「紀子3部作と小津安二郎」  

TED TIMES 2021-11「小津安二郎」 3/10 編集長 大沢達男

           

「紀子3部作と小津安二郎」                                           

 

1、映画の発明

暇つぶしや気晴らしのために、映画を見たことはありません。

映像関係の仕事をしていたので、仕事のために見ました。いまもそうです。いい作品を作りたいから(注文はありませんが)、映画を見ています。

ある高名な文芸評論家が、楽しみのために本を読んだことがない、と言ったの同じです。まあ、遠く及びませんが。

いい映画とは、映画を発明している、映画です。

たとえば、エイゼンシュタインの『戦艦ポチョムキン』があります。カメラをフィックス、わずか1~2秒の短いカットの連続が、モーションピクチャー(活動写真)になることを発明しました。

たとえば、ジャン・リュック・ゴダールは『勝手にしやがれ』で、手持ちのカメラで人物を追い回し、価値観を喪失したアプレ・ゲール(戦後世代)の不安定な心理を描くことに、成功しました。

その意味で言うと、小津安二郎は映画を発明している監督、とは言えません。映画史が発明してきた映画的な技法を否定し、当たり前のことだけをした超保守主義者でした。

まずカメラワーク。カメラを固定したまま左右に振るパン、上下に移動させるティルト、役者の動きと共に移動するトラベリング、クレーンを使って人物を上から見下ろす俯瞰撮影をしませんでした。

つぎに編集でも、オーバー・ラップ、フェイドイン、フェイドアウト、時間軸を動かす回想シーン、意味のないカットをはめ込み心理を表現するモンタージュ技法の使いませんでした。

そして撮影されたシーンは、時間通りにていねいに編集されました。

さらに極端なのは、俳優がドラマテッィクに演ずることを、禁じられていたことです。

小津安二郎の弟子筋にあたる映画監督の吉田喜重は『小津安二郎の反映画』(吉田喜重 岩波書店)で、「反映画」の小津安二郎と言いました。

同じことを映画評論家の蓮實重彦も『監督 小津安二郎』(蓮實重彦 筑摩書房)で指摘しました。

キャメラが動かない、(中略)キャメラの位置も変わらない、移動撮影がほとんどない、俯瞰は例外的にしか用いられない、(中略)愛情の激しい葛藤が描かれない、物語の展開は起伏にとぼしい、舞台が一定の家庭に限定されたまま、社会的な拡がりを示さない」(p.11)。小津映画はないないづくしです。

アクションもバトルのない、反乱も革命もない、ラブもセックスもない、スリルもサスペンスもない、美酒や美食もない、もちろん夢想や空想もない。

小津安二郎の映画は日常を描いただけの退屈な映画です。にもかかわらず、

「『東京物語』について語ることは限りない歓びであり、そのいささかも陰りもない、まばゆく透明な映像を心に思い浮かべるだけでも、名状しがたい幸福感につつまれる」(吉田喜重p.175)

というのですから、やになっちゃいます。

小津安二郎とは何者なのか。小津安二郎は映画で何をしたのか。

小津安二郎の代表作といわれる、「紀子3部作」をじっくりと観てみます。

 

2、紀子(のりこ)3部作

1)『晩春』

(話)

紀子と父だけの二人の家庭。

妻を失った父のために、父といつまでも一緒に生きるという紀子を、結婚させるために、「父は再婚する」という一世一代の芝居をする。

紀子は結婚に踏み切る。ひとりになった父は、「フーッ!」とため息をつき、居眠りをはじめる。

(クライマックス)

○京都の旅館、寝巻き姿で布団の上の二人のシーンがあります。消灯し、布団に入った紀子が天井を見たまま、隣に寝ている父に謝罪します。

「私、知らないで、小野寺の叔父様に悪いこと言っちゃって、(中略)汚らしいなんて(筆者注:再婚したことを)、私、言うんじゃなかった」

○翌日、京都の旅館の部屋で、帰り支度をしながら、紀子が父の顔をのぞき込み言う

「私、このまま、お父さんといたい。どこに行きたくないの。お父さんと一緒にいるだけでいいの」

なぜクライマックスか、紀子の表情があまりにも美しいからです。

(魅力)

父と娘が、能の『杜若(かきつばた)』を見るシーンがあります。『杜若』は、伊勢物語の業平をテーマにした「みやび」の物語です。

かきつばたの5文字を読み込んだ、「から衣きつつなれにしつまあれば はるばる来ぬる旅をしぞ思う」、の業平の歌があります。業平は旅にありながら慣れ親しんだ恋人のことを思っています。

恋物語を演じている能楽堂の客席には、父の再婚相手になるかもしれない女性がいます。父が黙礼、気づいた娘もあわてて黙礼。しかし娘は疑心暗鬼、能の鑑賞どころではなくなります。

「みやび」とは「ひなび」(田舎)に対する言葉です。「みやび」とは色、恋、風流です。

平安の「みやび」とそれにあこがれる昭和の人、感動の父と疑心の娘、その対比は、美しくも悲しいものです。

『晩春』には、能、京都、竜安寺・・・伝統と昭和の対比があります。もちろん小津安二郎はそんなこと一言も口にしませんが。

 

2)『麦秋

(話)

紀子、義父母、義兄夫婦、その二人の子供が暮らす家庭。戦争で兄を失った紀子の結婚がテーマ。

いいお見合いの相手を紹介され、家族全体が喜ぶ。

ところがある日突然紀子は、隣に住む妻を失った子連れの医師との結婚を、だれにも相談せずに決めてしまう。

子連れの医師は、戦争から帰ってこない兄、の友人だった。

(クライマックス)

引っ越しを明日に控えた隣家にお別れの挨拶に行く紀子。隣家に住む母が、紀子がもし嫁に来てくれたら、仮定の話をします。

「私みたいな売れ残りでいい?」、「私でよかったら」、紀子が予想外の返事をします。

その表情の美しさ。まさに地上に降りてきた白鳥です。

(魅力)

脚本の勝利です。映画は言語頭脳と映像頭脳のコラボレーションから生まれます。

小津安二郎には野田高悟が、溝口健二には依田義賢黒澤明には橋本忍ほか、の言語頭脳がありました。

映画監督は独裁者のようですが、基本は共同作業です。脚本の成り立ちからそれがわかります。

チャップリン北野武は、脚本を書いて、監督やって、主演もする、その意味で、ちょっと特殊で、不幸です。

「紀子3部作」の脚本はすべて小津安二郎と野田高悟が書いたものです。

小津と野田は、旅館(湘南・茅ヶ崎館)に閉じこもり、脚本を作りました。一升瓶が100本並ぶほどというますから、2~3ヶ月です。

喧嘩になると一言も口をきかない、部屋を出て行ってしまう、格闘技でした。

麦秋』の前半の見合い話のプロットは退屈だっただけに、紀子の「私でよかったら」の隣家の母の嫁入りの仮定話に答えるシーンは衝撃です。

観客はじらされじらされ、衝撃の一言を聞かされ、映画はスピードを上げて展開されます。脚本の勝利です。

旅館で苦しみの格闘技をしていた小津と野田の二人の上にもあのシーンが生まれ、白鳥が降りてきました。

 

3)『東京物語

(話)

紀子は義兄夫婦とその二人の子供と暮らしている。紀子の夫は終戦から8年、いまだに帰ってこない。

尾道から義父母が東京見物にやってくるが、医師の義兄夫婦、美容室経営の義姉夫婦は仕事を理由に面倒を見ない。

そこで血縁者でない紀子が、義父母を献身的に支えることになる。

(クライマックス)

紀子の安アパートでの義母と紀子。義母に再婚を促され。

「私この方が楽なんです。歳を取らないことに決めているんで」

義父の家で、再婚を勧められ、紀子。

「私、ずるいんです。いつも昌二さんのこと考えているばかりでは、ないんです」

紀子は、実の息子や娘より義父母にやさしい天使のように描かれます。

しかしすこし毒もある。このふたつのセリフにより、紀子は具体的な美しい人間になります。

(魅力)

東京物語』は、日本映画史上の最高傑作のひとつですが、これは高齢化社会必見の認知症映画です。

まず「記憶障害」。物忘れのシーンが出てきます。

まず、旅行準備中の空気枕。どこにしまったと問いかける老父、老母はさあ?。しばらくして老父、あった、あった!

そして、傘を置き忘れる、歯ブラシ歯磨きを忘れる、老母のシーンもあります。

つぎに「見当識障害」。自分がどこにいるかわからない。シーンが出てきます。

老父母は、嫁にビルの上から、嫁に聞きます。長男の家はどちらの方か、では長女の家はどちらか。そしてあなた(嫁)の家はどちらか。

加えて老母は、(この東京で)「迷子になったら一生出会えない」と心配します。実際に老父は深夜に、酒を飲んで宿泊先の長女の家が分からなくなり、警察の世話になっています。

そして「実行機能障害」と「理解・判断能力の障害」。東京への過密な旅行計画です。

1日目、尾道から東京。2~3日目、長男宅、外出の予定が長男の仕事でキャンセル、4日目、長女宅、浪花節見物。5日目、バスでの東京見物。6日目、東京から熱海へ、一泊。7日目、老父は旧友と深夜まで飲み会、老母は、嫁宅に宿泊。8日目、東京から尾道へ、大阪で下車、一白。9日目、大阪から尾道へ。

新幹線がない時代、こうして書いているだけで、疲れます。老母は熱海でめまいを起こし、尾道に帰る途中体調を崩し、大阪で緊急宿泊をし、尾道に帰りしばらくして亡くなります。

・・・・・・・・・・・・・。

東京物語』は認知症映画である。これは悪い冗談です。

しかしいまの日本では高齢者の人権のために、「ボケ」、「耄碌(もうろく)」、「老化」に代わって「認知症」が病名として使われていて、冗談にはなりません。

小津安二郎は『東京物語』で、ただ「親と子の関係」を、描こうとしました。

それは健常の子が認知症の親を介護するなどという、思い上がった子からの一方的な関係ではありません。

小津が母「あさゑ」と撮った写真があります。椅子に座った着物姿の堂々たる母、となりにこれまた和服姿の小津が堂々と立っています。なんと清々しい。

これこそが親と子です(『小津安二郎映画読本』p.11 松竹映像渉外部発行 フィルムアート社発売)。

私たちは何かを忘れ、何かを失っていないでしょうか。『東京物語』はそれを問うています。

 

3、小津安二郎

1)仕事人

小津安二郎(1903~1963)は深川富岡八幡宮の側で生まれ、10歳で三重県松坂(なんと国学者本居宣長も小津家出身)へ、中学は宇治山田、19歳で農村の代用教員、20歳で東京に戻りカメラの助手に、24歳で監督になり作品を発表しています。江戸っ子とはいえませんが、まあ東京の人です。

「よくお宅にあがらしていただいたりすると、先生の映画、年寄りと子供との親子の関係がなんかがよく出ておりますでしょ、その感じがとてもよくわかりますの、お母様やご兄弟とのやりとりなんか見ておりますとお母様を思う気持ちと、また安(やす)さん安さんて、子供みたいに大事になさいましてな、その感じが映画にそのまま出ております」(井上雪子氏インタビュー 蓮實重彦 p.235 )。

やはり東京下町の人です。

小津安二郎は、偉ぶったことが嫌いで、恥ずかしがり屋で、純な人でした。

「小津組のスタッフっていうのは、あれなんですよ、下の方の者まで随分大事にしますからね」(厚田雄春インタヴュー 蓮實重彦 p.204)

「『俺はねえ、人をねえ、見下げることは嫌いなんだよ。俯瞰ていうと見下げるじゃないか』」(小津安二郎の発言 同p.205)

「・・・役者に対して心配りするわけですよ。ですから俳優が小津組に出て、文句言う人はないでしょうね」(厚田雄春 p.215)

「ロケーション終わると、普通の監督なんがパーと帰っちゃいますが、小津さんはやりません。(中略)ロケーション終わった後はみんな動く、掃除して、そして引き揚げましたよ。そういうふうに几帳面にやっておられることが結局、映画でも出てくるんしゃないですかねえ」(厚田雄春 p.216)

読んでいて恥ずかしくなります。これが働く、仕事をする、ということです。伝え聞く黒澤組とも違います。おそらくどの組との違っていたでしょう。小津安二郎は職人で仕事人でした。

現場での私は広告代理店のクリエイターで、仕事の発注主でした。偉そうにしていたわけではありませんが。あまりにも仕事を知りませんでした。

派手なスポーツカーで現場に入り、最終カットが終わるや否や、「お疲れ!じゃ、次があるんで、失敬!」と、(カッコよく?)現場を後にしていました。

恥ずかしい、恥ずかしい。小津安二郎は、下町の偉大なヒーローです。

2)純情

「小津さんはすごく潔癖な方ですからね。バーやなんかでもご婦人方にはキチンとして(後略)」(厚田雄春 p.218)

「『東京物語』でセッちゃん(筆者注:原節子)が東山さんの肩を揉むところがあるでしょう。(中略)そこで僕はね、『セッちゃんにももっと、触ってやったらいいじゃないですか』って言った訳です。そしたら真赤になって『馬鹿なことが出来ますか』(後略)。(厚田雄春 p.218~9)

3)神様

シンガポールではもう、あの、将校の方とか(中略)テニスしたりね。でも夜、もう後は、その運動が終わると読書ですもんね。はい、もうねえ。神様じゃないかと思います。普通だとねぇ、遊びに行くでしょう。先生、さすが小津さんは、やっぱりねぇ、違いますねぇ。」(厚田雄春 p.217)

またまた恥ずかしくなります。私たちは海外ロケ・ロスアンゼルスの日々で遊びほけていました。

いつも、演出家とブラッディ・マリーかなんかを飲んで議論し、洒落たレストランで食事し、ライブや映画に出かけていました。

まあ、仕事で遊び、遊びを仕事にしていた・・・つもりなんですが。孤独を友にできませんでした。

***

小津安二郎監督のお墓に二度ほどお参りしたことがあります。

墓石には「無」と書いてあります。

キャメラワーク無し、モンタージュ無し、俳優の演技も無し。無い無いづくしで、映画を作った監督。

人間を無心で描いた監督は、仏の視点の「無」の映画を、発明しました。

「紀子3部作」を見直し、またすこしだけ、監督に近づけたような気がします。

近々、お墓のある鎌倉・円覚寺に出かけることを計画しています。

でも墓前にしっかり立てるでしょうか。自信がありません。

自らの映像制作に対する、不明と不誠実を、いやというほど知らされてしまったからです。

きっと、落涙が、止まらないかもしれない。動けなくなるかもしれない。

・・・。

でも、帰りの大船・観音食堂で、監督を忍んで一杯できるのを、楽しみに鎌倉に行きましょう。

イカとカワハギの刺身、キスの天ぷらでしょうか。

いけない、いけない、無欲でなければ。

合掌

 

END

2021、啓蟄