クリエーティブ・ビジネス塾23「資本論②」(2018.6.4)塾長・大沢達男
「マルクスは文章が上手く、構想力も壮大だが・・・。」
1、資本主義的生産の内在的法則
「(資本主義的生産の)競争の科学的分析は、資本の内的本性が把握されるときに初めて可能なのであり、それは天体の外観的な運行が、その実際の、しかし感覚的には知覚されえない運動を知るもののみに理解されうるのと、全く同じである」(『資本論(二)』p.240 エンゲルス篇 向坂逸郎訳 岩波文庫)
科学とは体系化された知識や経験です。
19世紀のマルクス(1818~1883)は、物理学のアイザック・ニュートン(1642~1727)や、生物学のチャールス・ダーウイン(1809~1882)のような業績を、経済学であげようと目論みました。
マルクスは「資本主義的生産の内在的法則」を明らかにしようとします。天体の運動法則と同じようなものを発見しようと試みています。でもそれは無理。天体は神が創った法則で動いています。経済活動は何十億の神ならぬ人類の意志で動いています。「資本の内的本性」という言葉は哲学的過ぎます。
2、労働価値説
「(労働力が)価値を付加しながら価値を保存するということは、活動しつつある労働力の、すなわち生きた労働力の、一つの天資であり、労働者にとっては、何らの費用をも要せず、しかも資本家には、既存の資本価値の保存という大きな利益をもたらす天資である」(p.56)
「(労働者が必要労働の限界をこえて労苦する)労働日のこの部分を、私は剰余労働時間と名づけ、そしてこの時間内に支出された労働を剰余労働(Surplus Labour)と名づける」(p.90)
「資本は(中略)能うかぎりの多量の剰余労働を吸収しようする衝動を持っている」p.96)
ひとことにすれば、価値を生み出すのは労働で、労働者は生活に必要以上の労働をする、その生み出した価値は資本に吸収される、ということです。
マルクスの文章には、大切な所で必ず抽象的表現が出てきます。「労働の天資(本性)」とは何か。「必要労働の限界」とは何か。「資本の衝動」とは何か。哲学的文学的過ぎます。
しかしここで指摘したいの別のことです。マルクスは以上の仮説をデータで検証する構成をとっています。
レース製造業では、9~10歳の子供たちが働いている。見るも無惨な有様(p.119)。また製パン業者は通常、夜の11時に仕事を始め、翌朝8時までパンを焼き、さらにパンの配達を7時までする(p.126)。そして鉄道労働者は、1日の労働時間が14、18、20時間と引き上げられ、休みなく40~50時間続くことが(p.130)ある。悲惨な労働者の状況を、証拠をあげて実証しています。
しかしこれも19世紀的。マルクスは何の調査もしていません。労働者へのインタビューをしていません。マルクスは労働者の現場へ一度たりとも足を運んでいません。マルクスは大英博物館の椅子に座ったままで、政府関係の報告者さまざまな調査データで実証しました。労働者はなぜその仕事を選んだのか。労働者の以前の仕事は何か。労働者は幸せか。文章は現場で書かれていません。フィールドワーク、野外科学、文化人類学が、発達した現代では、マルクスの理論は、所詮19世紀の書斎論議です。
3、機械
「蒸気機関こそは『人間力』の敵で(中略)労働者の要求を粉砕しえたのである」(p.401)
「機械装置は(中略)資本主義的に使用されれば労働日を延長し(中略)労働の強度を高め(中略)自然力によって人間を征服し(中略)生産者を貧民化する」(p.438)
「機械装置は(中略)労働奴隷を減少させるのではなく、(中略)増加させるのである」(p.447)
マルクスの機械嫌いは、まるでラッダイト運動(機械打ち壊し)のようです。
そして大きな矛盾があります。
「(機械は)『もっとも熟練した労働者の手が、いかにいかに経験を重ねても到達しえなかった程度の容易さと精確さと迅速さとをもって、生産すること』ができる」(p.346)
この文章はマルクスが『諸国民の産業 ロンドン 1855』から引用し本文に使ったものですが、ほかのところでマルクスは、「機械装置は、価値を創造しない」(p.349)、と断言しています。
労働者より、簡単に精確に速く、生産できる機械が、なぜ価値を創造できないのでしょうか。
でも『資本論』は面白い。19世紀のマルクス(1818~1883)は、同じ19世紀のドストエフスキー(1821~1881)のように文章が上手く、壮大な構想力を持っています。