コンテンツ・ビジネス塾「安藤忠雄」(2008-42) 11/18塾長・大沢達男
1)1週間分の日経、ビジネスアイとFTが、3分間で読めます。2)営業での話題に困りません。3)あすの仕事につながるヒントがあります。4)毎週ひとつのキーワードで、実力がつきます。5)ご意見とご質問を歓迎します。
1、ボクサー上がりの建築家。
東大卒や留学帰りのエリートがひしめくなかで、高卒、ボクサー上がりで、日本を代表し、世界でも有数の建築家になってしまった男がいます。それが安藤忠雄(1941年大阪生まれ)です。
少年時代の安藤は、マジ、プロボクサーでした。17歳のときに4回戦でデビューし、ファイトマネーをもらい、順調に勝ち上がっていました。なぜボクサーをあきらめたか。安藤より2歳年下のファイティング・原田の練習を見てしまったからです。原田は後にフライ、バンタムの2階級で世界チャンピオンになります。原田のスピード、パワー、心肺機能の強さ、回復力は、どれをとっても自分とは次元が違う。努力して到達できるものではない。原田の才能にKOされたのです。
しかし建築では違いました。俺流、我流、自分流の独学で、日本と世界のエリート建築家をKOしました。安藤から学べるのはなにか。それを考えてみます。
2、フットワーク(足)、ハンドワーク(手)、ブレインワーク(頭)。
1)まず足。フットワークです。安藤は22歳のときに日本一周の旅に出ています。大阪→四国→九州→広島→東北→北海道。メインの目的は日本近代建築の雄、丹下健三の作品を見ることでした。
当然のように、白川郷、飛騨高山といった日本土着の民家も安藤の目に叩き込まれます。24歳のときにはヨーロッパに行っています。1ドル=360円、ガイドブックも何もないころです。横浜→ナホトカ→シベリア鉄道→モスクワ→フィンランド→フランス→スイス→イタリア→ギリシャ→スペイン→マルセイユ→客船→ケープタウン→インド→フィリピン→横浜。メインの目的は、ル・コルビジェの建築と出会うことでした。安藤は「足」で日本と世界を学びました。
設計でも足は活躍します。表参道ヒルズの設計は同潤会アパートに住む100人近い地権者の合意が必要とされるものでした。安藤は3ヶ月に一度開かれる再開発組合との対話に、4年にわたりねばり強く足を運び、合意にこぎ着けています。
2)つぎに手。ハンドワークです。小中学校時代の安藤の遊び場は、木工所や鉄工所でした。学校から帰ってくると木工所に入り浸り、船や橋の図面を書き、木を削りだし、形にする、木工細工で遊んでいました。建築家ではなく職人の人生でもよかったと当時を回顧しています。
安藤の事務所ではパソコンの使用は制限されます。基本は手書きです。しかも建築の模型を、手作業で作る仕事が繰り返し行われています。
3)そして頭。ブレインワークです。安藤は自らの設計事務所を25名からなるゲリラ集団と言います。ゲリラとはなにか。キューバ革命をカストロとともに成し遂げたチェ・ゲバラです。つまり安藤は既成の建築と戦う革命思想を持ったテロリストです。ただし破壊だけでなく創造するテロリストです。
安藤の実質的なデビュー作「住吉の長屋」には革命思想が結実しています。生活の革命、住まいの革命です。狭い敷地は3等分され、雨が降れば傘なしでトイレにも行けず、夏の日差しは容赦なく照け、冬の寒さを防ぐエアコンも効かない住まいです。「自然の一部としてある生活こそが住まいの本質である」。これが安藤の建築を現在にまで貫く革命思想です。
3、住吉の長屋。
安藤の事務所(安藤忠雄建築研究所)に就職するためには、面接試験も、作品集・履歴書提出もありません。まず研修のアルバイト。手仕事の模型づくりや展覧会の準備の仕事をしてスタッフと働くのです。そしてサマースクール。研修期間中の土日に、京都・奈良の寺社、庭園へ通い、研究レポートを発表するのです。その結果、もっと働こうかという人が、晴れて入社(所)ということになるのです。学生はすべて「さん」づけで、紳士淑女として扱われます。大阪に宿舎もあります。学歴に無縁の安藤は、それゆえにでしょうか、後進の育成には熱心です。
ゲリラ・安藤のデビュー作「住吉の長屋」を現在、東京で見ることができます。本物の住居が、東京・乃木坂に再現されています(「ギャラリー・間(ま)」 地下鉄千代田線乃木坂駅ゼロ分 2008.12.20まで)。まずフットワークです。足で考えに行きましょう。
*『「建築家 安藤忠雄」 安藤忠雄 新潮社』を参考にしました。