THE TED TIMES 2024-08「日本映画大学」 2/21 編集長 大沢達男
日本映画大学の卒業制作を観て、天国から今村昌平先生の声が届きました。
「映画技術の天才(まあ職人かな)はいたかもしれないが・・・映画製作の不良はいなかったね」
1、不良で天才
「俳優というのは不良だ」
「不良が映画の世界では主役を演ずるから面白いんだよ」。
「三船敏郎という役者は当時の不良。その不良を黒澤明監督が連れてきて映画で主役に使った、だから面白いんだ」
「最近の不良では、・・・女優とトラブルを起こしている長渕剛というのがいるらしいが、奴が面白そうだ」
「監督は?」
「・・・監督は・・・不良で、天才!かな」
日本映画学校に市民が参加できる「土曜映画会」というのがあって、今村昌平校長が話してくれたのを鮮明に覚えています。
1986年に日本映画学校が新百合ヶ丘に移ってきて、1992年から日本映画学校では石堂淑朗先生が校長になっていますから、その間のことでした。
日本映画学校は、2011年から新百合ヶ丘駅前から白山キャンパスに移り、日本映画大学になりました。
その卒業制作上映会が2月10日に新百合のイオンシネマの大スクリーンでありました。
今村昌平先生が期待するような「不良で天才」監督は誕生したでしょうか。
2、家族
3本の卒業制作を続けて観ました(5本上映でしたが、時間の都合で途中で失礼)。
そして驚きました。
どれもこれも「家族」がテーマの映画だったからです。
20代前半の若者それも映画表現を学んでいる学生の最大関心事が「家族」というのに驚きました。
卒業制作はその作家(学生)の一生を左右します。いや決定づけます。
東京芸大の油絵画家の卵は、卒業制作に「家族」をテーマに選ぶでしょうか。
あり得ません。
まあ、変なツッこみはヤメましょう。
『卒業制作』 vs 『プロの作品』。
二つの作品を対決させて鑑賞し評論します。
これは面白いことになりそうです。
1)『あしあとステッチ』 vs 『理大囲城(Inside the Red Brick Wall)』
第1作目は『あしあとステッチ』、35分のドキュメンタリーでした。
兄と私そして両親の家庭です。
不幸が突然訪れます。
建築設備業で順調に業績を伸ばしていた父の会社が、反社(反社会的勢力)と関係を持っていたということで、社会から追放され倒産します。
私は父に何が起こったのかを検証するために取材を始めます。
父と兄、父と母、そして父と従業員、そして私は父と直接対決します。
映画解説のパンフレットは、「家族とは何なのだろうか」と、結ばれています。
映画が描いた「九設倒産」は実在の会社で実際に起こった事件です。
もし父(田島貴博)が反社勢力と関係がないなら、テーマは『冤罪』になります。
しかし父が反社勢力と関係があるなら、反社勢力が何者かがテーマになります。
どちらのテーマでも取材はむずかしい。
かといって「九設倒産」を家族の問題に矮小化することはできません。
作者の学生のみなさんに、質問します。
香港映画のドキュメンタリー『理大囲城(Inside the Red Brick Wall)』(劇場公開2022 監督:香港ドキュメンタリー映画工作者)をご覧になりましたか。
香港民主化デモの中で、2019年に警察が香港理工大学を包囲し学生をキャンパスに閉じ込めた事件を、学生側から撮影した映画です。
香港、中国では上映禁止、でも日本では観ることができました。
反乱を起こした学生たちは、大学の中に留まるべきか、逃げるべきか。
決断をしなければならない運命の時が迫ってきます。
きみならどうする?
キャンパスからの脱走はできます。
塀を乗り越え飛び降りる、生きるか死ぬかの決死行、しかし裏切り。
残ったものは警察との最終決戦になります。
これも地獄です。
観客はいつも決断を迫られます。
対して『あしあとステッチ』では、作者自らが安全地帯にいて、「九設事件」に迫っていない。
不満が残ります。
なぜ、父の罪について警察と対決しない?・・・反社の人へのインタヴューをしない?・・・父と反社の人が会食したレストランの話を訊いてみない?・・・
私の判定:×学生の負け、○プロの勝ち
○天国からの今村昌平先生の声
「お疲れさまでした」
「 『九設事件』の本質は、大分の事件なのに福岡県警が出てきていることです」
「ひとりの学生がテーマにできる事件ではありませんでした」
「ただし取材を拒否していた父親を説得し、インタヴューに成功したことで、作品は形になっています」
「そこは評価します」
「しかし、疎遠だった父との関係が改善された、という結論では弱い」
「父が家庭を顧みなくなったのは、仕事だけですか。隠された理由があるのではないですか」
「すべての人を問い詰めなければ、観客の心を捉えることはできません」
「ずる賢く、醜い、人間の悪を撮るのです」
2)『つきあかり』 vs 『兎たちの暴走』
第2作目は『つきあかり』、25分のドラマでした。
東京のバレエ団でプリマをしている私が2年ぶりに故郷に帰ります。
姉が先に帰っていました。
母は一人暮らし、父は2年前に亡くなっていました。
姉はそれと気がついていませんでしたが、母はボケて耄碌(もおろく)していました。
医者に見せるとアルツハイマー型認知症、一人暮らしは難しいと診断されます。
私は東京帰りを延期し母を介護します。姉は施設に入れろと提案します。
私は「バレエと家族、どちらを取るべきかで、悩み続けること」(パンフレットより)になります。
プリマは一日として稽古を休むことはできません。
バレリーナは1日休むと自分ではわかり、3日休むと観客にわかるという厳しい仕事です。
ドラマはバレリーナの現実を無視しています。
介護では「地域包括ケア」が社会のテーマです。
家族、となり近所、ケアマネ、医師が、支え合い・助け合うのです。
室内だけの描写ではだめ、近所と社会を撮るべきです。
そして一番の問題は「認知症」という言葉です。
「Dementia」の訳語に「認知症」を決めた厚労省は間違えています。
高齢化によるボケ・耄碌(もおろく)は病気ではありません。ですから治療・治癒はできません。
学生の皆さんに質問します。
昨年(2023年)公開の中国映画『兎たちの暴走』(『兎子暴力』 The Old Town Girls 2020年 中国)を観ましたか。
中国語でいいます。「兎子暴力(Tuzi baoli=ツージ バオリー)」です。
この映画も『つきあかり』と同じように、母と娘を扱っています。
しかし心温まる家族とは正反対です。母と娘は、娘の同級生を誘拐し、殺害してしまいます。
主人公は母と娘、そして娘を中心した4人の女性、そして女性のシェン・ユー監督の撮りました。
伝統的な価値観の崩壊、無制限に解放される欲望、アノミー状態(規範の崩壊)の市民を描いています。
『勝手にしやがれ』(1960年 ゴダール)、『理由なき反抗』(1955年 ニコラス・レイ)、『俺たちに明日はない』(1967年 アーサー・ペン)です。
パンキッシュなファッション、ワイングラスが並ぶスタイリッシュなテーブル、アンニュイ(物憂げで気怠い)でノンシャラン(無頓着で投げやり)、フリージャズのような映画です。
こんな中国映画は初めてです。
私の判定:×学生の負け、○プロの勝ち
○天国からの今村昌平先生の声
「エンディング。『つきあかり』の中で、母親の前で踊る娘のシーンはうまく撮れています」
「お疲れさまでした」
「ところで、私の『楢山節考』を観てくれましたか」
「老いを究極まで問いました」
「『つきあかり』は、老いの問題から逃げていませんか」
「ボケと耄碌(もおろく)の母による家庭の破壊を、地域社会の破壊を、撮ることから逃げていませんか」
「冒頭の評価と矛盾しますが、老いの問題に対して心優しい人々を描いても解決になりません」
3)『ママ』 vs 『苦い銭』
第3作目は『ママ』、53分の中国を舞台にしたドキュメンタリーでした。
中国人の母親(私)の物語です。
私の夫はレストラン経営の社長、私には子供が3人います。小6、小4、小1の3人の娘。
ただし末娘は自閉症。
私は社員トレーニング学校の校長を務め、小さい頃からの夢、花屋の経営を始めていました。
自閉症の子の特殊教育と家族のケア、そして夢の花屋の経営、私は「家族と夢の両立を果たすことができる」(パンフレットより)でしょうか。
「家族と夢の両立」って何ですか。
なぜ、家族が夢にならないのですか。なぜ、家族と夢が対立するのですか。
西欧流の個人主義のようで問題の立て方で発想がおかしい。
中国は「仁義礼智信」の外婚制共同体家族の価値観です。
学生の皆さん、中国映画『苦い銭』(『苦銭(Bitter Money) ワン・ビン=王兵監督 フランス・香港合作 2016年製作 2019年公開)を、観ましたか。
出稼ぎ労働者少女シャオミン(16歳)の話です。
賃金は12時間以上働いて、70~150元(1190~2550円)、粗末な食事、狭い部屋にベッドが並ぶタコ部屋での生活です。
ゴミが散乱している粗末な街にベンツが我が物顔に乗り込んできます。
カメラがメチャクチャいいです。
すし詰めの車内、女工たちの日常、言い争い、夫婦喧嘩、髪や首筋をつかむドメスティック・ヴァイオレンス。
おまけに登場人物が突然カメラマンに命令します。ついてきて、そして撮って。
カメラマンは5人。中に日本人が一人いました。
監督からは、1日最低3時間、5時間は撮れと命令されました。
1人5時間、5人のカメラマン、1日25時間、1週間で175時間。そこから2時間の映画が制作され、中国の格差社会を告発しました。
『苦い銭』は、動物のように生きうごめく人間どもを撮り、時代を撮りました。
私の判定:×学生の負け、○プロの勝ち
○天国からの今村昌平先生の声
「私が作った学校の生徒が中国で撮影できるなんて驚きです。関係者のみなさんに感謝します」
「気に入ったシーンがありました」
「納品した花に対するクレームの電話のシーン、自閉症のこどもが、粘土細工の人間の足や腕をもぎ取るシーン」
「いいじゃないですか。あのキャメラ・アイです。お疲れさまでした」
「ただし、あとは散漫。本(脚本)の問題でしょう」
「『ママ』の家族は恵まれていませんか。上の下あるいは中の上でしょう」
「だから問題の立て方が難しい」
「病気と医師と医療施設、商売と利権と官僚、教育と地域と中国共産党」
「どれでも掘り下げられます。うごめく人間を描けます」
3、映画の発明
1)何を撮るか
今回の卒業生は、コロナ禍に学生時代を送っています。
コロナがみなさんを内向きにし、「家族」と向き合うことしかできなくした、と考えると悲しい。
しかし、なぜコロナを問わない?という疑問も生まれます。
○文明の環境破壊がコロナを起こしました。武漢の問題を究明すべきです。
○医学は伝染経路を解明できていませんでした。マスクとワクチンは新たな公害を起こしています。医学を疑うべきです。
○中国には「QRコード」による人民支配の問題があります。私は22年11月にイーキン・チェンのコンサートのために香港に行きました(映画スター・鄭伊健=イーキン・チェンのマネージメントスタッフ)。ホテルで2日間足止めされ、政府からQRコードが送られてきて、外出が可能になりました。私も中国人の行動も中国政府により監視されています。
○民主主義は危機にあります。香港には周庭(アグネス・チョウ)の問題もあります。
○あなたたち学生の発言もすべてAIにより就職先から検閲されています。AIによるキーワード検索の前に言論の自由などありえません。
○映画『ブレードランナー』の次の時代をテーマにすべきです。シンギュラリティを前にして何を学習すればいいのか。ベーシックインカムで私たちは労働を奪われるのか。
○ここでは国際政治の問題には触れません。政治のテーマを議論できないほど、時代は深刻です。
1989年の天安門事件を描いた『天安門、恋人たち』(『頤和園=イーフォユェン』 Summer Place 2006)を日本では観ることができます。
ロウ・イエ監督を過去の人にしてはいけません。
2)どう撮ったか。
いままで辛口にみなさんの仕事を評価してきましたが、作品は仕上がっていました。
作品がしっかりとしていたから、感想があり、評論ができました。
どう撮ったかの映画技術はしっかりしたものです。キャメラ、照明、美術、衣装、編集、MAに破綻はありません。
とくに印象に残ったのは音楽、音の作り方、使い方がうまいことです。
映画職人の養成はできています。素人の意見ではありません。
私は電通のCMクリエーターで、企画、脚本、演出、撮影、編集、ナレーション、MA、予算がなければオールマイティでした。
CMクリエイターは、日本の映画人はもちろん、英・米・仏・独・中、海外の映画スタッフと同じ釜の飯を食い、仕事をしています。
さらに企画とプレゼンテーションのプロです。
今回の卒業制作で感じたのは、プランニングとプレゼンテーションが内向きすぎること、世界感覚がない・・・(広告のチンドン屋が偉そうですみません)。
日本映画大学でもCM講座を1コマ持ちたかったのですが、いまとなっては残念です。
3)映画の発明
映画職人の養成だけでは、映画大学とはいえません。
映画は、映画という確固たる概念があって、それを作ることではありません。これが映画だ!を発明しなければなりません。
エイゼンシュタインは2~3秒のフィックスの短いカットをつなげモーションピクチャー(動画)にしました。
逆に溝口健二はワンシーンをワンカットで撮りました。奇跡のキャメラワークとライティングがそれを支え、新しい映画が生まれました。
さらにゴダールは手持ちのカメラの長いカットを使い、揺れ動くアプレゲールの心を撮り、ヌーヴェルバーグになりました。
日本映画大学の英名は、”Japan Institute Of The Moving Image” です。映画(cinema)ではなく、動画(moving image)を使っています。
そこには映画という固定観念を打ち破る、映画を発明する確固たる意思があります(それにしても分かりにくい英語。学校名としては不適切)。
○天国からの今村昌平先生の声
「卒業制作、お疲れさま」
「残念ながら、今回の作品では『不良で天才』に出会えなかったね」
「映画技術の『天才』(まあ職人かな)はいたかもしれない、でも映画製作の『不良』はいない」
「なぜならば私が好きな、「うじ虫」のような人間を、撮れていなかったから・・・」
「問題は脚本。いや脚本以前の、企画の問題だろうね」
「ことしの卒業制作では映画は発明されていなかった。来年また、お会いしましょう」
End