図抜けた才能、しかし共感できない村上春樹。

クリエーティブ・ビジネス塾10「村上春樹」(2017.3.6)塾長・大沢達男

「図抜けた才能、しかし共感できない村上春樹。」

1、グローバルスタンダード
村上春樹の新作長編小説『騎士団長殺し』を楽しみました。村上の作品は、日本市場より海外市場で売れています。全くその通りです。村上の作品はグローバルコミュニケーションのお手本のような小説です。
世界の若者の共通の話題があります。バッハやモーツアルトなどのクラシック音楽、そしてセロニアス・モンクなどのジャズ、さらにビートルズなどのロックミュージックの話。とくに今回の主人公は画家です。絵画の創作の秘密が話題です。アートも随所で語られます。
小説に登場してくる食べ物、飲み物もグローバルスタンダードです。ミネラルウォター、ウイスキー、チーズ、ビスケット・・・、決して納豆、梅干し、焼き海苔は出てきません。
さらにファッションもグローバル。チノバンツ、ジーンズ、カーディガン、スニーカー。ステテコ、浴衣や下駄は出てきません。そして言葉自体がグローバルです。翻訳調の論理的な日本語です。日本語独特のあいまいな表現はありません。
小説のどのプロットもオシャレで蘊蓄(うんちく)に溢れています。読み手の知的レベルが試されます。音楽、絵画、文学、ファッション、グルメ、旅・・・オツムの中味だけでなく、読み手のライフスタイルが試されます。これが村上春樹の小説を読む醍醐味です。実に読んでいて楽しい、いつまでもこの時間を村上春樹と共有していたいと思い出し始めます。
2、思想音痴
なのに、なぜか、『騎士団長殺し』の上下を読み終えて、空しさが残りました。不思議な読後感が残りました。それは伊集院静の『東京クルーズ』、沢木耕太郎『春に散る』とは、正反対のものでした。
「続編があるのではないかという気がする」(鴻巣友季子 日経3/6夕刊)、「今回ははっきりと続編があることがわかる」(加藤典洋 日経3/18)。空しい読後感の理由のひとつは、物語が完結していないからかもしれない。いや違う。
空しさには、村上春樹の本質が潜んでいるのではないだろうか、思うようになりました。村上はあれほど音楽、アートやライフスタイルに博識なのに、哲学、思想、経済学、社会学に無知なのではないか。村上は小説ばかりを読んできたのではないか。
騎士団長殺し』の重大なプロットに触れます。まだ小説を読んでいない人は、これ以上読まない方がいい。
小説の中で、ナチスドイツ軍と日本帝国陸軍が同列に扱われています。読後の空しさはここにあります。
なんだよ村上、お前はその程度の戦後史の考えしか持ってないのか。ノーベル賞をもらうために、その程度のヒューマニストぶりをアピールしたいのか。と反発してしまったのです。
まず第1に、ドイツのファッシズムと日本軍の「天皇制ファッシズム」を並べて考えるのは、マルクス主義歴史学の方法です。もちろん「天皇制」と「ファッシズム」という言葉は適切ではありません。
第2に、ドイツと日本を並べて論ずるのは、平和と人道への罪の事後法の罪で裁いた、東京裁判史観です。「事後法」での裁判、そんなものは認められません。さらには裁判自体が極めて杜撰はものでした。
そして第3に南京大虐殺の基本はでっちあげです。戦後中国の外交カードとして使われているものです。小説のなかで、不用意の扱われる問題ではありません。
3、共感
小説の面白さからいえば、沢木耕太郎(1947年生まれ)、伊集院静(1950年生まれ)より村上春樹(1949年生まれ)の方が上です。それなのに、なぜ村上に共感できないのでしょうか。
第1に、村上は戦後史の新しい研究を勉強していません。「平和と民主主義」は商売道具として古すぎます。村上はノーベル文学賞作家、大江健三郎の後継者であろうとしているのでしょうか。
第2に、村上は「今」と戦っていません。『騎士団長殺し』の主人公は36歳という設定。だとすると、宇多田ヒカル椎名林檎浜崎あゆみと同世代ということになります。それにしては聞こえてくる音楽が古すぎます。
第3に、村上はウンチ(運動音痴)です。競争し、競技することを嫌い、勝負しません(『走ることについて語るときに僕の語ること』p.23 村上春樹 文春文庫)。スポーツを知りません。
などとほざいても、所詮は野良犬の遠吠えにしか過ぎません。村上に負けない小説を書いて、村上のように売って見せる。まずグローバルでそしてナショナルである小説を、僕は書くことができるのしょうか。