THE TED TIMES 2024-10「塚本晋也」 3/7 編集長 大沢達男
映像の天才「塚本晋也」、しかし賛同できないのは、なぜ?
1、カメラ=ペン論
「カメラ=ペン(万年筆)論」というのが、1960年代の映像の世界にありました。
ペン(万年筆)による言論で世界を動かすように、カメラによる映像で発言しようというものです。
塚本晋也(1960~)の映画を観るたびに、この言葉を思い出します。
塚本は映像を自由に扱い、発明に満ち、本来的な意味で映画を創造しています。
さらに言うなれば、塚本の映像にはマチエール(絵肌)があります。
明暗、色調、ボケ具合・・・映像に独特のタッチがあります。
その才能は、うらやましい、クリエーターに嫉妬させるものです。
映画『ほかげ』(脚本・撮影・監督:塚本晋也 2023年)を観て、またまた同じ感想を持ちました。
戦後のどさくさを舞台にした映画の前半、居酒屋兼売春宿のシーケンスでは、そこに住む一人の女を描きます。
登場するのはヒモの男、客の復員兵、そして浮浪児だけです。
カメラは外に出ません。だからロングの画はありません。狭い、光が差し込まない部屋での絶望的で不条理な人物のアップだけの暑苦しいカットが連続します。
まなこ、あぶら汗、絶叫する口しか写っていないようなシーンが連続します。
写真家荒木経惟のデビュー作「さっちん」を連想させます。
荒木は戦後の下町の廃墟で遊ぶ少年たちに密着し、その生き生きとした表情を撮り、太陽賞を獲得しました。
映画は、何もない部屋で、何かがある人間に迫って、映像化しています。
その映像は日本映画史上に燦然と輝く、宮川一夫(溝口健二監督)、厚田雄春(小津安二郎監督)、中井朝一(黒澤明監督)の撮影に匹敵するものです。
繰り返します。
カメラをペンのように持った塚本の映像には、マチエール(絵肌)があります。
2、オールマイティー
塚本晋也は特異な映画監督です。
なんでも自分でやります。
脚本、撮影、編集、監督、制作・・・映画製作の全てです。
さらには塚本晋也は役者でもあります。
この才能はうらやましくありません。嫉妬しません。
なぜなら、そこが映画監督塚本晋也の、強みと弱みがあるからです。
まず先ほど触れたように優れた映画監督には、かならずすぐれたカメラマンがいました。
照明、美術、衣装もいました。
そして撮影現場に入る前、脚本の段階でも、映画監督にはパートナーとなる脚本家がいました。
溝口健二には脚本の依田義賢、小津安二郎には野田高悟、黒澤明には橋本忍がいました。
たとえば、小津の場合は、1升ビンが100本並ぶまで旅館に閉じこもったと言われています。
二人だけで、まるまる3ヶ月かけ脚本を完成させました。
脚本には映画撮影に匹敵する長期間の戦いがありました。
言語頭脳と音楽頭脳と映像頭脳、ロゴスとパトスとエロス、大脳の新皮質、旧皮質、古皮質の戦い。
そうして私の考えだけでなく、私とあなたの次元を高めた新しい創造の世界が生まれます。
これこそがクリエーティブな仕事の醍醐味で楽しみです。
脚本だけの話ではありません。
監督の狙いを超えたカメラマンのアングル、カメラマンを超えたライトマンのライティング、衣装も美術も同じです。
オリジナルのアイディアが、スタッフ一人が加わるだけで、ワンステップ登るのです。
これが映画製作です。
塚本晋也はすべて一人でやってしまいます。
それは才能ですが、ある意味、悲しい才能です。
似た人がいます。北野武監督です。
北野監督の場合は、脚本を一人で書き、自らがビートたけしとして主演しています。
もうひとりチャーリー・チャップリンがいます。
チャップリンは脚本・監督・主演そして音楽も自分でやっています。
しかしオールマイティに溢れる才能がいいのかは疑問です。
塚本晋也のCM監督時代に出会ったことがあります。
私の仕事ではありませんが、監督がナレーターをやったと聞いて、驚いたことがあります。
作るのが好き、演ずるのが好き、塚本晋也はエネルギッシュなクリエーターでした。
3、平和の思想
『ほかげ』で納得できないところがあります。
映画の後半のプロットは、軍人時代の上官に非人間的で許せない奴がいた、その彼への復讐劇です。
反戦思想の濃い、極限状況になると人間はなにをするかわからない、人間批判の物語です。
なぜいまさら、塚本晋也が戦争への反省を描くのか、さっぱりわかりません。
さらに、浮浪児が戦後の闇市で働くシーンがあります。
メシ屋の食器を洗う浮浪児、メシ屋の親父に蹴飛ばされる浮浪児、それでも食器を洗う浮浪児、するとメシ屋の親父は何気にスイトン(雑炊)を板の台の置いてくれる。浮浪児は食べる、また皿を洗う、今度は板の台に小銭が置いてある。
戦争になると人道上許せない軍人がいる。一方で戦後の闇市にも光り輝く人間がいた。
人間批判と人間讃歌。悪い奴のいればいい奴もいる。
しかし、そんなことが映画表現のテーマになるのでしょうか。
塚本晋也の才能のために、脚本家とのタッグマッチを勧めます。
自らの天才と決別してはいかがでしょうか。