石岡瑛子の展覧会に並んだ人々、その正体がわからない。

TED TIMES 2021-9「石岡瑛子」 2/27 編集長 大沢達男

 

石岡瑛子の展覧会に並んだ人々、その正体がわからない。

 

1、東京都現代美術館

石岡瑛子(血と、汗と、涙がデザインできるか)」展の東京都現代美術館に行ったのは2月13日(土曜日)です。展覧会の最終日の1日前です。ネット予約はとっくの昔に満員、並ぶのを覚悟で行きました。見終わった後の門前仲町の「魚三」のお刺身がぶらさっがっていましたので・・・。

それにしても驚きました。美術館到着は12時。チケットを買うまで80分、入場まで20分待ちと表示されていました。救いは天気がよく、風がなかったことです。数百人の列で、持参のサンドイッチを食べながら、待ちました。

自然、並んでいる人に目がいきました。いつも並ぶ団塊の世代のジジババではない、比較的若い、若者もいる。デザイナーと思わせる人はいる、ファッション業界、アパレル業界のとんがった人もいる。でもプロばかりではない。まあ表現しにくい、広告業界のクリエーター風情の集まりではない、いろいろな人々が並んでいました。

石岡瑛子はなによりもまず日本を代表するグラフィックデザイナーです。その後、衣装デザインへと活動の領域を広げて行きますが、ポピュラリティーに富む、誰もが関心を持てるように領域ではありません。クリエーティブの裏方です。その意味では、無印良品のデザイナー・原研哉ユニクロのデザイナー・佐藤可士和より、もっと裏方です。石岡瑛子の展覧会になぜ、人が集まるのでしょうか。

2、資生堂、パルコ、ドラキュラ。

石岡瑛子(1938~2012)のデビュー作は資生堂のポスターですが、でも、これはCMの杉山登志(日本天然色映画)、カメラマン横須賀巧光、あるいはCDの中村誠資生堂)の作品でしょう。デザイナーの石岡はアシスタントです。石岡瑛子が燦然と輝いているのは、資生堂以降の「パルコ」、「角川」、「地獄の黙示録」のポスターからです。いまでもまったく古びていません。新しい。それには、理由があります。

まず石岡は、当時の日本のクリエーティブの最高峰にあった資生堂宣伝部で、しっかりとデザイン技術の教育を受け、職人として完璧に育てられました。それは展示されたデザインのラフスケッチ、サムネイル(縮小見本)、校正刷りへの直しの書き込みを見れば、わかります。つぎに石岡は当時の最高のスタッフと仕事をしています。カメラの操上和美、コピーの長沢岳夫、50年後の現在でも活躍しているような才能と巡り合い仕事をしています。幸せなことです。そして決定的なのは、1967年に4ヶ月の欧米旅行をしていることです(音楽とアートの「ウッドストック・フェスティバル」は1969年、当時は欧米の大転換期)。学生の反乱、ロックミュージック、テレビの時代・・・石岡は現代までにつながる、新しい時代の感覚を先取りしていました。石岡は新しい「地球市民」でした。

さらに、付け加えるなら「女性」としての石岡瑛子のガッツがあります。当時、電通の2~3百人いるクリエーティブ・スタッフのなかで女性は10人足らずでした。女性クリエーターはいない。芸大も資生堂も同じだったでしょう。

以上は、知っている石岡瑛子です。活動の拠点をニューヨークに移した、『ドラキュラ』(1992)以降の展示では、知らなかった衣装デザイナー・石岡瑛子を、見ることになります。ワン・フロア9つのブースにすべて、完璧な衣装が、並んでいます。見終わって、「なんも、言えねー!」。石岡はファッションで言えばジュルジュ・アルマーニです。アルマーニはファションだけでなく、靴、バッグ、アクセサリー、トータルファッションをデザインしました。そして石岡は建築で言えば、ル・コルビジェです。コルビジェ小さな模様のデザインから始め、絵画、建築、さらには都市計画まで、その仕事を発展させました。ポスター、ブックデザイン、映画、舞台、そしてワーグナーのオペラへとその仕事を発展させた、石岡の才能はアルマーニコルビジェに匹敵します。領域を超え、国境を越えられたのは石岡が「地球市民」だったからです。

3、真木蔵人

石岡瑛子のデビュー作・資生堂ポスターのモデルは前田美波里。ラーパーでサーファーの真木蔵人のお母さまです。『あの夏、いちばん静かな海』(1991年 北野武監督)を覚えていますか。あの主人公が真木蔵人です。まさかそれが原因で石岡瑛子が人気なんてことはない・・・。石岡瑛子展がなぜ人を集めたか。門前仲町の「魚三」でビールと赤身をいただきながら、考えましたが、やっぱりうまく説明できませんでした。