加藤和彦はなぜ自殺したのでしょうか。それを考えると悲しい。

THE TED TIMES 2024-34「加藤和彦」 8/26編集長 大沢達男

 

加藤和彦はなぜ自殺したのでしょうか。それを考えると悲しい。

 

1、吉田拓郎

何もかもが 終わって 今日が来ました

バイ バイ バイ バイ 今日のすべて バイ バイ

吉田拓郎 「自殺の歌」 から)

吉田拓郎(1946~)を時代のスターにのし上げた、「結婚しようよ」が入っている『人間なんて』(よしだたくろう ELEC 1971年)という、LPアルバムがあります。

そのなかに、場違いなほどに暗い、「自殺の歌」があります。

でもこの曲には、遊びやキャッチーな狙いではなく、吉田拓郎の本音があります。

それは、LPのなかに同系列の名曲「どうしてこんなに悲しんだろう」がある、ことでわかります。

まあそれはそれとして、驚くべきことは、これらの曲のディレクターが加藤和彦(1947~2009)であることです

加藤和彦の名はギタープレーヤーとしてもあり、いま挙げた3曲でいずれもギターを弾いています。

加藤和彦は、24歳のときに編曲し演奏した「自殺の歌」によって運命を決めてしまい、62歳で自らの命を絶ってしまいました。

 

2、ミカ・安井かずみ中丸三千繪

映画『トノバン 音楽家 加藤和彦とその時代』(相原裕美監督 2024年)のなかで、加藤をいちばんよく理解していた「フォーク・クルセイダーズ」のメンバーで、その後精神科医・臨床心理学者になった北山修(1946~)が語っています。

加藤和彦は才能はあったけれど、生涯『加藤和彦』を演じていたのではないか(演劇的人間)」

やっぱりそうだった、のかと思います。

太宰治です。『人間失格』です。

演劇的人間はいつも身近に観客を必要とし、それを恋人にします。

そして恋人が母親となって「エディプスコンプレックス」(注:オイディプスは父親を殺し母親と結婚している)を満たすものになります。

さらに演劇的人間はしっかりした構造の人格を持っていません。その心的構造は柔軟ですが、無規範で人生の価値を認めないところがあります。

音楽の天才加藤和彦はこうした演劇的人間でした。

1)ミカ(1949~)

映画の中で、加藤和彦と一緒だった音楽プロデューサーの新田和長(1945~)が語ります。

<ミカが加藤君に茶目っ気で「ロールス買って」と言います。

すると加藤君はミカを驚かせようと、ほんとにロールスロイスを購入します。

しかしロールスは背が高くて駐車場に入らない。

そこで麻布の一軒家を借りるんです。

家賃45万円(現在の価格で250~300万円)で8部屋もある、豪邸ですよ>

ミカとはサディスティック・ミカ・バンド福井ミカです。

加藤とは1970年に結婚し、1975年に離婚しています。

ミカはロンドンでプロデューサーのクリス・トーマスと恋に落ち同棲を始めてしまったのです。

その後のミカは、1984年にクリスと破局、1985にはイギリスへの永住権を取得、料理学校に通い、87年に帰国、現在でも料理研究家として活躍しています。

加藤和彦は最初の恋人と最初の「母親」をイギリス人に奪われています。

2)安井かずみ(1939~1994)

福井ミカを失ったあとに加藤和彦は、8歳年上の安井かずみと知り合い1977年に結婚します。

安井かずみは、伊東ゆかり恋のしずく」、小柳ルミ子「私の城下町」、沢田研二「危険なふたり」、郷ひろみよろしく哀愁」を書いた、才能です。

安井かずみは飯倉片町「キャンティ」に集まるセレブのひとりでした。

まわりには、加賀まりこ野際陽子コシノジュンコ金子国義、さらには付き合っていた角川春樹がいました。

加藤和彦は、京都の材木屋の娘・ミカからフェリス出身のセレブ・安井かずみへ、とその恋人、「母親」を変えます。

映画には描かれていませんが、安井かずみ加藤和彦の浮気を許さず、自殺を試みています。

自らの「母親」に自殺しようとされた加藤和彦は戸惑いました。

その付き合いは1994年まで死ぬまで続きます。

話の本筋とは外れますが私は、加藤和彦安井かずみの「ヨーロッパ3部作」を、偏愛しています。

3)中丸三千繪(1960~)

加藤和彦は最後に世界的なプリマドンナ・ソプラノ歌手中丸三千繪にたどり着きます。

1995年から2000年の間結婚しています。

中丸三千繪は、1986年に小澤征爾の指揮でデビューし、1988年に「ルチアーノ・パパロッティ・コンクール」で優勝し、1990年にイタリア人以外で初めて「マリア・カラス・コンクール」での優勝者しています。

加藤和彦は、六本木のセレブ・安井かずみから世界のプリマドンナ中丸三千繪へ、その恋人、「母親」を変えています。

・・・でもどうでしょう。

ヴェルサイユ宮殿のダイアナ妃の前で歌うような中丸三千繪に、加藤和彦は全ての点で負けていて、話が続かなかったのではないでしょうか。

 

3、泉谷しげる

今日ですべてが終るさ 今日ですべて変わる 今日ですべてがむくわれる 今日ですべてが始まるさ

(「春夏秋冬」から)

映画の中で、加藤和彦にはふさわしくないような、泉谷しげるが登場し、延々と語ります。

理由があります。泉谷しげる(1948~)のLPアルバム「春夏秋冬」(泉谷しげる ELECレコード 1972年)を、なんと加藤和彦がプロデュースしているからです。

<歌うな、怒鳴るな、ただ淡々と歌え、と言うんだよ><戸惑ったよ><でもその方がかっこいい>。

加藤和彦のアドバイスで、「春夏秋冬」はシングルとではまるで違う曲になって、アルバムに収められています。

<今日ですべてが終わるさ 今日ですべてが変わる>

「春夏秋冬」でも加藤和彦は、自らの運命の未来を決めてしまっていました。

加藤和彦は、毎日一幕ものの「加藤和彦」を演じ続け、散り枯れてゆきます。

三島由紀夫の謎の死に対して石原慎太郎の冷酷な指摘があります。

<僕は三島さんの創造力がここまで枯渇しているとは思わなかった。最近作は昔の自分の作品の真似をしているんだ>

加藤和彦の創造力は枯渇していなかったでしょうか。それより仕事の依頼がなくなっていました。

時代は、小室哲哉安室奈美恵宇多田ヒカルミスターチルドレンへとバトンタッチされていました。

<世の中が音楽を必要としなくなり、もう創作の意欲もなくなった。死にたいというより、消えてしまいたい>(加藤和彦の遺書より)。

それでも加藤和彦は、みんなが集まれば100万円の赤ワインを気前よく振る舞う、「加藤和彦」を演じていました。

40年近く前に演奏した「自殺の歌」と「春夏秋冬」が、死の影のある「加藤和彦」を演じる、加藤和彦の運命を決めていました。

自殺を決意した加藤和彦にやさしい言葉をかける「恋人」はいたのでしょうか。

自殺しようとする加藤和彦をきびしく叱りつける「母親」はいたのでしょうか。

悲しい限りです。

***

電通のCMプランナーであった私は、映画に出てくる音楽プロデューサー牧村憲一(1946~)と大瀧詠一やセンチメンタルシティロマンス、そしてデビュー直前の竹内まりや(1955~)と仕事をしました。

70年代のことです。

しかし偶然、加藤和彦とは仕事をしていませんでした。

いや声をかけられませんでした。よほどの仕事でなければ頼めない、やはり・・・加藤和彦はカリスマでした。

ご冥福をお祈りします。

 

END

 

 

映画『ポトフ』は、「料理のフランス革命」を描いたから、すごいんです。

THE TED TIMES 2024-33「ポトフ」 8/19編集長 大沢達男

 

映画『ポトフ』は、「料理のフランス革命」を描いたから、すごいんです。

 

1、映画『ポトフ』

私は2023年のベスト・ムービーに『ポロフ』(トラン・アン・ユン監督 フランス 2023年)を選びました。

まず巧みなカメラワーク、次にその色彩、そして音楽をつけない・・・映画を発明しているから、さらに美食家ドダンと天才料理人ウージェニーの絆と愛の描き方が気に入ったからです。

しかしいまになって「フランス料理の精神史」(橋本周子関西学院大学准教授 日経7/3~7/31全4回)を読み、私は映画『ポトフ』を全く理解していないと、気がつきました。

映画『ポトフ』は、「料理のフランス革命」を描いていたからです。

『ポトフ』がベスト・ムービーであること撤回するつもりはありませんが、このことを橋本准教授に従って説明します。

 

2、フランス料理

1)グルマンティー

グルマンティーズ(仏:gourmandise)とは「おいしいもの」、「おいしいものずき」という意味です。

ちなみに、「ガストロノミー」(仏:gastronomie 英:gastoromy)とは美食学、食事を文化や芸術の域までに理論展開することです。

「グルメ」(仏・英:gourmet)とは、古くはワイン鑑定家、現在では食通、美食家のことです。

グルマンティーズはもともと「大食」を意味し、中世のフランス、ヨーロッパでは「大罪」の一つでした。

「グラ」はラテン語の「喉」です。

しかしおいしいものを食べたいという欲求を抑えることは難しい。ですから食欲を解放する祝祭がありました。

そして中世から近代への時代と共に、グルマンティーズは「罪」ではなくなり、ポジティブな美食の意味に変わっていきます(橋本 日経7/3)。

2)砂糖

『旅サラダ』という日本の各地のおいしいもの巡りをするテレビ番組を見ていればわかりますが、おいしいものは「あぶらがのってる」あるいは「あまい」と表現されます。

タレントさんが、お刺身を食べて「あぶらがのってますね」、果物を食べて「あまい」とほめるようにです。

このことを橋本准教授は<野菜や米、なんであれおいしいと感じればその味わいを「甘い」と表現してしまうほど人間は甘みに弱い>(日経7/10)と表現しています。

むかしのヨーロッパにあった甘味は、果実やハチミツだけで、砂糖はありませんでした。11世紀の半ば以降砂糖が、十字軍によって原産地・南太平洋からアラブ地域を経由して、ヨーロッパに持ち込まれます。

衝撃でした。

はじめ砂糖は、消化薬、風邪薬、目に効く万能薬、そのうちワインに混ぜ「イポクラス」、そしてフランス菓子の「ドラジュ」になり、王侯貴族の食卓に薬的なものとして流行るようになります。

砂糖を使った食べ物は食事の最後に、中世では「イシュー(出口)」と呼ばれ、今日の「デザート」になります。

背徳的な甘さ、これが中世の密やかな砂糖の喜びでした。

3)ルイ14世フランス革命

「大膳式」があります。国王がたくさんの人の前で、大量に驚くほどの量を食事をする、見世物です。

ルイ14世は、4種類のスープ、キジ1羽、ヤマウズラ1羽、サラダ山盛り、煮込んだヒツジ肉、ハム2切れ、パティスリー、コンフィチュール山盛り1皿を一人で食べた、と伝えられています(橋本 日経7/17)。

しかし時代はまだ「大食い=いけないこと」でした。

そこで開発されたのがテーブルマナーです。

フォークは17世紀にイタリアからフランスに輸入、料理の配置法、給仕の方法、会食者の座席の配置などが決められていきます。

1789年のフランス革命で、食べるの主役は王侯貴族から、市民に変わります。

貴族お抱えの料理人は職を失い、街に出て店を開くようになり、レストランという外食産業が始まります。

そして「ミシュランガイド」の先駆のような「美食家図鑑」が出版され、新興富裕層が、グルメガイドを手に、不慣れなテーブルマナーで、ご馳走にありつくようになります。

そして快く、楽しく生きるために食べることの哲学を説いた『美味礼讃』(ブリヤ・サヴァラン)が生まれることになります(橋本 日経7/24)。

グラマンティーズは罪ではなくなります。

 

3、料理のフランス革命

以上はフランス料理の歴史です。ホテルのレストランの高級フレンチのコース料理です。ミシュランを飾るレストランのフランス料理です。

映画『ポトフ』はこれに反乱を起こしました。

美食家ドダンは、ユーラシア皇太子の晩餐会での料理にうんざりし、「ポトフ」で皇太子をおもてなしすることを思いつきます。

「ポトフ」は王侯貴族のフランス料理ではない、もう一つの古くからあるフランス料理でした。

「ポトフ」(仏:pot-au-feu=火にかけられた鍋)は、野菜と肉の煮込み、名もない当たり前の食事でした。

「ポトフ」は17世紀のピーテル・ブリューゲル(子)の「農家の訪問」という絵画に描かれている大きな鍋料理です(日経7/31)。

「ポトフ」は、だれにも真似ができない、その土地に根ざすものだけが作り、味わうことができる、フランス国民のアイデンティティーでした(橋本 日経7/31)。

バルティーユ牢獄でアンシャン・レジームを倒したのが1789年のフランス革命なら、美食家ドダンは、中世以来の農村の料理「ポトフ」で19世紀末のうんざりする王侯貴族のフランス料理を、打ち倒しました。

映画『ポトフ』は、「料理のフランス革命」を描いた映画でした。もちろん「政治の革命」のように「料理の革命」は成功しませんでしたが、特筆すべき「反乱」になりました。

カンヌ国際映画祭での監督賞に輝くトラン・アン・ユン監督の映画『ポトフ』を、私だけでなく、日本映画界も理解できませんでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

歴史学者ではない「歴史家」・井沢元彦の話を聞いてみましょう。

THE TED TIMES 2024-32「井沢元彦」 8/12 編集長 大沢達男

 

歴史学者ではない「歴史家」・井沢元彦の話を聞いてみましょう。

 

1、穢(けが)れと禊(みそぎ)

1)イザナギ

日本の天皇は穢れと禊から生まれました。

イザナギは亡くなったイザナミを求めて黄泉の国に行きます。

ところがイザナミの体には蛆虫がわき腐っていて、やむなくイザナギは地上に戻ります。

そしてイザナギは穢れを落とすために禊をします。

禊とは清らかな水につかることで、穢れを洗い流すことができます。

イザナギは筑紫野日向の清流に身を投じ禊をします。

そのとき左目をこすったときに生まれたのがアマテラスで、右目から生まれたのがツクヨミ、鼻をこすったときに生まれたのがスサノウです。

アマテラスの父はイザナギで母はイザナミです。

2)アマテラス

天皇の祖先であるアマテラスは、からだを交らわせることのない「神事=誓約(うけい)」によって誕生しました。

清らかなことは尊いことです。天皇家は神々の子孫の中で最も尊い血筋なのです。

重要なのは、穢れは悪であり、罪であり、過ちであり、不幸であることです。

穢れの発生は、人間の死、動物の死、それを連想させる「血」に関わるものからです。

お清めの塩が配られるのは、葬儀に参列した人は穢れているから、清めなければならないからです。

3)持統天皇

天皇であっても死ねば穢れをもたらす存在でした。穢れは全て捨てるの観点から、天皇が代替わりするたび、宮殿は捨てられ遷都をしていました。

藤原京以前の日本では天皇一代ごとに、一代の中でも複数回遷都がされていました。

さらに古代の古墳は堀に囲まれています。穢れを避けるためにです。

694年持統天皇藤原京に首都を固定します。持統天皇は自らの遺体を火葬することで、穢れ忌避信仰から逃れ、遷都は行われなくなります。

 

2、怨霊(おんりょう)

1)オオクニヌシ

怨霊とは、怨念を抱いたまま亡くなった人の死穢(しえ)から発生する穢れです。怨霊を鎮魂するために神として祀るのが「怨霊信仰」です。

日本最初の怨霊神は大国主命オオクニヌシ)です。出雲族と大和族の戦いで、先住民の出雲族であるオオクニヌシは亡くなります。

大和族はオオクニヌシが怨霊とならぬように出雲大社を造り祀りました。

2)崇徳天皇

崇徳天皇という怨霊神もあります。

崇徳天皇鳥羽天皇の子ですが、実は父の白河天皇鳥羽天皇の妻の藤原彰子(しょうし)に生ませた子でした

白河天皇の死後、鳥羽天皇は自分の子を天皇にしようと崇徳天皇をいじめ抜き、退位させ近衛天皇を誕生させます。

近衛天皇が早逝すると、崇徳天皇は自らの子を天皇にしようとします。

しかしまた鳥羽上皇が邪魔に、彰子の子である後白河を皇位につけようとします。そして後白河派と崇徳派の保元の乱が起こります。

敗れた崇徳上皇は島流、その息子は出家させれます。

太平記』に登場する崇徳天皇は日本で最強の怨霊です。

明治天皇は即位の前に、四国山中にある崇徳天皇の御陵に勅使を送り鎮魂しています。

あなたをここに流したことは間違いであった。お許しください。新しい朝廷を守ってください。この記述が宮内省(当時)に残っています。

3)菅原道真

平安時代菅原道真は、頭の良い人物で右大臣でしたが、藤原氏の陰謀により太宰府に左遷され失意のままに亡くなります。

道真の訃報の後、清涼殿に雷が落ち、公卿二人、藤原氏一人が亡くなります。

道真の怨霊を遅れた藤原氏は、道真を太政大臣正一位に昇進させ、さらに「天満大自在天」という神として祀ることにします。

4)諡(おくりな)

崇徳上皇」、「鳥羽天皇」、「後白河天皇」。すべて生前からの名前ではありません。諡です。死後にその業績に対して贈られた名前です。

 

3、和

1)話し合い絶対主義

聖徳太子が制定した憲法17条の第1条にあります。

「一に曰(いわ)く、和を以て貴しとなし・・・」。(おたがいの心が和らいで協力することが貴いのであって、むやみに反抗することのないようにせよ)。

聖徳太子は、仏教の教えより、天皇の命令に従うことよりも、和を保つことが大切だ、と言っています。

「話し合い絶対主義」です。

21世紀の今もそうです。「みんなで決めた」ことが大切で、反対意見は許されません。

ノーベル賞受賞の真鍋淑郎は同調圧力ために国を捨てました。

2)言霊(ことだま)

言霊とは言葉にすればその通りに現実が進むという信仰です。

たとえば、行き過ぎた差別語反対運動です。

卑弥呼(ひみこ)は、称号で、実名ではありません。それも「日御子(ひみこ)」か「日巫女(ひみこ)」だった思われます。中国人が「卑弥呼」の字をあてたのでしょう。

言霊信仰からすれば、言えば起きる、書けば現実に起きる、のです。

福島で「メルトダウン」の可能性は報道されませんでした。

日本は必ず勝つ、絶対に負けない、と信じて戦争は続けられました。

3)歌御会始

これは言霊のいい面です。歌御会始の起源は亀山天皇の1267年にあり、江戸時代もほぼ毎年開かれていました。

万葉集は世界の文化遺産と呼ぶにふさわしいものです。

「日本には和歌の前に平等があります」(渡部昇一)。

誰の言葉にも言葉には霊力がある「言霊信仰」があります。

***

以上は、『真・日本の歴史』(井沢元彦 幻冬舎)から、大沢が気に入ったところだけの要約です。

日本基準の穢れも、禊も、怨霊も、和も、話し合い絶対主義も、言霊も、世界基準ではありません。

現在の世界基準は、西欧キリスト教徒が作った、コミュニケーション、ネゴシエーション、プレゼンテーションの人権、自由、平等です。

私たちは、日本基準の歴史と伝統を守りながら、国際社会では世界基準で行動しなければなりません。

映画『WALK UP』のような作品を、私も、作りたかった。

THE TED TIMES 2024-31「WALK UP」 8/5編集長 大沢達男

 

映画『WALK UP』のような作品を、私も、作りたかった。

 

1、映画『WALK UP』

なぜ『WALK UP』に関心をもったのかはわかりません。なにかに引き付けられるようにして、映画館に行きました。

映画館に入ってからも、つまらない映画だったかどうしよう、やっぱりちゃんと映画評を調べてから来るべきだった、と反省していました。

だいたいからして、ベルリン国際映画祭銀熊賞5度受賞の名匠ホン・サンス監督の映画なんて、見たこともないくせに映画館にいるんですから。

しかしすべては杞憂(とりこし苦労)でした。映画が始まって10秒で私は、映画が気に入っていました。

タイトルの出し方がおしゃれだったから。別にどうってことないハングルのタイトルだったのですが。

2、私が好きな理由

まず舞台設定がいいです。4階建てアパートのワンフロアごとに、話が進んでいきます。

「WALK UP」とは「上る」ことです。

カメラは、基本的にアパートの中の部屋、気休めのようにビルの前の道路が映るだけです。

登場人物も限られています。

主人公の映画監督・ビョンス、その娘でインテリアの仕事を志願するジョンス。

アパートのオーナー・ヘオク(地下に仕事場)。1階のレストランの店主・シェフのソニ、店員のジュール。2階はソニの料理教室、3階はソニの住まい、そして4階は不動産屋のジョンです。

つぎにカメラワークが気に入りました。

テーブルを挟んで左にビョンス、右にヘオクとソニ。白ワインを飲みながら、取り止めのない会話をする3人を写します。1分、2分・・・5分でしょうか、10分でしょうか。

カメラは全く動きません。

話の内容は、表現のことや映画作りのこと、取り留めのない・・・でも退屈しません。

そしてもう一つこの映画が好きな理由。

主人公の映画監督・ビョンスはモテることです。

3階のソニとも4階のジョンとも監督は、期間を隔ててですが、同棲します。

ベッドシーンはありません。

「監督みたいなトシで、アレが好きな人は、めずらしい」。「高麗人参食べて!そー、よく噛んで食べなければだめよ」。

ジョンと屋上で焼肉を食べながらのシーンです。

このカットの終わりは、「部屋でマッサージしてあげるから」。またまた、よだれダラダラです。

3、映画の発明

なぜ『WALK UP』か?一言で言えば「ぼくもこんな映画作りたかった」、「映画を発明しようとしている」からです。

長回しは、エイゼンシュタインのアンチテーゼです。エイゼンシュタインは1~2秒の静止画の連続を、モーション・ピクチャーにしました。

『WALK UP』のカットは長い。

同じ長いカットでも溝口健二とはまるで違います。溝口には奇跡のカメラワーク、ライティングがあります。

対して『WALK UP』ではカメラワークがありませんが、言うなれば心的風景がダイナミックに動く、モーション・ピクチャーです。

そして『WALK UP』は、抽象度が高い。

4階立てのアパートを動かない。まるで演劇の舞台。しかも画面から色彩を奪いました。ビジュアルをあくまでもストイックにして、登場人物の心を描こうとしました。

ただし残念。ひとつ失敗があります。映画の時系列の「WALK DOWN」(下がる)が不明確、映画『ポトフ』のように処理していれば・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

<問題は検察庁が「超ドメ(極端に国内指向の)官庁」で、国際政治の現実がわからない>(『国家の罠』 p.292 佐藤優 新潮文庫)

THE TED TIMES 2024-30「佐藤優」 7/27 編集長 大沢達男

 

<問題は検察庁が「超ドメ(極端に国内指向の)官庁」で、国際政治の現実がわからない>(『国家の罠』 p.292 佐藤優 新潮文庫

 

1、東京地検特捜部

法律の専門家でもない私が、東京地検特捜部のやることには、いつも違和感を抱いてきました。

そしてホリエモン堀江貴文)の「特捜部はスタンドプレーが好きだ」の発言により、違和感は特捜部への大きな疑問になってきました。

そして佐藤優の<検察庁は超ドメ官庁>で特捜部への疑問は確信になりました。

現在、2020東京五輪汚職事件が東京地検特捜部により摘発され裁判が進行中です。

このことによる国益の損失は計り知れないものがあります。

まず万博が迷走しています。そして札幌五輪は開催の機会を失っただけでなく、いつ開かれるのか五里霧中の段階にあります。

1970年の万博は、巨大なテーマパークのファミリー・エンターテイメントになり、日本人を元気にしました。しかし大阪万博はいまややっかいものでしかありません。

1972年の札幌ではジャンプ競技での日の丸飛行隊の活躍がありました。しかし札幌五輪2030は断念、ウインタースポーツのかける若者たちのすべての夢は奪われました。

何故こんなことが起きるか。検察庁が、国際政治だけでなく国際スポーツの世界が分からない、<超ドメ官庁>だからです。

 

2、角栄、オリエモン、ゴーン

1)田中角栄

始まりは、ロッキード事件(1976年)です。

元総理大臣の田中角栄が、全日空の旅客機選定にからみ、東京地検特捜部から受託収賄外為法違反で逮捕されました。

まず、受託収賄は、請託の有無、職務権限があるか否か、金銭の授受があったか、で決まります。

次に、ロッキード社のコーチャン、クラッター、エリオットの嘱託証人尋問調書は、反対尋問を受けずに作成されました。認められません。

でもこれらは、ささいな法律論争でしかありません。

真相は、キッシンジャーの陰謀説。キッシンジャーの邪魔者・田中角栄を追放することに、日本の検察庁が協力したことです。

さらに馬鹿げているのは、日本政府は、元NHK解説委員の平沢和重を使い日系人アメリカ情報将校(スパイ)から情報を集めていました。NHKで働いていたフランク・馬場です。

2)ホリエモン

2006年東京地検特捜部は堀江貴文証券取引法違反で逮捕しました。

驚きは逮捕の2日後に、英国の経済紙「フィナンシャルタイムズ」が、ホリエモンの支持の論説を掲載したことです。

<堀江氏は、まず官僚主義と慣行主義を打ち破るヒーロー、つぎに金融市場のルールの不備をあぶり出している、そして古い経営者にやる気を起こさせている。>、<捜査のいかんにかかわらず、日本には堀江氏が必要である>というものです。

なぜ特捜部はホリエモンの逮捕したのでしょうか。「稼ぐが勝ち」と宣言した堀江貴文を道徳的に許せなかったからです。

3)カルロス・ゴーン

2018年東京地検特捜部は元・日産自動車会長カルロス・ゴーンを、金融取引法違反(有価証券報告書の虚偽記載)、特別背任で起訴しました。

しかし真相は日産の一部経営陣と検察庁が組んだ、ゴーン氏追放のクーデターでした。

日産のだれもが、ゴーン氏とディスカッション、ディベートできなかった、のです。

新しい上司はフランス人/ボディランゲージも通用しないウルフルズ 2001年)

缶コーヒー「ジョージア」のCMそのものでした。

ゴーンは保釈中に密出国し、レバノンで暮らしています。

特捜部は自らの無能と日本人の無能を世界に宣伝しました。

 

3、東京五輪汚職

2022年東京地検特捜部は、元電通東京オリンピック組織委員会高橋治之理事を、収賄で逮捕しています。

高橋はコンサルティング会社を経営していて、その会社のコンサル料として様々な会社から収益をあげていました。それが収賄とされました。

理事はみなし公務員だからというものですが、高橋は理事就任時に兼業の有無を問われていません。さらに高橋のような非常勤理事には職務権限に関する明確な規定はありませんでした(日経 2022.9.7)。

弁護士の広中淳一郎は「特捜の暴走」と決め付けています。さらに特捜への疑問を提出する報道は、2022年9月から一切ありません。司法記者クラブを通じて言論統制が行われています。

検察は2013年の東京五輪プレゼンテーションの歴史的勝利と2022東京五輪の意義を全く理解できていません。

さらに金にならないアマチュアスポーツとその国際的人脈を育ててきた電通の半世紀以上の企業努力をまったく理解していません。

FIFA国際サッカー連盟)とIOC国際オリンピック委員会)、ワールドカップとオリンピック、アングロサクソンが築き上げたビジネス・モデルをわかっていません。まさしく検察庁は「超ドメ官庁」です。

512日間の独房生活を送った佐藤優人質司法に対して以下のように文章な残しています。

「先生(注:佐藤担当の弁護士)法曹村の掟とは別次元の話です。国際スタンダードで私に言っていることは筋が通っています。一見、法律家には馬鹿げて見えることでも、ここで筋を通しておけば、後で必ず役に立ちます。この経緯をきちんと残し、ロンドンのアムネスティインターナショナル本部に送り、日本の人質裁判が国際人権スタンダードからいかにずれているかを訴えれば、それなりの効果はあります」(『国家の罠』 p.476)。

この記述を受けるような形で、東京地検特捜部から、五輪汚職で逮捕され起訴された角川歴彦は、人質司法日本国憲法と国際人権法に違反するとして国を相手に「人質司法違憲訴訟」を提起しました。

佐藤優は極めて特殊な例として、拘置所生活を220冊の読書で「エンジョイ」しましたが、常人には耐えられるものではありません。

80歳の角川歴彦は、突然の逮捕、起訴、長期勾留、保釈まで、基本的人権と尊厳が人質司法という公権力の制度のよって侵害された、と訴えに出ました。

佐藤優東京地検特捜部の国策捜査を説明していますが、よくわかりません。それより、検察庁は「超ドメ官庁」の方が説得力があります。

 

 

 

 

 

 

電通の先輩。吉武敏雄を追悼する。

THE TED TIMES 2024-29「吉武敏雄」 7/20 編集長 大沢達男

 

電通の先輩。吉武敏雄を追悼する。

2024.7.6   大沢達男

 

1、1995年

1995年に阪神・淡路大震災がありました。

(株)綜研の社長・吉武敏雄(電通OB)から、被害を受けた電通の社長・成田豊にお見舞いの手紙を書いてくれ、とういう依頼を受けたました。

私は、綜研に出入りするフリーのクリエーターで、ウェブ・サイトの設計や、社名変更のクリエーティブ作業の依頼を受けていました。

見舞いの手紙に何を書いたか、はっきり覚えています。

<1923年の関東大震災のときには、東京の新聞社が被害で機能不全に陥った。その隙を狙うように大阪に本社があった朝日新聞毎日新聞が東京に進出してきた。

つまり震災を境に日本のメディアの状況は変わり現在まで続いてきている。>

<1995年の阪神・淡路大震災で何が起こったか。災害で様々なメディアが機能を失う中で、インターネットが存在感を示した。またしても震災を境にメディアの状況は根本的に変わることが予想される。>

<人的、物的の多大な被害にお見舞いを申し上げますが、災い転じて福を成すの言葉の通り、困難の中にあっても社業の新しい発展を願って止みません。>

以上の内容です。

実際に歴史はその通り動きました。1995年はウインドウズ95の年で、インターネット元年と呼ばれるようになります。

吉武社長は、私の書いた手紙の原文を見て

「ホントか?、お前!」

笑いながら、OKを出してくれましたが、我ながらよく書けた手紙でした。

 

2、レナウン

なぜ私と吉武敏雄が知り合いになったのか。

電通時代のレナウンの仕事を通してです。

吉武は営業部長としてレナウンという金鉱になるクライアントを掘り当てていました。

代理店の人間としては不遜な言い方ですが、レナウンを日本を代表する広告主に育て上げた、と言ってもいいでしょう。

レナウンは、日曜洋画劇場のCMで、世の中を動かしていました。最小に費用で最大の効果を上げていました。

レナウンには今井和也という宣伝部長がいました。

CMソングで一世を風靡した「ワンサカ娘」、吊るしのスーツに市民権を与えた「アラン・ドロンのダーバン」、アメリカン・ファミリー・カジュアルの新しい流れ作った「アーノルド・パーマー」、イージー・ライダーピーター・フォンダビートルズリンゴ・スターが登場したヤング・カジュアル・ファッションの「シンブル・ライフ」などなど、レナウンのヒットCMは全て今井和也の下で製作されたものです。

私は、ダーバンのMA(映像と音楽の合成)に立ち合い、「パーマー」、「シンプル・ライフ」、女性ファッション「レリアン」のCMを制作していました。

電通の吉武とレナウンの今井は、仕事を超えての親友でした。

酒飲みでもない二人はなぜ親友だったのか。

まず同い年(多分)。つぎに二人とも少年期に大陸(中国)で過ごしていました。そして「インテリ・ヤクザ」だったからです。

吉武は超エリートの東京高等師範附属(現在の筑波大附属)から、早稲田のフランス文学の作詞家・西条八十のもとに走った、「へそ曲がり」。

今井は東大で学びながら、学生新聞で大江健三郎の小説の挿絵を描いた、絵画と映画が好きな「変わり者」でした。

ただ二人は挫折していました。吉武は文学への道を諦め、今井は映画監督試験で失敗していました。

ともにビジネス・パーソンとして成功した二人に挫折は失礼ですが、その青春の蹉跌がなんとなくいいんです(二人の同時代には、一つ年下ですが石原慎太郎五木寛之が。大江健三郎は四つ下です)。

レナウンの成功は、紛れもなく今井と吉武のパートナーシップの産物です。

私は今井和也という先輩をよく知りませんでした。

若かった(あおい)私は圧倒的な自信で、偉大な先輩たちを知ろうともしませんでした。

「「30(歳)以上を信用するな」。

ロックという「ミュージック」、ロング・ヘアにジーンズという「ファッション」、軽佻浮薄(軽々しく浅はか)の「テレビ」。私は3つの武器を持ち、肩で風を切って歩いていました。

しかし逆に今井和也は、私という人間の隅から隅まで、知っていました。

アイディアを発言する私、プレゼンテーションをする私、最新のスポーツカーに乗る私生活の私・・・。

自分自身も優れたクリエーターであり、過去に日本を代表するクリエーターたち仕事をしてきた今井には、12歳年下の私の才能がどの程度のものか、はっきり見えていました。

オオサワは使えるか。オオサワに個性があるか。オオサワは新しいか。ブッチャケ、オオサワと若かった頃のオレと、どっちが上か。

 

3、オオサワ

吉武とはいろいろな仕事をしました。

電通ではレナウン電通東日本(アド電通)ではトイザラス、オペルのプレゼンテーション。

そして綜研(ナスビイ)ではトヨタ初のウェブ・サイトの設計制作。歴史的な創刊の『中国富力』の序文も書きました。

さらに吉武が引退した後にも、熊本・オニザキの「ゴマ」、シニア向けファッション「セカンド・キッス」の仕事をしました。

そしていま訃報に接して、私は大きな疑問に取り憑かれています。

なぜ吉武は私を起用したのか。なぜ私をクリエーターとして使ったのかです。

吉武は営業で、クリエーターとしての私の力量など、知るわけがありません。

事実、吉武は私の提案やアイディアに対して、冒頭で触れた電通社長・成田豊への手紙のように、ノーを言ったことがありません。細かい直しすらしません。

そしていまひとつの答えにたどり着きます。

オオサワを使えと言ったのは今井和也ではないかと。

<オオサワを使え、必ず化ける、彼を救ってやってくれ。でもこれは秘密だ。私の立場からこんなことは言えない、差し障りがある。>

クライアント今井の言うことを代理店の吉武は愚直に実行しました。

もしそうだとすると・・・私は恥ずかしくて、鳥肌が立ち、寒気すらします。

今井和也と吉武敏雄の二人の先輩の期待に全く応えていない。

でも墓前に報告します。

吉武敏雄先輩、期待に添えなくて、申し訳なく思っています。

しかし、オオサワは80歳になりましたが、まだ終わっていません。それどころか、まだ始まってもいません(笑)。

本日(2024.7.6)の鎌倉湖墓苑の墓参には、チョウ・ホウカ、ゴン・リズン、山本起生、大沢達男の4名で参りました。

他の3名に、吉武先輩に特別ご報告することがあるか、と聞きましたら「まだ始まっていない」でいい、ことになりました(困ったものです。笑)

 

ご冥福をお祈りします。

合掌。

 

<追伸>

吉武さん。以前プレゼントで差し上げた「アップルマークのベースボールキャップ」を天国にお持ちいだだけましたか。

今井さんの前でかぶって見せてあげてください。きっと今井さんは興味津々になります。

「ヨシタケさん、その帽子どうしたの」

「えっ?オオサワちゃんが、サンフランシスコ・クパチーノのアップル本社で買ってきてくれたって?」

「オオサワちゃんは、アップル本社でスティープ・ジョブズへの面会を断られ、写真だけと食い下がったけど、それも断られったって、おもしろいな・・・」

「ボクもその『アップル・マークのベース・ボール・キャップ』欲しいな」

 

END

 

 

 

 

いまだって慎一郎は生きている 短歌を壊し再生させた(達男)

THE TED TIMES 2024-28「萩原慎一郎」 7/13 編集長 大沢達男

 

いまだって慎一郎は生きている 短歌を壊し再生させた(達男)

 

1、口語短歌

 

抑圧されたままでいるなよ ぼくたちは三十一文字で鳥になるのだ

 

路上音楽家の叫び虚しく誰ひとり立ち止まることなく過ぎるのみ

 

家にいるだけではだめだ ぼくたちは芭蕉のように旅人になれ

 

まだ結果だせず野にある自販機で買いたるコーラいまに見ていろ

 

内部にて光り始めて(ここからだ)恋も短歌も人生だって

 

蒼き旗振り廻すかのように歌 僕の叫びを発信したり

 

空を飛ぶための翼になるはずさ ぼくの愛する三十一文字が

 

文語崩しの口語短歌を作るべく日々研究しているぼくだ

 

まず文語そしてハンマー手に持って口語短歌に変えていくのさ

 

いきいきと躍動をするそのこころ伝えるための口語短歌だ

 

2、非正規労働者

 

夕焼けをおつまみにして飲むビール一篇の詩となれこの孤独

 

クロールのように未来へ手を伸ばせ闇が僕らを追い越す前に

 

あの角を曲がれば そうさ 新緑に出逢えるはずと心躍れり

 

空だって泣きたいときもあるだろう葡萄のような大粒の雨

 

レインボーブリッジ渡る真昼間の空のきらきら海のキラキラ

 

街風に吹かれて「僕の居場所などあるのかい?」って疑いたくなる

 

この街で今日もやりきれぬ感情を抱いているのはぼくだけじゃない

 

傷ついてしまったこころ どぼどぼと見えぬ血液垂れているなり

 

ぼくも非正規きみも非正規秋がきて牛丼屋にて牛丼食べる

 

非正規という受け入れがたき現状を受け入りながら生きているのだ

 

3、恋愛

 

いつの日もきみの本心見えなくてジェットコースターの浮き沈みあり

 

きみのため用意されたる滑走路きみは翼を手にすればいい

 

君からのエールはつまり人生を走り続けるためのガソリン

 

天丼を食べているのだ 愛しても愛しても愛届くことなく

 

われを待つひとが未来にいることを願ってともすひとりの部屋を

 

あこがれのままで終わってしまいたくないあこがれのひとがいるのだ

 

きみじゃないきみを探すよ あの街にさよならをしてどこかの街で

 

おもいきり空に向かって叫ぶのだ 短歌が好きだ あなたが好きだ

 

好きだ 好きだ 好きだ 好きだと伝えても届かない恋ばかりしてきた

 

きみはいまだにぼくのこころが所有するプールのなかを泳いでいるよ

 

***

原慎一郎(1984~2017)はたった一冊の歌集『滑走路』(角川文庫)を残して亡くなりました。

それもまだ出版される前に、自分で選歌しあとがきまで書いて、いながらにです。

以上は『滑走路』から私が好きな歌を選んで、1)口語短歌 2)非正規労働者 3)恋愛、三つのジャンルに分けたものです。

もちろんジャンル分けは勝手に私がしたもの、このことで『滑走路』の全貌がよりはっきりした、ように思えたからです。

さらに選ぶなら、それぞれのジャンルから次の3首です。

 

まだ結果だせず野にある自販機で買いたるコーラいまに見ていろ

 

クロールのように未来へ手を伸ばせ闇が僕らを追い越す前に

 

きみじゃないきみを探すよ あの街にさよならをしてどこかの街で

 

成り上がろうとしている、潔(いさぎよ)い、萩原慎一郎が好きです。

いまだに、成り上がろうとしてあがいている、私の自分自身の姿が見えるからです。

つまり萩原慎一郎は、本の完成形が見えた時点で「結果が出た」と自らの生の使命を完遂した、と思ったかもしれません。

 

『滑走路』翼広げてきみが逝き口語短歌の星が生まれた(達男)