クリエーティブ・ビジネス塾21「孤狼の血」(2018.5.21)塾長・大沢達男
1、エロとテロ
映画『孤狼の血』がいい。中条省平先生の日本経済新聞の映画評に誘われて見ました日経夕刊5/11)。
いい映画とは何でしょうか。映画を発明している映画です。
たとえば、エイゼンシュタインは『戦艦ポチョムキン』で、わずか1~3秒の短いカット、それもフィックス、を重ねることで、モーションピクチャー(動く映像)になることを発明しました。それとは逆に、溝口健二は『雨月物語』で、長いカットを使い(それには究極のカメラワークとライティングが求められる)、人間ドラマの構築に成功しました。さらに溝口を師と仰ぐフランスのゴダールは『勝手にしやがれ』で、手持ちカメラを使った長いカットで、現代社会の不安定で刹那的な人間の心を、描いてみせました。
『孤狼の血』は映画を発明している偉大な映画ではありません。エロとテロで人間の本能を刺激する映画です。論理の大脳新皮質でも、感性の大脳旧皮質でもない、本能の大脳古皮質を刺激する映画です。これは、小説でも音楽でも味わえない映画だけの魅力です。
映画の冒頭は、凄惨なリンチ殺人のシーンから始まります。中盤にはペニスにナイフを立てるシーンがあります。ヤクザはペニスに真珠やシリコンからできた玉(タマ)を入れています。性交のとき女性を悦ばせ女性を支配するためにです。映画では復讐のために、全裸のヤクザのパニスから、タマを抜き取ります。さらにエンディングでは敵対する組長の首を切り捨て、便器に投げ込む、グロテスクなシーンがあります。バイオレンスというよりホラーに近い、居眠りはできない映画です。
2、殉国
勘違いしないで欲しい。エロ、テロには理由がありまます。手前勝手、わがまま、自己中で、暴力を振るっているのではありません。映画は、組のため、組織のために、お国のために、戦う男達を描いています。
主人公の刑事、大上(おおがみ=役所広司)は、民を救うという崇高な目的をもっていました。「警察じゃけえ、何をしてもええんじゃ」。放火暴力、収賄贈賄、職務違反、何でもありの暴力刑事ですが、殉ずるものがありました。松坂桃李が演ずる大学出の新米刑事もそうです。県警本部の監察官の指示で動いていました。国家権力の組織に殉じていました。悲劇の若い組長の江口洋介も、憎たらしい年寄り組長の石橋連司も、右翼団体を兼ねる組長のピエール瀧も、組織のためにあるいは国のために、命を投げ出しています。「殉ずる」とは仕事のために命を投げ出すことです。
人間が生きることとは、「忘己利他」、「滅私奉公」、自分を捨て他人の役に立つことです。「七生報国」、何度も生まれ変わり、国の役に立つことです。自分を探して、個性的に働き、好きなことをして生きる、そんな日本の風潮に、『孤狼の血』はいちゃもんをつけています。
3、ミシマ
かつてのヤクザ映画はピンク映画と同じように、人生の裏街道を歩む者たちをターゲットの作られていました。ヤクザ、暴力団、風俗関係者、飲食業、深夜労働者のための娯楽でした。
日差しのあたる表街道には、小津安二郎や黒澤明の映画がありました。ヤクザ映画を映画の表通りに引っぱりだしたのは小説家の三島由紀夫です。雑誌『映画芸術』(1969.3)で『総長賭博』(山下耕作監督)を絶賛し、耐えに耐え、忍びに忍び、組織と掟に殉ずる男の美学を、主演の鶴田浩二に見いだしました。それは手前勝手な「平和と民主主義」の告発でもありました。
任侠からヤクザへの映画は、シノギ(収入=金儲け)が賭博やミカジメ料ではなく、産業資本との癒着へ変変化し、近代化により、義理と人情が合理と利益に変わる矛盾を描きました。さらにヤクザから暴力団への映画は、覚せい剤、総会屋、地元警察と県警の対立、官僚組織の腐敗をテーマに、任侠の消滅、伝統の崩壊を描きました。
『孤狼の血』は、いまから30年前の昭和の終わりを時代設定にし、「今」から逃げています。
「今」のシノギは、マネーロンダリング、ペーパーカンパニー、仮想通貨、デジタルでグローバルです。そして社会には、既得権益者を守るお受験の教育産業、高齢化社会を食い物にする行政、認知症の老人を育成し利益を上げる医療、平和を売り物に売国するメディア、正義や革新が最大の「ワル」を演じています。
『孤狼の血』は、エロとテロのエンターテイメントで終わっていけない。日本の伝統を破壊した「平和と民主主義」と戦わなくてはいけない。『アウトレイジ』の北野武も今と戦うことができない、ていたらくですから。