ハイエクの『隷属への道』を読む。

TED TIMES 2020-56「ハイエク・ノート」 10/5 編集長大沢達男

 

ハイエクの『隷属への道』を読む。

 

1、自由

1)個人と自由

ハイエクの思考の出発点には「個人」があります。「我思うに我あり」の西洋の伝統です。私たちは、個人は所詮「大河の一滴」である、大河という共同体を前提にした個人を考えます。ちょっと違います。

かといってハイエクの思想は、自分を中心に世界は動く、天動説とも違います。また宇宙の動きの中で、私も動く地動説とも違います。マルクスは経済社会の運動法則を発見した言いましたが、ハイエクは否定しました。人はそれぞれ自由に経済活動をするが、その結果はどうなるかはわからない、予測することはできない、科学的に解明することはできない、としました。

なぜなら個人は自由に行動するからです。自由の行動の総体を予測することはできない、当たり前です。

「個人」と「自由」が、ハイエクの思想の中核になります。

個人主義とは、「人間としての個人」への尊敬を意味しており、それは、一人一人の考え方や嗜好を、たとえそれが狭い範囲のものにせよ、その個人の領域においては至高のものと認める立場である>(p.10)。<道徳は、各個人が自分自身で決定できる自由を持っていて、道徳的規範のために自分の利益を犠牲にできる分野だけに、ある>(p.290の要約)。<道徳とは、上位の人ではなく自分自身の良心に責任を負うこと、強制ではなく自発的に行うべき自分の義務を自覚していること、様々な事柄のうちどれを犠牲にするかを自分で決定すること、自分の下した決定に責任を持つこと、である>(p.291からの要約)。

2)競争と価格機構

次は自由競争です。アダム・スミスの「自由放任(レッセ・フェール)」と「見えざる手」、市場における自由競争が、資源の最適配分と価格変動の調整機能を、もたらすことです。

<競争こそ、政治権力の恣意的な介入や強制なしに諸個人の活動の相互調整が可能になる唯一の方法だからである>(p.42)。<昔の人々は、個人個人の努力を往々にして挫折させてしまう「個人を超えた様々な力」を甘受していた>が、現代人はそれを憎み、反乱を起こしている(p.277)。<市場における個人を超えた非人格的な、非合理にさえ思える諸力に身を任せる道>(p.280)を合理主義はこれを理解できない。

様々な商品の需要・供給状態と諸個人の活動を調整しているのが、競争体制における「価格機構」である(p.59~60)。

自由主義哲学の創始者は<経済的自由なしには個人的自由も政治的自由も存在しえない(p.8)>と教えてきたが、われわれはその経済的自由を次から次へと放棄してきた。「見えざる手」は、個人を超えた力で、非人格的な非合理な力であることに、注目すべきです。つまり成るようにしか成らないのです。

3)法の支配

自由放任といっても無政府ではありません。政府も法もあります。ルールがあります。

<「法の支配」とは、政府が行うすべての活動は、明確に決定され前もって公表されているルールに規制される、ということを意味する>(p.92)。<国家の介入は必要である。有毒物質の使用禁止、労働時間の制限など>(p.43)。<さらには道路、森林の伐採、工場の煤煙などによる賠償>(P.45)。<イマヌエル・カントが言ったように、「人間は、他の誰にも従う必要がなく、ただ法律にしたがえばいいいという時にのみ、自由なのだ>(p.104)。

2、集産主義

1)社会主義とファッシズム

『隷属への道』は1944年に、「集産主義」つまり社会主義、ファッシズム、共産主義を批判するために書かれた本です。そしてそれはヒットラーの敗北だけでなく、1991年のソ連邦の崩壊によっても証明されます。

社会主義がなぜだめか。個人の自由がない、民主主義がないからです。

スターリニズムはファッシズムより(中略)もっと悪く、もっと冷酷であり、もっと野蛮であり、もっと不公正であり、もっと不道徳であり、もっと反民主主義的であって(中略)、「超ファッシズムと呼ぶべきもの」である>(p.29)。<マルクシズムとはファッシズムと国家社会主義に他ならない>(p.30)。<集産主義の道徳体系は、個人の良心がそれ自体の法則によって自由に発動することを許しておらず、また、状況のいかんにかかわらず個人の行動を抑制したり承認したりする>(p.189)。<集産主義者にとっては、「全体のための善」に奉仕することであれば、あえてしてはならない行為は何もない>(p.190)。

全体主義宣伝活動は、あらゆる道徳の基礎の一端をになっている、あの「真実」というものに対する感覚や尊敬の念を、その根底から侵食していくことによって、ついにはあらゆる道徳を破壊してしまう>(p.202)。

ナチズムの主張は初め社会主義でした、それが国家社会主義になりファッシズムに発展していきます。それは必然だったとハイエクは証明します。

2)計画

なぜ集産主義はファッシズムになるのか。計画経済だからです。まず、計画の不可能性をハイエクは説きます。

<集産主義的体制の特徴とは、ある決定的な社会目標に向けて、社会全体の労働を計画的に組織化することだ>(p.70の要約)。

<人々の無限なまでに多様なニーズを、完全に把握し、それぞれに価値づけを与えることは、どんな人間にもできない>(p.71)。

<人間の想像力には限界があり、自身の価値尺度に収めうるのは社会の多様なニーズの全体の一部分にしか過ぎない>(p.74)。

次に計画が、差別を生み出し、人間が人間を支配する、ことを説明します。

<計画化は、所得の分配が、明らかな公正とは逆の場合に操作される場合にも、実に有効な武器になる>(p.37)良い品物を、エリートとか、北欧ゲルマン人とか、政党員とか、貴族階級とかに、渡るようにすることができる。

<「中央集権的経済計画」とは、経済活動の中央集権化、統制することで、意識的に統制・管理することである。人々のあらゆる活動が中央集権的に統制・組織されることである>(p.40~1の要約)。

3)自然科学へのコンプレックス

ハイエクは、自然科学の概念が社会科学で使われていると疑義を提出すること、で傑出しています。コペルニクスニュートンダーウィンへの社会科学者のコンプレックスを指摘しています。

マルクス主義の基礎的な諸概念は、「自然に対する科学的分析の基礎をなしている諸概念と(中略)ほとんどまったく同じ」>とウォディントン博士(筆者注。科学信仰の学者)賞賛している(p.263)。

ドイツの知的発展の特徴とは、<科学者たちが社会の「科学的」組織化を扇動していること>(p.259)。

<「組織」はプレンゲ教授(筆者注。マルクスの権威者)にとって、社会主義の本質そのものである>(p.229)

<自然科学的概念を社会の諸問題への粗雑な形で適用することによって、その社会主義を導き出したすべての社会主義者たちにも、等しくあてはまっている>(p.229)

皆さんは「細胞」という言葉を思い出しませんか。共産党の活動で使われたグループ活動名です。カッコいい、なんて当時は思ったものですが、とんでもない共産主義者の科学信仰を象徴する言葉でした。

<「細胞」という組織を作り、個人生活を始終監視する方法>(p.147)だったのです。

3、キリスト教

1)理性主義

社会学の祖オーギュスト・コント(1798~1857)が考えた諸科学の体系、「数学→天文学→物理学→化学→生物学→社会学」、があります。その流れの中でコントは社会学を、生物学の解剖学にあたる社会静学と、生理学に当たる社会動学として、構想しました。「組織」、「細胞」という用語に見られる用語のように、19~20世紀の社会科学は自然科学へのコンプレックスから誕生しています。ハイエクはそのことを否定し、さらには理性主義のリベラリズムがファッシズムに発展する、という論理を展開しています。理性主義とリベラリズムの否定、そしてマルクシズムへの疑問は、1930年代の西欧の学会の最先端の主張でした。

<過去200年の西洋の歴史において、あらゆるファッシズム全体主義が時代のリベラリズから発している>(『産業人の未来』p.180 P.F.ドラッカー ダイアモンド社)。<ファッシズム全体主義の最初の犠牲になるのは、決まって彼ら理性主義のリベラルである>(P.185)。

余談になりますが、ハイエク(1899~1992)、ドラッカー(1909~2005)と、同じ時代の西欧の空気を吸っていた日本人がいました。清水幾太郎(1907~1988)です。清水は26歳の1933年に、初めての著書『社会学批判序説』を書きます。そしてすぐに、マルクス主義の立場で書いたことを、後悔します。ドイツ語とフランス語ができた清水は、西欧の思想界の最前線がマルクスを「時代遅れ」にしている、ことを感じ取ってしまったからです。

2)キリスト教

ハイエク(1899~1992)は19世紀生まれの20世紀の人です。個人、自由を説いても、やはり白人中心の思想を持ったキリスト教徒です。

個人主義の本質的な特性は、キリスト教と古代哲学が用意してくれた主要概念を出発点とし>(p.9)、<キリスト教が築いた基盤から発達してきた、西欧文明のもっとも誇るべき特質のひとつなのである>(p.9)。

ハイエクが、論じることができなった問題が、あります。

西欧キリスト教社会の繁栄は、インド、アジア、北米・南米を植民地化することに、成り立ってきました。搾取と人種差別、特に南米と北米での先住民の殺戮は酷(ひど)いものです。

2020年の今でも米国では、人種差別が最大の問題になっています。

次にイスラム教徒は抑圧されてきました。一神教の戦いです。イスラム教徒の反乱は収まっていません。

そして地球環境の悪化があります。ヨーロッパと北アメリカの8割近い森林を破壊したのは、暗闇に光を当てる、間違いなくキリスト教とです。

もはや人類は、「西欧文明の誇るべき特質」である個人主義自由主義で、やっていくことはできません。

世界的なベストセラーになった『サピエンス全史』(ユヴェル・ノア・ハラリ 河出書房新社)がそのことを明らかにしています。ハラリは、人権、自由、平等は白人帝国主義に過ぎないことを、証明しました。

3)祭祀共同体

個人は大河の一滴と考える私たちは、暗黙のうち共同体に生きる個人を想定しています。西欧的な個人主義自由主義はなじみません。

「働く」とは、はた(他人)を楽にさせること、「自利利他」とは、自ら修行し、他人の救済のために尽くすこと)、「忘己利他」とは己れを忘れ、他人のために尽くすこと、「三方良し」とは、売り手、買い手、世間が全て幸せになることです。

<(労働)、そこには心を磨き、人格を練るという精神的な意義もおおいに含まれている。(中略)労働を人間形成のための精進の場としてとらえる視点が、確固として存在していました>(『生き方』p.167 稲盛和夫 サンマーク出版)。<「まことの商人は、先も立ち、われも立つことを思うなり」(中略)相手にも自分にも利のあるようにするのが商いの極意で>(p.179)。

私たちは労働や商売に対して世界に類を見ない考え方を伝統として持ってきました。さらには私たちは、地球環境に対して「一寸の虫にも五分の魂」と動物に優しく、「山川草木悉皆成仏」と自然に優しい心を持ってきました。

ハイエクの限界を超えた新しい人類の誕生には、100年200年かかるかもしれませんが、私たちは努力をすべきです。