THE TED TIMES 2024-29「吉武敏雄」 7/20 編集長 大沢達男
電通の先輩。吉武敏雄を追悼する。
2024.7.6 大沢達男
1、1995年
1995年に阪神・淡路大震災がありました。
(株)綜研の社長・吉武敏雄(電通OB)から、被害を受けた電通の社長・成田豊にお見舞いの手紙を書いてくれ、とういう依頼を受けたました。
私は、綜研に出入りするフリーのクリエーターで、ウェブ・サイトの設計や、社名変更のクリエーティブ作業の依頼を受けていました。
見舞いの手紙に何を書いたか、はっきり覚えています。
<1923年の関東大震災のときには、東京の新聞社が被害で機能不全に陥った。その隙を狙うように大阪に本社があった朝日新聞と毎日新聞が東京に進出してきた。
つまり震災を境に日本のメディアの状況は変わり現在まで続いてきている。>
<1995年の阪神・淡路大震災で何が起こったか。災害で様々なメディアが機能を失う中で、インターネットが存在感を示した。またしても震災を境にメディアの状況は根本的に変わることが予想される。>
<人的、物的の多大な被害にお見舞いを申し上げますが、災い転じて福を成すの言葉の通り、困難の中にあっても社業の新しい発展を願って止みません。>
以上の内容です。
実際に歴史はその通り動きました。1995年はウインドウズ95の年で、インターネット元年と呼ばれるようになります。
吉武社長は、私の書いた手紙の原文を見て
「ホントか?、お前!」
笑いながら、OKを出してくれましたが、我ながらよく書けた手紙でした。
2、レナウン
なぜ私と吉武敏雄が知り合いになったのか。
吉武は営業部長としてレナウンという金鉱になるクライアントを掘り当てていました。
代理店の人間としては不遜な言い方ですが、レナウンを日本を代表する広告主に育て上げた、と言ってもいいでしょう。
レナウンは、日曜洋画劇場のCMで、世の中を動かしていました。最小に費用で最大の効果を上げていました。
レナウンには今井和也という宣伝部長がいました。
CMソングで一世を風靡した「ワンサカ娘」、吊るしのスーツに市民権を与えた「アラン・ドロンのダーバン」、アメリカン・ファミリー・カジュアルの新しい流れ作った「アーノルド・パーマー」、イージー・ライダーのピーター・フォンダとビートルズのリンゴ・スターが登場したヤング・カジュアル・ファッションの「シンブル・ライフ」などなど、レナウンのヒットCMは全て今井和也の下で製作されたものです。
私は、ダーバンのMA(映像と音楽の合成)に立ち合い、「パーマー」、「シンプル・ライフ」、女性ファッション「レリアン」のCMを制作していました。
酒飲みでもない二人はなぜ親友だったのか。
まず同い年(多分)。つぎに二人とも少年期に大陸(中国)で過ごしていました。そして「インテリ・ヤクザ」だったからです。
吉武は超エリートの東京高等師範附属(現在の筑波大附属)から、早稲田のフランス文学の作詞家・西条八十のもとに走った、「へそ曲がり」。
今井は東大で学びながら、学生新聞で大江健三郎の小説の挿絵を描いた、絵画と映画が好きな「変わり者」でした。
ただ二人は挫折していました。吉武は文学への道を諦め、今井は映画監督試験で失敗していました。
ともにビジネス・パーソンとして成功した二人に挫折は失礼ですが、その青春の蹉跌がなんとなくいいんです(二人の同時代には、一つ年下ですが石原慎太郎、五木寛之が。大江健三郎は四つ下です)。
レナウンの成功は、紛れもなく今井と吉武のパートナーシップの産物です。
私は今井和也という先輩をよく知りませんでした。
若かった(あおい)私は圧倒的な自信で、偉大な先輩たちを知ろうともしませんでした。
「「30(歳)以上を信用するな」。
ロックという「ミュージック」、ロング・ヘアにジーンズという「ファッション」、軽佻浮薄(軽々しく浅はか)の「テレビ」。私は3つの武器を持ち、肩で風を切って歩いていました。
しかし逆に今井和也は、私という人間の隅から隅まで、知っていました。
アイディアを発言する私、プレゼンテーションをする私、最新のスポーツカーに乗る私生活の私・・・。
自分自身も優れたクリエーターであり、過去に日本を代表するクリエーターたち仕事をしてきた今井には、12歳年下の私の才能がどの程度のものか、はっきり見えていました。
オオサワは使えるか。オオサワに個性があるか。オオサワは新しいか。ブッチャケ、オオサワと若かった頃のオレと、どっちが上か。
3、オオサワ
吉武とはいろいろな仕事をしました。
電通ではレナウン。電通東日本(アド電通)ではトイザラス、オペルのプレゼンテーション。
そして綜研(ナスビイ)ではトヨタ初のウェブ・サイトの設計制作。歴史的な創刊の『中国富力』の序文も書きました。
さらに吉武が引退した後にも、熊本・オニザキの「ゴマ」、シニア向けファッション「セカンド・キッス」の仕事をしました。
そしていま訃報に接して、私は大きな疑問に取り憑かれています。
なぜ吉武は私を起用したのか。なぜ私をクリエーターとして使ったのかです。
吉武は営業で、クリエーターとしての私の力量など、知るわけがありません。
事実、吉武は私の提案やアイディアに対して、冒頭で触れた電通社長・成田豊への手紙のように、ノーを言ったことがありません。細かい直しすらしません。
そしていまひとつの答えにたどり着きます。
オオサワを使えと言ったのは今井和也ではないかと。
<オオサワを使え、必ず化ける、彼を救ってやってくれ。でもこれは秘密だ。私の立場からこんなことは言えない、差し障りがある。>
クライアント今井の言うことを代理店の吉武は愚直に実行しました。
もしそうだとすると・・・私は恥ずかしくて、鳥肌が立ち、寒気すらします。
今井和也と吉武敏雄の二人の先輩の期待に全く応えていない。
でも墓前に報告します。
吉武敏雄先輩、期待に添えなくて、申し訳なく思っています。
しかし、オオサワは80歳になりましたが、まだ終わっていません。それどころか、まだ始まってもいません(笑)。
本日(2024.7.6)の鎌倉湖墓苑の墓参には、チョウ・ホウカ、ゴン・リズン、山本起生、大沢達男の4名で参りました。
他の3名に、吉武先輩に特別ご報告することがあるか、と聞きましたら「まだ始まっていない」でいい、ことになりました(困ったものです。笑)
ご冥福をお祈りします。
合掌。
<追伸>
吉武さん。以前プレゼントで差し上げた「アップルマークのベースボールキャップ」を天国にお持ちいだだけましたか。
今井さんの前でかぶって見せてあげてください。きっと今井さんは興味津々になります。
「ヨシタケさん、その帽子どうしたの」
「えっ?オオサワちゃんが、サンフランシスコ・クパチーノのアップル本社で買ってきてくれたって?」
「オオサワちゃんは、アップル本社でスティープ・ジョブズへの面会を断られ、写真だけと食い下がったけど、それも断られったって、おもしろいな・・・」
「ボクもその『アップル・マークのベース・ボール・キャップ』欲しいな」
END