クリエーティブ・ビジネス塾12「中野量太」(2017.3.20)塾長・大沢達男
「階書の映画で、日本を大きく変える可能性がある、中野量太監督」
1、『湯を沸かすほどに熱い愛』
ドキドキのバイオレンスシーンはない、激しいセックスの見せ場もない、、ましてCGを使った奇想天外な世界が登場することもない。映画『湯を沸かすほどの愛』は、銭湯を経営する家族に起こった生活の出来事のワンカットを重ね、ワンシーンごとをていねいに描いた映画です。フレーミング、キャメラワーク、モンタージュ(編集)で驚かす芸術映画でもありません。
「書」で言えば、普通の万年筆を使い、原稿用紙に文字を連ね、楷書で書かれた映画です。登場してくる人物たちは観客を感動させます。映画を見終わった感じも悪くありません。
いい映画とは、映画を発明している映画ですが、この映画は映画を発明していません。エイゼンシュタイン、溝口健二、ゴダール、北野武・・・彼らの映画は、映画を発明しています。また発明はなくても、人生ドラマ、アクション、壮大な描写、特撮などで、観客を楽しませる映画もあります。『素晴らしき哉人生』、『捜索者』、『アラビアのロレンス』、『七人の侍』(スピルバーグ監督が新作を撮影する前に必ず見るいう映画)。『湯を沸かすほどに熱い愛』は以上のどの映画にもあてはまりません。だけどいい。
2、中野量太
監督の中野量太(1973)は、日本映画学校(現日本映画大学)出身です。卒業制作で今村昌平賞を受賞、自主映画で数々の賞を受賞してきましたが、『湯を沸かすほどの熱い愛』が商業映画デビュー作です。今回の日本アカデミー賞で、優秀監督賞、優秀脚本賞を受賞。花開きました。
『湯を沸かすほどに熱い愛』は、父の不在を描いています。
父の出奔(たぶん愛人との暮らし始めたのでしょう)で主役を失った銭湯は休業に追い込まれます。
母と娘の生活は父の不在の生活を始めます。母はパン屋でバイト。娘は高校でいじめに遭います。
娘の担任教師は、娘のトラブルを何も解決できません。学校にも強い父がいません。
出奔していた銭湯の主人は戻ってきます。しかも子どもをひとり連れて。どうも別れた女に押しつけられたらしい。連れ子にも父はいません。
ふたりの娘をかかえて、母はがんばります。父の不在を支えるのは、「母の愛」しかないのです。
さらに映画は、主人公の母親も自分のルーツを探し求めるがそこでも父の不在、のだめを押します。
中野監督の映画は、あまりにもふつうで、どの監督ともだれとも似ていません。
たとえば日本映画学校を創始した故今村昌平監督は、誰もが目を背けたくなるようなシーンを、映像化するのが売り物でした。現在の日本映画のトップランナーの一人である園子温監督もそうです。見たくないものを見せようとします。三池崇史監督もそうです。ホラーとバイオレンスです。
中野量太監督は、あくまでも楷書で、普通の生活をたんたんと見せ、父の不在を描きました。
3、国家
中野監督は1973年生まれ、団塊ジュニアです。彼が「父の不在」を叫ぶのは極めて深刻です。
現在の日本で最大の勢力を誇る「団塊の世代」は戦後ベビーブーマーとして誕生しました。
団塊の世代は「平和と民主主義」で育ち、学園紛争を起こしました。団塊の世代は、自己主張だけで社会の利益を考えませんでした。社会とは、会社、国のことです。「日の丸」に忠誠を尽くすことです。
世のため人のためを考えず、わがままを言うことが平和と民主主義でした。
「何によらずただ好きなことを、自分のやりたいようにやって生きてきた。」(『走ることについて語るときに僕の語ること』p.223 村上春樹)。団塊の世代と日本を代表する作家の発言は象徴的です。
その父親に育てられた団塊ジュニアたちは、子どもを作りませんでした。あたり前です。企業はブラック、国家は天皇制ファッシズム、日本人はレイブ。そんな日本の子孫を残したくなかったからです。
団塊の世代は、わがままだけで、日本民族として日本国民として何の誇りを伝えることをしませんでした(誤解してならない。日本人として誇りを持つことは、決して「外人」を排斥することではない。相撲で、野球で、ゴルフで、外国人プレーヤーに差別的なヤジを浴びせることではない)。
日本は少子、高齢化社会を迎えています。父の不在を考えるとは、日本の国家を考えることです。国家とは何か、国体とは何か、天皇とは何か。そしてそれは何より行動を求めています。
「父の不在」を描いた中野量太監督に期待します。滅私奉公の「強い父」を描いて欲しい。