「自由」、「平等」はキリスト教のイデオロギー。もう信じられない、でもどうすればいいか、分かりません。

THE TED TIMES 2022-35「ジョン・ロック」 10/3 編集長 大沢達男

 

「自由」、「平等」はキリスト教イデオロギー。もう信じられない、でもどうすればいいか、分かりません。

 

1、『どうしてこんなに悲しんだろう』(吉田拓郎

これが自由と いうものかしら

自由になると 淋しいのかい

やっと一人に なれたからって 

涙が出たんじゃ 困るのサ

やっぱり僕は 人にもまれて

皆の中で 生きるのサ

 

打ちのめされています。何を信じたらいいか、わからなくなってきました。

米国独立宣言、日本国憲法に影響を与えた(日本国憲法は占領軍が書いたのだから当たり前ですが)と言われる、ジョン・ロックの『統治二論』を初めて読んで、がく然としました。

無教養とは、ほんとに恥ずかしい。

私たちが小学校以来、普遍的真理として信じてきた「自由」とか「平等」は、単なるキリスト教徒のイデオロギーでしかないことがわかりました。

キリスト教を毛嫌いをしているわけではありません。それは地球環境破壊、国際紛争・・・現代の矛盾の原因が、キリスト教にあることを、知っているからです。

 

2、『統治二論』(ジョン・ロック著 加藤節訳 岩波文庫

人間は、完全に自由で、平等である。ジョン・ロックの『統治二論』の「後編 政治的統治について」で、自由と平等のバーゲンセールが行われます。

なぜ自由か、なぜ平等か。それは私たちが神による被造物であるからです。ですから、自由も平等も、自然法の範囲内でという制限がつきます。

被造物とは人間を神が造ったということです。自然法(Natural Law)とは、実定法ではない、事物の自然本性から導かられる法の総称です。

自然本性の作り手とは神です。人間に理性を与えたのも神です。ですから、自然法法源は「神」です。

○「自らが適当と思うままに自分の所有物や自分の身体を処理することができる完全に自由な状態にある」(『統治二論』p.296)

『サピエンス全史』のユヴァル・ノア・ハラリは、この自由について、厳しいツッコミを入れます。

「『なぜこの考えを思いついたのか?(中略)自然に湧いてきたのか?もし私が本当に自分の考えや決定の主人なら、これから1分間、何も考えないことができるだろうか?』試してみて、どうなるか確認するといい。」(『ホモデウス 下』p.109 ユヴァル・ノア・ハラリ 柴田裕之訳 河出書房新社)。

さらにハラリによって理性の個人も否定されます。

<「indivisual」とは分割できない人を意味する。個人は分割できない。でも、個人は有機体、分割できる。個人はアルゴリズム、分析できる>

<自由を科学的に証明できない。平等とは一神教の神話で、そもそも生物は差異を作るために成長してきている>(『ホモデウス』 「第8章研究室の時限爆弾」からの要約)。

ナショナリズムの美徳』のヨラム・ハゾニーも、ジョン・ロック批判の急先鋒です。

「相互の忠誠心のため、人々は家族、部族、ネイションと結びつき、そして各々、それらの集団に生まれ落ちた結果、その宗教的文化的遺産を受け継ぐのである」(『ナショナリズムの美徳』 p.46~7 ヨラム・ハゾニー 庭田よう子訳 東洋経済新報社)。

生まれながらにして自由、そんなことあり得ないのです。

○「人間に世界を共有物として与えた神は、また、彼らに、世界を生活の最大の利益を便宜となるように利用するための理性をも与えた。大地と、そこにあるすべてのものとは、人間の生存を維持し快適にするために与えれたのである」(『統治二論』 p.325)。

○「神と人間の理性とは、人間に、土地を征服すること、つまり、生活の便宜のために土地を改良し、そこに、彼自身のものである何ものか、すなわち労働を投下するように命じた」(『統治二論』 p.331)。

○「人が人類の偉大な共有物としてなお残っている大海からどんな魚を捕獲しても(中略)人間自身の所有物になるのである」(『統治二論』 p.329)

この教えが、西欧キリスト教世界にはあります。

人間の幸福のためならば、森を自然を破壊してもかまわない。

そして17世紀には、ヨーロッパは森林の9割以上を失います。米大陸も同じです。

これがキリスト教と畑作牧畜文明の特徴です(『一神教の闇』安田喜憲 ちくま書房 p.32)。

理性の光を当てるために、森林の暗闇を破壊するだけでなく、牧畜は森林を破壊し、さらに麦作は土地を疲弊させ、最後は砂漠にしてしまいます。

さらに困ったことは、キリスト教が人間に与えた理性は、自分以外の考えをする人間を下等にみなすことです。

ジョン・ロックは驚くべきことを言います。

○「改良も開墾も耕作も施されないで自然のままに残されているアメリカの原始林や未墾の荒無地にある1000エーカーの土地が、そこに住む貧しく惨め人々に対して、肥沃度が同様でありながらよく耕されたデボンシャーの土地が産出するのと同じだけ多くの生活の便益を生み出すかどうか(後略)・・・」(p.327)。

と疑問を投げかけ、そして結論づけます。

「・・・消費する前に果実が腐ったり、鹿の肉が腐敗してしまったりした場合には、彼は、万人に共通の自然法に背いたことになり・・・(後略)」(p.327~8)。

ほんと余計なお世話です。

そしてこんなことも言います。

○「彼らは(筆者注:アメリカ諸部族)、自然から、豊かな資源、すなわち、食物、衣服、生活の快適さに役立つものを豊富に生産するのに適した肥沃な土地を他のどの国民にも劣らないほど惜しみなく与えられておりながら、それを労働によって改良するということをしないために、(中略)広大で実り多い領地を持つ王が、イングランド日雇労働者よりも貧しいものを食べ、貧弱な家に住み、粗末な服を着ているのである。」(p.341~2)。

今では誰でも、ジョン・ロックと西欧キリスト教徒が米大陸で何をしたかを知っています。インディアンを皆殺しにし、米大陸を占領しました(ネイティブアメリカンという言い方は、好ましくない。原住民自らがインディアンという用語を使っている)。

さらにジョン・ロックはインディアンを小馬鹿にします。

アメリカ人の貝殻王(インディアン・アルゴンキン族)がヨーロッパの君主にとっては取るに足らないものであり、あるいは、ヨーロッパの銀貨がかつてはアメリカ人にとっては取るに足らないものであったように・・・(後略)」(p.519~520)。

貝殻王のことなどに言及する必要なないところで、見下して面白おかしく、記述しています。

自然を破壊し、先住民族を皆殺しにする、キリスト教徒のことを、ジョン・ロックは理性の人と言います。

「われわれは、理性的なものとして生まれたからこそ、生来的に自由なのである」(p.363)

そんな理性や自由はいりません。

厳格なピューリタンの家庭に生まれたロックは、経験なクリスチャンでした(p.604)。

ヨラム・ハゾニーが指摘するようにジョン・ロックの言説自体が、プロテスタント構造の産物にしか過ぎないのです(前掲 ハゾ二ー p.47)。

 

3、日本国憲法

米国独立宣言(1776)は、ジョン・ロックの文章の丸写しです。

「われわれは、以下の事実を自明のことと信じる。すなわち、すべての人間は生まれながらにして平等であり、その創造主によって、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられているということ」。

(We hold these truths to be self-evident, that all men are created equal, that they are endowed by their Creator with certain unalienable Rights, that among these are Life, Liberty and the pursuit of Happiness.

文章から自明のように、自由はキリスト教の神によって与えれれたものです。異教徒は関係ありません。

その後の米国の歴史を見れば明らかですが、インディアン、黒人奴隷、日本人、ヴェトナム人、有色人種に、自由は関係ありません。さらにイラン、アフガニスタンイスラム教徒にも。さらにはロシア人にも。

そして戦後の占領軍(GHQ)が、日本人に与えた日本国憲法も、ジョン・ロック丸写しです。

「第13条 すべての国民は、個人として尊重される。生命、自由及幸福の追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」。

(All of the people shall be respected as individuals. Their right of life, liberty, and the pursuit of happiness shall, to the extent that it dose not interfere with the public welfare, be the supreme consideration and legislation and in other governmental affairs.)

護憲を唱える人の気持ちがわかりません。日本国憲法は米国独立宣言に似ていませんか。同じです。

ジョン・ロックのようなキリスト教徒思想で書かれた憲法をなぜ守るのでしょか。

 

4、大日本帝国憲法

 「自由になると 淋しいのかい」「人にもまれて 皆の中で生きるのサ」。

吉田拓郎フォークソングのシンガーソングライターです、思想家ではありません。しかし以前から、この部分の歌詞が気になっていました。

吉田拓郎はあきらかに、ジョン・ロック日本国憲法に異議をとなえ、日本人の本音を歌っています。

啓蒙主義がもたらした合理主義、実証主義は、人間はばらばらな個体であり、各人はひとしく理性をもっているというアトム(原子)的世界観に基づいている(『日本国家の神髄』佐藤優 産経新聞社 p.46)。

しかし私たち日本人は「理性」をもったばらばらな「個人」ではありません。

理性にあぐらをかいていません。

仏教では解脱を教えます。悟りのために日々努力します。四弘請願があります。

衆生無辺誓願度(たくさんの人が幸せになれますよう)、煩悩無尽誓願断(煩悩をなくします)、法門無量誓願学(お釈迦様の教えと学びます)、仏道無上誓願成(仏様と同じように悟れるよう努力します)。

私たちは、日常的に、近所の神社、お寺さんに行って、手を合わせます。私たちは神社、仏閣に囲まれて生きています。

つぎに自然に対する態度が、キリスト教徒は全く違います。

山川草木悉皆成仏。

森にも山にも神さまが、川にも海にも神さまがいらっしゃいます。

無闇に森林を伐採しません。自然を破壊しません。

氏神の祭に於て報本反始(ほうほんはんし=先祖に報いる)の精神の発露があり、これの基づいて氏人の団欒があり、又神輿をかついで渡御(とぎょ=おでまし)に仕える鎮守の祭礼の於て、氏子の和合、村々の平和がある」(前掲 佐藤 p.214)。

「人にもまれて 皆の中で生きるさ」。神社のお祭りでは村人が集まり食べ、飲み、踊ります。

さらに私たち日本人には、古事記日本書紀があり、さらには万葉集があります。

日本は、万世一系天皇により造られ、歴史と伝統を積み重ねてきました。

皇室伝統、皇統です。

天皇の統治は西欧のような「うしはく」統治ではありません。「しらす」統治です。

天皇は、伝統的文化的な権威で、実際の政治は将軍が権力として行いました。

国民は大御宝(おうみたから)です。

日本人には、義礼智信、恥、武士道があり、日本人は、家庭、地域、会社、国などの集団や共同体に帰属していました。

個人主義ではありません(『21世紀 日本の国家戦略』 中曽根康弘 PHP p.86)。

日本の伝統において「見えない憲法」が存在していあます。それが「国体」です(前掲佐藤p.21)。

 

5、結論

ジョン・ロックに源がある西欧のリベラリズムに反乱を起こすべきなのか。

ここからが難しいところです。

『21世紀の国家戦略』で中曽根康弘は、外交4原則を示しています。

1、国力以上のことをするな。2、外交をギャンブルでやるな。3、内政と外交を混交させるな。4、世界史の正統的潮流に乗れ(筆者の要約)。

因みに中曽根は「大東亜戦争は間違った戦争で、やるべからざる戦争であった」(前掲 中曽根 p.75)とします。

原因は、大日本国憲法第11条「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」。軍令は天皇の直結し、内閣のチェックを受けないような体制が出来上がってしまったことです。

明治憲法を改正し、統帥権問題を調整しなかったために戦争が起きた、としています(前掲 中曽根 p.69~70)。

ジョン・ロックを読んでいて、つくづく感じます。日本はやはり特殊な国です。もちろんジョン・ロックの言説が世界標準として場合ですが・・・。

自由、平等の自然法もそうですが、『統治二論』の「後編 政治的統治について」での征服、簒奪(さんだつ)、暴政の章になると、島国の私たちにはアニメの世界のようで想像すらできない世界になります。

私たちは国体を大切したい、しかしグローバルな世界で生きていくためにそれなりの戦略が必要である、日本国憲法の改正は必須としても、それ以降は難しいことになりそうです。

日本人は鎖国をしたがります。それではだめです。

平和憲法は世界に冠たるものだ、の主張もダメ、国力以上、世界の潮流を外れています。

軍事予算はGDPの2%、NATOの国々と同じように、こちらの方が当たり前です。

だから憲法改正

「やっぱり僕は 人にもまれて 皆の中で生きるのサ」。

国際社会にもまれて生きていかないと。

 

以上。