美空ひばりの天才をいちばん知っていた作曲家、船村徹

クリエーティブ・ビジネス塾11「船村徹」(2017.3.13)塾長・大沢達男

美空ひばりの天才をいちばん知っていた作曲家、船村徹

1、唯一の天才
作曲家・船村徹による美空ひばりの天才発見の証言は衝撃的です。
「歌手が作家の意図を超えて歌う、つまり楽曲を作家の手から奪い取って自分のものしてしまうことが極めて稀にだが存在する。美空ひばりという歌手がそうだった。私が知る唯一の例である」(『歌は心でうたうもの』p.198 船村徹 日本経済新聞社)。
「率直に言えば、彼女の表現力は私の感性の先を行っていた。(中略)しかし私にとって彼女との出会いは不世出の歌手『美空ひばり』との戦いの始まりだった」(前掲p.201).
2、栃木なまり
船村徹(1932~2017)は、栃木県塩谷町出身です。地方出身の作曲家として、洋楽色に染まっていた歌謡界に反発しました。メロディは濃厚な土着性に彩られていています。作品自体が時代への反旗でした。定型詩、様式美の従来の歌謡曲を革新しました(野瀬泰申 日経2017.2.18)。
船村徹美空ひばりと「波止場だよ お父つぁん」(1956年 作詞:西沢爽)で出会っています。
ひばり19歳。船村24歳。ひばりは「天才少女歌手」から「歌謡界の女王」への道を歩んでいました。
対して船村徹は、コロンビアの専属契約の末席にある、新進の作曲家。
船村は新曲をたずさえ、緊張して横浜の「ひばり御殿」を訪ねます。約束の時間に行くが、応接間で待つこと30分。突然、ガウンをまとい眼鏡をかけた中年の男性が入ってきます。
「お前だったんけよー?船村っちなよー。なんだか栃木だっちゅんじゃねぇの?」
物すごい栃木訛。ひばりの父親加藤増吉は栃木県今市市出身でした。その場の雰囲気は一気に和み、雑談し笑っていました。そこにひばりと母の喜美枝が入ってきます。船村はあいさつもそこそこ、譜面をひばりに渡します。そしてまず船村がピアノを弾きながら「波止場だよ お父つぁん」を歌います。
ひばりは譜面を片手に立ったまま聴いています。そしてひばりが歌います。船村はその歌唱力に驚きます。注文はただひとつ。「ねー お父つぁん」の「つぁ」にアクセントを置いて欲しいと。直して歌った3回目の歌唱はすでに完璧でした。
船村はこの年下の女を見ながら震えます。年齢の差を超えて畏怖の念を覚えます。そして「彼女の表現力は私の感性の先を行っていた」の証言を残すことになります。
3、みだれ髪
船村徹による美空ひばり天才証言はまだ続きがあります。最後のシングル曲「みだれ髪」(作詞:星野哲郎 作曲:船村徹)です。昭和も押し詰まった昭和62年(1987年)に美空ひばりは病に倒れ、6ヶ月後の復帰第1作の依頼が船村に来ます。船村は体調を考えムリをしないでと提案します。ところがひばりからの返事は今まで通り船村メロディであくまでも強気なものでした。
♫髪の乱れに 手をやれば 赤い蹴出しが 風に舞う
憎や恋しや 塩屋の岬 投げて届かぬ 未練の糸が 
胸にからんで 涙を しぼる♫
船村はひばりの挑戦に負けじと、いままでの曲より半音高い音を使って作曲します。
上の「D(レ)フラット」ではなく、「D」を使いました。♫しおやーのみさき♫ のところです。
事件は10月9日のコロンビアのスタジオで起こります。
リハーサルで、船村が指揮をし前奏が始まり、ひばりが歌いだします。そして ♫投げて届かぬ 思いの糸が♫  とひばりが歌ったときに、船村は愕然とします。船村は作曲のときに悩み抜いていました。
「届かぬ」の「か」から「ぬ」のところのメロディラインが最大の問題点でした。完全5度にするか、つまりB(シ)からF(ファ)か。それとも短3度にするか、D(レ)からF(ファ)か。
迷ったあげく。譜面は完全5度で書きました。ところが、ひばりは短3度でさらりと歌いました。
その方がよかった。はるかによかった。
「写譜のミスだな」。船村は譜面を書き直します(前掲 p.258~p.259)。
「歌手が作家の意図を超えて歌う」。「楽曲を作家の手から奪い取って自分のものにしてしまう」。
そうした天才を持った唯一の歌手、それが美空ひばりだったと、船村徹は証言しました。