、クリーンアップされ、

つぎの観客のために準備されます。

さらに、すべてを命令しているα60のコンピュータ室。

建築は機能美に支配されています。

磁気テープ、モニター、機能的にレイアウトされた室内、

現在の目から見ても、映画は「未来」を造形しています。

極めつけは、α都市の輝く夜景です。

ベルリンは、アートの力に感動したのです。

4)告発力

映画は時代を告発していました。

コンピューターの時代を告発し、論理が君臨する世界を告発しました。

また映画は時代の危機をあぶり出しました。

世界存在の中での、人間が没落を、憂え恐れたのです。

こどもたちの「なぜ?」が忘れられてしまい、恋人たちの「好き」が消えてしまう。

その未来を警告したのです。

人生は何のためにあるのか、私たちは何のために生きるか。

映画はこの問いに答えようとしたのです。

そして映画にはその問いに答えるだけの力がありました。

ベルリンは、哲学を始めました。

5)結論

ゴダールはこの映画で、ベルリンを笑わせ、酔わせ、感動させ、そして哲学させることに、成功しました。ベルリン国際映画祭は、金熊賞で答えました。

59年の「勝手にしやがれ」に銀熊賞、61年の「女は女である」に銀熊賞、そして65年の「アルファビル」に金熊賞。ベルリンは、これで3回も、ゴダールに降伏しました。

ゴダールは思いました。絵画のパブロ・ピカソ、建築のル・コルビジ、音楽のジョン・コルトレーンのように、自分は映画のゴダールになったと。

神が与えた試練に答えるために、ゴダールは「映画の破壊」を開始します。

 

ゴダールありがとう。

私を映画に導いてくれたのはあなたでした。

以上の文章は10年ほど前に書いたものです。

ご冥福をお祈りします。

 

2022.10.1 大沢達男