TED TIMES 2021-3 「『経済原論』を読む」 1/22 編集長 大沢達男
『経済原論』(宮本義男編 有斐閣)を読む。リベラルの源流にマルクスがある。 2021.1.22 大沢達男
オープニング(講座派、労農派、宇野派)
1、資本論
2、宮本義男(序章、第1章商品、2章貨幣、第13章三位一体の定式と諸階級)
3、(問題提起1)「社会科学で法則は可能か?」
4、松石勝彦(第3章貨幣の資本への転化 第4章剰余価値の生産 第5章労賃 第6章資本の蓄積過程)
5、(問題提起2)「マルクス主義経済学者は、なぜ、フィールドワークをしないのか?」
6、種瀬茂(第7章資本の循環と回転 8章社会的総資本の再生産と流通 第14章景気循環)
7、(問題提起3)「剰余価値は、実証的できない、哲学ではないのか?」
8、井上周八(第9章諸資本の競争 第10商業資本と商業利潤 第11章利子生み資本と利子。信用 第12章土地所有と地代)
9、古沢友吉(第15章金融資本)、岡本正(第16章社会主義への移行)
10、(問題提起4)「人類は進化するか?」
11、(問題提起5)「マルクス主義は日本人を差別していないか?」
12、(問題提起6)「日本の知識人は、なぜ、マルクス主義に魅了されたのか?」
13、(問題提起7)「団塊の世代の知識人は、リベラルな特権階級になっていないか?」
エンディング(香港の映画スター)
オープニング(講座派、労農派、宇野派)
日本の知識人はなぜマルクスに魅了されてしまったのでしょうか。
大学にはマル系(マルクス経済学)と近系(近代経済学)がありました。学生運動の中心的な指導理念はマルクス主義でした。
団塊の世代を中心に学生たちはほとんど、その青春をマルクスに関するディスカッションに費やしていました。
そしていまも、高齢化した団塊の世代のマルクス主義信奉は、終わっていません。リベラルとその名を変え団塊の世代と日本の知識人を支配しています。
日本のリベラルとは、平和と民主主義です。憲法改正反対、靖国神社参拝反対、原発反対、戦争反対です。
リベラルのベースには、「天皇制ファッシズム」が「太平洋戦争」を起こした、マルクス主義の思想があります(「天皇制」はコミンテルンの用語、「太平洋戦争」はGHQ内部の共産主義者の用語、「ファッシズム」は理論的矛盾)。
まあこんなことを言うと日本では、お前は右翼だ、保守反動だ、と烙印を押されてしまいますが、何の主義主張でもありません。ただ事実を申し上げているだけのことです。
テーマはマルクスです。
マルクス主義経済学の魅力とは何か。問題点は何か。もう一度原点に立ち返り、「経済原論」を読み、学び直してみます。
近系を別にして、マル系の経済原論にはいろいろな本があります。正統派共産党系の『経済原論ー資本主義経済の構造と動態』(富塚良三 有斐閣)、マルクス「主義」ではないマルクス経済学の宇野弘蔵の『経済言論』(岩波全書)、同じく宇野学派の『経済言論』(櫻井豪ほか 世界書院)、そして北朝鮮のチェチュ思想に近い鎌倉孝夫の『資本主義の経済理論ー法則と発展の原理論』(有斐閣)があります(『いまを生きる「資本論」』 p.66~69 佐藤優 新潮社)。
正統派というのは天皇制打破の講座派です。講座派は皇室がある日本の特殊性に重きを置きます。対して、すぐに社会主義革命の労農派は、社会党に影響を与えました。佐藤優は、過激派も広く言って労農派の流れにある、と断定します。
しかし日本の知識人の9割以上は講座派的な思考をします(p.47~53)。その正統派・講座派のなかから『経済原論』(宮本義男編 有斐閣)を読みます。
編者は、和歌山大学・岐阜経済大学教授 宮本義男(1920年生まれ)です。ほかに一橋大学教授 松石勝彦(1934年生まれ)、元一橋大学学長 種瀬茂(1925年生まれ)、チェチュ思想研究の立教大学教授 井上周八(1925年生まれ)、横浜市立大学教授 古沢友吉(1925年生まれ)、大阪経済大学教授 岡本正、一橋大学仲間で書かれた本です。
1、資本論
『経済原論』を読み始める前に、マルクス主義経済学の、全体像をデッサンしておきます。
19世紀のカール・マルクス(1818~1883)は、物理学のアイザック・ニュートン(1642~1727)や、生物学のチャールス・ダーウイン(1809~1882)のような業績を、経済学であげようと目論みました。
ニュートンの万有引力の法則のように、自然現象を一つの理論で説明できないか。あるいはダーウィンの『種の起原』のように、人類史を社会進化論として統一的に説明できないか。社会科学が「科学」となるためには何が必要であろうか。そしてマルクス主義経済学が誕生しました。
「近代社会の経済的運動法則(自然法則)を闡明(せんめい=明らかにする)することがこの著作の最後の究極目的である」(『資本論一』p.16 エンゲルス篇 向坂逸郎訳 岩浪文庫)。
「(資本主義的生産の内在的法則の把握は、)天体の外観的運行が、その実際の、しかし感覚的には知覚されえない運動を知る者にのみ理解されうるのと、全く同じである。」(『資本論二』p.240)
「ひとたび一定の運動に投ぜられた天体が、たえず同じ運動を繰り返すのと全く同様に、社会的生産も、ひとたびかの交互的膨張と収縮の運動に投ぜられたならば、たえずこれを繰り返す。」(『資本論三』p.212)
マルクスは経済的運動法則を、自然法則のように、明らかにすることを目標にしました。
ブラボー!すごいじゃないですか。社会に運動法則がある、だれでも胸をときめかせます。
2、宮本義男(序章、第1章商品、2章貨幣、第13章三位一体の定式と諸階級)
『経済原論』(有斐閣)の編者の宮本はつぎのような執筆目標を掲げます。
「生命体である資本制生産諸関係の核心的構造を、全体として統一的に把握しうるように経済学的諸範疇に展開する。つまり初発の簡単な諸規定が、たえずより具体的なもののなかに止揚されながら、包括されうるように展開してこそ、資本の核心的構造は、まさに総括的に、全体的なものとしてダイナミックに、有機的に把握しうる」(『経済原論』まえがき)。
言葉はむずかしいですがつまり、マルクスが『資本論』で目指したのと同じように生命体を有機的に把握する生物学的な方法をとる、のです。
なぜなら「経済学がブルジョワ社会の生理学であり、解剖学だ」(p.13)から。部分と全体の関係を明らかにする。抽象的な概念は具体的な事実で証明する。さらに、テーゼはアンチテーゼにより止揚されジンテーゼになる。
つまり単なる抽象的な原論ではなく、実証的で説得力をもった原論になると約束されます。
以下これから、「諸範疇」が「具体的」に「ダイナミック」に論じられているかどうかを判定しながら、『経済原論』を読み進めます。
もし執筆目標が達せられていないなら、編者・宮本義男の『資本論入門』(紀伊國屋新書)にならって、「問題提起」をします。
宮本のまえがきの文章に表れていませんが、当然のこととして、もう一つの執筆目標があります。
マルクスのよって提示されるさまざまな法則を事実で検証すること、それなくしてはダイナミックでありえません。
「労働を社会的需要に応じるように、各生産部門に配分することは、いかなる社会形態によっても左右されない、超歴史的な自然法則だ」(p.1)。
「商品生産が支配的に行われる資本主義社会においては、この自然法則は価値法則という現象形態をとる」(p.2)。
「価値法則は商品と貨幣の運動に典型的に現れるから、商品と貨幣とを出発点として資本を分析するということは、価値法則を土台として剰余価値の法則を解明するということになろう」(p.4)。
どんな社会でも必要なものをみんなで働いて作る、いまの世の中は必要なものを作って売る時代だ。
商品を、いくらで作り、いくらで売り、いくら儲けるか、そのカラクリを調べれば、世の中の仕組みはわかる。世の中の未来までわかる。美しすぎる体系です。マルクスは天才です。
しかし気になります。自然法則、価値法則、剰余価値の法則・・・「法則」のオンパレード。『経済原論』において法則は検証されるのでしょうか。
3、(問題提起1)「社会科学で法則は可能か?」
『サピエンス全史』(ユヴェル・ノア・ハラり 柴田裕之訳 河出書房新社)は、非合理的な行動をする人類の歴史を論じ、世界のベストセラーになりました。
伝説や神話によってホモ・サピエンスは誕生した。つまり虚構、架空を信じ、非合理的な行動をするから、人間です。
ニュートンの万有引力の法則のもとになった、惑星の運動のケプラーの法則のヨハネス・ケプラー(1571~1630)には、先人ティコ・ブラーエ(1546~1601)の豊富な天体観測のデータがありました。
またダーウィンの『種の起源』には、5年にわたるヴィーグル号の航海で集めたデータがありました。ニュートンにもダーウィンにも生きたデータありました。
人間は、天体のように合理的に法則的に運動しません。気まぐれや、衝動で動きます。人間社会に法則を立てるのは不可能です。
4、松石勝彦(第3章貨幣の資本への転化 第4章剰余価値の生産 第5章労賃 第6章資本の蓄積過程)
松石は「第3章 貨幣の資本への転化」のエンディングで、「生産過程に入れば、楽園は地獄絵図に一変する」(p.53)と書き、山本茂実『あゝ野麦峠』を資料としてあげています。
『あゝ野麦峠』は、ノンフィクションといえど、小説です。事実ではありません。
つぎに松石は『資本論』のハイライトである剰余価値を論じ、「労働日の延長は、賃金を一定とすれば、剰余価値の増大である。(中略)吸血鬼は最後の1滴までしぼりとる。労働者は自らを苦しめる吸血鬼に対して団結し、階級運動を盛り上げ、自分らのための法律を強要すべきである」(p.59)、と結論します。
またまた文学的です。
マルクスによれば、労働だけが価値と剰余価値を創造します。機械は価値を創造しません。
<オレはボスのところで働いて、食いぶちだけの金をもらう。ボスはできた物を売って儲ける。だけど残業で働いたオレの取り分を、ボスはピンハネする>。
マルクスが言っているのはそれだけのことです。
働くことによってのみ、物の価値は生まれる。そしてボスはオレの取り分をピンハネする。
価値法則、剰余価値の法則。これは法則です。疑問を差し挟むことはできません。
機械は価値を生まないか、価値を産むのは労働だけか、もちろん『資本論』にも迷いはあります。
「(機械は)『もっとも熟練した労働者の手が、いかにいかに経験を重ねても到達しえなかった程度の容易さと精確さと迅速さとをもって、生産すること』ができる」(『資本論(二)』p.346 エンゲルス篇 向坂逸郎訳 岩波文庫)
この文章はマルクスが『諸国民の産業 ロンドン 1855』から引用し本文に使ったものですが、ほかのところでマルクスは、「機械装置は、価値を創造しない」(p.349)、と断言しています。
そして松石は「第6章資本の蓄積過程」のエンディングも「資本制的私有財産の最後の鐘がなる。収奪者収奪される。人民大衆による少数の横奪者の収奪が行われる。(中略)社会主義社会が生まれる。」(p.95)
と、またまた大河ドラマのような結論を書きます。
なぜ私たちは、マルクス主義に心酔したのしょうか。まさにここです。
社会変革の理論です。労働者は資本家に搾取されている。労働者は窮乏化する。階級対立が激化する。革命が起きる。
ただし、松石の剰余価値論の生産は、具体性のなかで止揚されているでしょうか。経済原論ではなく、アジテーションで終わっています。
5、(問題提起2)『マルクス主義の経済学者は、なぜ、フィールドワークをしないのか?」
なぜ学者は、社会に飛び込み、労働者の生の苦しみを聞き、資本家の横暴を暴かないのですか。
昭和40年代に論文を書いている学者が、なぜ明治・大正の『あゝ野麦峠』の事例しか、思い浮かばないのですか。
吸血鬼は具体的にどの企業のどの資本家、経営者ですか。
理論は具体的な事例で証明されなければ、ダイナミックになりません。
マルクスは大英図書館で資料を読み『資本論』を書きました。実証的な研究ではありません。マルクス主義の経済学者は、マルクスにならって書斎に閉じこもり、肘掛け椅子(アームチェア)で世界を語る、特権階級なのでしょうか。
たとえば、ドラッカーは、『マネジメント』(上田惇生訳 ダイアモンド社)で、シアーズ、GM、IBM、さまざまな米国企業に飛び込み、研究しています。
日本のマルクス主義経済学者は、「論語と算盤」の渋沢栄一、「天の道にそむかない」の岩崎弥太郎、「三方よし」の伊藤忠兵衛、「産業報国」の豊田佐吉と対話をするべきです。
渋沢の、岩崎の、伊藤の、豊田の、吸血ぶりとピンハネを、事実で証明すべきです。
6、種瀬茂(第7章資本の循環と回転 8章社会的総資本の再生産と流通 第14章景気循環)
「貨幣資本の循環をまとめると、つぎのようになる」(p.100)
G-W(A,Pm)-W’(W +w)-G(G+g) (パソコンの表現上、原文とは違う、必ず本文を参照のこと。ただし、Gは貨幣、Wは商品、Aは労働力、Pmは生産手段、W’は新商品、wは付加価値、gは付加価格)。
以上の文字式(表式、範式という言葉が使われます)のその意味するところは、
「労働力と生産手段に投資し、新しい商品を作り売れば、投資金額より高く売れ儲けることができる」
ということです。
C(不変資本)、v(可変資本)、m(剰余価値)を使ったたくさんの数式が出てきまが、なにも数学的に証明されてません。
概念を言い換えているだけです。
しかし一橋大学の学長を務めた種瀬茂の言わんとするところは明解です。
第14章では、「資本は賃労働者が新しく創造した付加価値(v+m)のうち、労働者には制限された一定額(v)しか与えないことによって、剰余価値(m)をわがものとする。この矛盾こそ、資本制生産に内在するもっとも基本的で、もっとも根本的な矛盾であると言わざるをえない」(p.223)。と、まとめています。
つまり「3、宮本義男」で触れた、<商品を、いくらで作り、いくらで売り、いくら儲けるか>、そして「4、松石勝彦」の<ボスはオレの取り分をピンハネしている>そのカラクリを説明しています。
種瀬の諸論には、文字式、数式が一番多く使われていますが、わかりやすく書かれています。
7、(問題提起3)「剰余価値は、実証できない哲学、ではないか?」
商品の価格は、不変資本と可変資本の投下量、そして剰余価値によって決まります。w=c+v+mです。
剰余価値の増加は、労働時間を伸ばす、労働単価を下げる、労働強化によって成し遂げられます(第4章の要約)。いずれも剰余価値ありきです。労働が価値が生み出し、労働を強化すれば、資本家が手にする、儲けが増える。堂々巡りです。いくら文字式や数式を使っても無駄です。
価値法則、剰余価値の法則は、現実観察の豊富なデータから、導き出されていません。また法則はさまざまな商品・企業事例で検証されていません。
もし、商品の価値法則が成立しないなら、『資本論』の壮大で美しい体系は、ガラガラと音をたてて崩れ落ちることになります。
ちょっと飛躍しますが、労働価値説、剰余価値の法則の思考の背景には、「人間至上主義の環境破壊の哲学」があります(『サピエンス全史』下p.264参照)。
東洋の労働観は、西洋と全く違います。
仏教の労働は、悟りに達する修行法の一つの「精進」、です。「一生懸命働くこと、目前の仕事に脇目もふらず打ち込むこと」(『生き方』 p.21稲盛和夫 サンマーク出版)j、それが精進です。
労働とは生活するための糧、報酬を得るための手段ではありません。労働とは心を磨き、人格を練ることです。事業とは、世のため人のため、利他の精神でやるものです(p.178)。
近江商人の売り手よし、買い手よし、世間よしの「三方よし」も「精進」に通ずるものがあります。
8、井上周八(第9章諸資本の競争 第10商業資本と商業利潤 第11章利子生み資本と利子。信用 第12章土地所有と地代)
商品の価値(w)=不変資本(c)+可変資本(v)+剰余価値(m)である。
費用価値(c+v)=k とすれば、w=c+v+mは、w=k+m になる。剰余価値(m)は無償労働の搾取であるから、資本家にとっては剰余価値ではなく利潤(p)になる。
したがってw=k+m は、w=k+p になる(p.150~1の要約)。
ここも同じです。<商品でいくら儲けるか>と、<ボスのピンハネのカラクリ>のことを言っています。
「この利潤こそ資本家の唯一最高の目的であり、資本家はより多くの利潤、より高い利潤率を求めて生産し、競争する」(p.151)
井上の専門は「地代論」です。
「『資本論』の学習は地代論において最高の段階に達し、マルクス経済学の理解は地代論をどのように把握したかによってためされる」(p.191)
貴重な指摘ですが、私には地代論に関心をもつことも、理解することもできませんでした。
井上周八(1925~2014)は中国の文化大革命を支持し、北朝鮮のチュチェ思想を宣伝し、拉致事件をデマとして否定し続けました。
井上にこんなことを言うのは酷ですが、『経済原論』はまえがきで、「資本の現実運動、現実運動の歴史的発展傾向を解明しうるものでなくてはならない」と約束していますが、実現はしていません。
9、古沢友吉(第15章金融資本)、岡本正(第16章社会主義への移行)
「株式会社は、独占体や金融巨頭の支配を確立するための最も効果的な企業形態である」(p.240)
そして古沢は、カルテル、シンジケート、トラスト、コンツェルンを解説し、独占的金融資本と独占的産業資本が融合・合成した帝国主義段階の資本を論じます。
帝国主義の本質的特徴は何か。古沢が引用するのはレーニンの『帝国主義論』です。1)生産と資本の集積 2)金融寡頭制 3)資本輸出 4)資本による世界分割 5)資本主義強国による領土分割(p.254の要約)。
1917年に書かれたレーニンの『帝国主義論』は、1960年代の株式会社と世界経済に妥当するのか、古沢友吉によって検証されなければなりません。
しかし、検証に関する1行の叙述もありません。とてもダイナミックな論考とはいえません。
そして『経済原論』は、岡本正(大阪経済大学教授)のつぎの言葉で締めくくられます
「生産手段は、完全に単一の社会的所有のもとにおかれ、労働者と農民の区別はなくなる。労働の様式も変化し、精神労働と肉体労働の対立は消滅して、各個人は人間として全面的な発達をとげる。」(p.268)
人間は発達をとげる。進化論です。『経済原論』は、『資本論』と同じように、さまざまな法則を発見し、人間進化論を論じています。
10、(問題提起4)「人類は進化するか?」
『野性の思考』のレヴィ・ストロースは、人間の精神や思考力は時代とともに進歩するという考え方を批判しています。つまりマルクス批判です。人間の精神は進歩するのではない、近代人は古代人よりも、深く多く考えるのではない。
万葉の大友家持より、昭和の斎藤茂吉の歌の方が感動を誘うでしょうか。平安時代の『源氏物語』(紫式部)より、平成の『1Q84』(村上春樹)の方が面白いでしょうか。江戸時代の伊藤若冲の描写を上回る画家が令和にいるでしょうか。
わずか100年や200年の歴史や社会体制の変革で、人間は発達も進化もしません。マルクスその人の存在こそが、その反証です。
『資本論』から150年、マルクスを上回る壮大で美しい体系、哲学、経済学、社会学、歴史学を統一した理論を構想した、思想家はいません。
カール・マルクス(1818~1883)と同時代に、作家ドフトエフスキー(1821~1883)、作曲家ワーグナー(1813~1881)、がいます。
神の存在と神の不在を描いた『カラマーゾフの兄弟』以上の小説をだれが書いたでしょうか。神々と人間の戦いをテーマに、26年をかけて作曲、15時間!!!に及ぶ楽劇『ニーンベルグの指輪』以上の大作をだれが成し遂げたしょうか。マルクス以降の歴史150年、そこにあるのは進歩よりむしろ退化です。
11、(問題提起5)「マルクス主義は、日本人を差別していないか?」
『資本論』の、英国労働者の悲惨な状況の証拠としてのさまざまな叙述の、ひとつが気になります。
「(英国労働者の)家には便所がない。(中略)戸棚の抽出(ひきだし)に用便するかせねばならない。抽出がいっぱいになれば、それを抜いて、中味を必要とするところに空ける。日本でも、生命条件の循環は、もっと清潔に行われいる。」(『資本論(三)』p.303 カール・マルクス エンゲルス篇 向坂逸郎訳 岩波文庫)。
突然「日本」が出てきます。驚きます。日本人は清潔だと賞賛しているのでしょうか。違います。
意味するところは、英国労働者の状況はあの「猿」(ロシア皇帝は日本人を猿と呼んだ、司馬遼太郎『坂の上の雲』からの引用です)が住んでいる日本の状況を上回る悲惨さがある、ということです。まあ、差別ですね。
なぜ、ここで日本が出てくるのか、理由がさっぱりわかりません。白人は有色人種より優れている、という1960年代まで白人知識人の常識に訴えたものとしか思えません。
エンゲルスには、もっと驚きます。
「アーリア人とセム人が肉や乳を十分に摂取したこと(中略)が、おそらくはこの両人種が他にまさる発展をとげた原因であろう。実際、ほとんど純粋な植物性食物しかとらないニュー・メキシコのプエブロ・インディアンでは、未開な低位な段階にありながら肉や魚をもっと食べるインディアンよりも、脳髄が小さいのである」(『家族・私有財産・国家の起源』 p.36 エンゲルス 戸原四郎訳 岩波文庫)。
社会主義からナチズムが生まれたというのがよくわかります。
ちょっと脱線します。
「過去200年の西洋の歴史において、あらゆるファッシズム全体主義がそれぞれの時代のリベラリズムから発している。ジャン・ジャック・ルソーからヒットラーまでは真っ直ぐに系譜を追うことができる。その線上にはロベルピエール、マルクス、スターリンがいる」(『産業人の未来』 p.180 P.F.ドラッカー 上田惇生訳 ダイアモンド社)。
「ファッシズム全体主義の最初の犠牲になるのは、決まって彼ら理性主義のリベラルである」(p.185)。
ドラッカー(1909~2005)は1930年代の西欧社会の知識階級の状況をだれよりも雄弁に語ってくれます。
それにいちは早く反応したのは、日本では清水幾太郎(1907~1988)、ただ一人です。
マルクス主義の立場から書いた、処女作『社会学批判序説』(1933年)を、出版した途端に破り捨てたくなりました。
ドイツ語、フランス語で最新の西欧思想の動向をキャッチしていた清水は、ドラッカーの指摘するマルクス主義がファッシズムに飲み込まれていくさまを、リアルタイムで目撃したからです。
話を戻します。
「植物性植物しか食べないものは脳髄が小さい」、ベジタリアンやビーガンはエンゲルスに激怒するはずです。
猿の日本人でも英国労働者より清潔。肉を食べないインディアンの脳髄は小さい。
だからといって、『資本論』は人種差別の書であると、断定することはできません。
英国労働者の悲惨さを描くマルクスは、サディステックなホラー小説家になります(実はそれが読み物としての『資本論』の魅力なのですが)。
12、(問題提起6)「日本の知識人は、なぜ、マルクス主義に魅了されたか?」
1)エリートの美しい理論・・・まずマルクス主義には哲学があります。存在が意識を決定する。観念論ではない唯物史観。つぎに経済理論があります。商品を研究すれば、資本制生産様式のすべてがわかる。そして社会変動論あります。資本主義、社会主義、共産主義。マルクスは社会を貫く自然法則、経済法則を発見した、知識人はマルクス主義の美しすぎる体系にいかれました。
しかしその用語は難解。エリートにしか読みこなすことも、議論することもできませんでした。マルクス主義は知識人のエリート意識をくすぐりました。
1970年の大学進学率は17.1%(2010年は50.9%)です。ざっくばらんに、学生数は文系理系半分ずつ(10%)、その文系でマルクスを学んだのは半分と計算しても(5%)、同世代の20~30人に1人しかマルクスを知りませんでした。ある程度理解したとなると100人に1人、1000人に1人・・・マルクス主義はスーパーエリートの理論でした。
2)勧善懲悪、世直しの物語・・・資本家vs.労働者、国家権力vs.人民大衆、帝国主義国vs.植民地。マルクス主義では、善と悪、弱者と強者がはっきりしていました。マルクス主義は、理解できない人々にも共感できる、ものでした。
すべてのひとの正義感を刺激しました。しかもマルクス主義は、間違った世界を変えるには何をなすべきか、「世直し」の指針をはっきりと示しました。
労働者よ団結せよ。資本家に対決し行動を起こせ。最終的には暴力も必要である。マルクス主義は、理論と実践。理屈だけではない、新しい生き方の実践の理論でした。
3)進化論・・・1961年にソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)は、人工衛星ボストークで初めて人類を宇宙空間に送り出すことに成功しました。共産主義の勝利は、世界中に伝えられました。宇宙に人類を送ったマルクス主義の正しさが証明されました。人類は進化する。
しかし、先進の資本主義国での革命は起こらず、1991年にソ連邦は崩壊し、歴史の法則は裏切られます。そして共産主義運動は先鋭化し、理論闘争は武装闘争に発展し、テロと殺し合いの闘争になります。
さらにマルクス主義は、ここが一番重要なのですが、日本の歴史と伝統を否定しました。神道、仏教、そして皇室伝統。神話、信仰、情念。さらに、もののあわれ、みやび、わび、さび、日本文化を保守・反動にしました。
「マルクス哲学の根底には、深い人間に対する憎悪があります。(中略)その憎悪が、唯物弁証法というマルクスのつくった哲学の根底に厳然として存在しているのです」(『森の思想が人類を救う』p.131~2 梅原猛 小学館)。
これほどに激しいマルクス批判を聞いたことはこれまでにありません。初めてマルクス主義に出会い、喫茶店での長時間の議論、学生集会、デモ・・・青春の日々を、深い疑念とともに、振りかえざるをえません。
13、(問題提起7)「団塊の世代の知識人は、リベラルの特権階級になっていないか?」
3年ほど前です(2018年)。映画『マルクス・エンゲルス』を見に神田・神保町の岩波ホールに行きました。
ウイークデイの午後1時半からの回、50~60人の入り、学生街なのに、若い人はゼロ、小綺麗なカッコウの「団塊の世代」ばかりでした。
会場においてあった旅行案内のパンフレットに驚きました。「イギリスの産業革命と民主主義の歴史を学ぶ『マルクス・エンゲルスを訪ねる旅 8日間』」¥369,000。
ヘェー、マルクスは、絵画のピカソ、音楽のベートーベンのような、旅行ブランドになっているんだ。しかもその出費は約40万円。ターゲットはリベラルで豊かな団塊の世代、と映画より印象に残りました。
添乗員に案内され安全なヨーロッパ旅行をし、つまり自ら街に飛び込む危険なフィールド・ワークをせずに、表層だけの西欧を見て無事に日本に帰国し、したり顔で労働者階級と革命を論じ、「平和と民主主義」を語る。これがかつて優秀でマルクス主義を学んだリベラルで豊かな団塊の世代の本質だ、と思いました。
平和憲法、東京裁判支持、「太平洋戦争」史、核兵器反対、原発阻止。知識人の論調を支持しているのは、このリベラルで豊かな特権階級ではないでしょか。
エンディング(香港の映画スター)
以上で、『経済言論』を読み終わる、ことにします。
2021年の1月を『経済原論』だけで過ごし、学ばせていただきました。編者の宮本義男先生と諸先生に感謝いたします。
『経済原論』は、1969年が初版第1刷で1989年まで第29刷を重ねています。教科書ではロングセラーではないでしょうか最終刷が1989年というのが象徴的です。1991年のソ連邦崩壊で、大学の学問としてのマルクス主義は終わり、カリキュラムから、マルクス主義経済学は姿を消すようになります。
団塊の世代の多くの若者が『経済原論』にお世話になったと想像されます。
マルクス主義は抽象的概念を扱うので、勉強熱心でないと、ついていけません。教える教授も、教えられる学生も、優秀でないと学べない学問です。
私は裏切り者の劣等生です。
『経済原論』編者の宮本義男先生と同じ、一橋大学・高島善哉ゼミ出身の長田五郎先生(横浜市立大学)にお世話になり、可愛いがられながら、野放図な反リベラル的言辞で、破門されました(同窓のコミュニストの密告でしょう)。
『経済原論』を読みこなせていたか、いい生徒であったか、疑問です。
さて『経済原論』をどう役立てるか。実践的課題があります。
香港に中国人男優で歌手の友人がいます。
鄭伊健(イーキン・チェン)といいます。中国の木村拓哉さんような存在です。香港はもちろん、中国ではどこででも自由に外出できない、ほどの人気者です。
私は彼の写真を、コンサートで映画撮影の現場でイベントで、20年にわたり撮り続けてきました。
そこには彼だけでなく、北京、西安、重慶、南京、大連、上海、香港、マカオの街が、写っています。
激しく変貌する中国が撮影されています。すでに、日本語、英語、中国語の3カ国語による解説付きの1冊の写真集の原稿(200p)が完成しています(香港のスタッフは、自主規制で、いくつかの写真をカットしましたが)。
あとは印刷に回すばかりになって、コロナ騒ぎと香港騒動のおかげで、仕事は中断されています。香港に行けない。香港から来日できない。
話は微妙です。あいまいな言い方になりますが、なにかのときに、『経済言論』の勉強が役に立てば、と願うばかりです。
End