「銀座の終わり」と「ジャズの誕生」を描いた映画『白鍵と黒鍵の間に』。

THE TED TIMES 2024-04「映画『白鍵と黒鍵の間に』」 1/22 編集長 大沢達男

 

「銀座の終わり」と「ジャズの誕生」を描いた映画『白鍵と黒鍵の間に』。

 

1、「アキラのズンドコ節」

70年代に、銀座日航ホテル(今はない)の地下で、ピアノ弾きのバイトをしていた坂本龍一が、当時を回顧して語っています。

<演歌をリクエストされると、バイトを終わった後もしばらく間、そのメロディが頭に残ってしまって、仕事にならなかった>。

映画『白鍵と黒鍵の間に』も同じです。

映画が終わって印象に残ったのは、親分A(熊野)が歌った「アキラのズンドコ節」だけに、なってしまったからです。

<銀座で小林旭はヘンだ、石原裕次郎だよ>。<原作では村田英雄の「王将」だったのに>。<そもそも「アキラのズンドコ節」は2003年リリースだから、映画が描いた1986~9年の銀座で歌われるのはおかしい>。

私は分けの分からぬことを考え始めていました。

しかし映画にとって、こんなことはどうでもいい、ことでした。映画は極めて観念的に「銀座の終わり」と「ジャズの誕生」を描いていました。

 

2、銀座

服部時計店を背にしてまず第一歩を踏み出す。晴海通りを渡り、右に曲がってすずらん通り方に左折、しばらく行ってみゆき通りを右折。その先の界隈が、僕が毎晩いた思い出の場所である」(『白鍵と黒鍵の間に』 p.183 南博 小学館)。

映画『白鍵と黒鍵の間に』の舞台は、鳩居堂ソニービル(今はない)、銀座電通、ライオンビアホール(交詢社通りの向かい)に囲まれた、銀座の四角形の中にあります。

四角形の頂点の古いビルの撮影は銀座描写には不可欠ですが、映画には出てきません。

そして銀座に欠かせない飲食の場所すらも登場しません。

まずそばの「よし田」。四角形から新橋側にちょっとだけ飛び出しますが、銀座で仕事をする人々が夕方になると集まり、食事をする場所でした。

とんかつの「とん通」(いまはない)、とんかつの「梅林」(昭和2年創業)、そして焼き鳥屋の「とり銀」も出てきません。

太宰治が飲んでいた「ルパン」、都知事美濃部亮吉(とんでもない革新知事)がランチを食べていたフランス料理「エスコフィエ」、となりの通りの「三笠会館」の看板すらも出てきません。

映画の中でバンドマンのたまり場として「ボストン」は、みゆき通り「風月堂」のそばのはずですが、どうしても思い出せません。

「ボストン」が実在していたとしても、映画で描かれているような場所は、銀座にはありませんでした。

あくまでも映画のコンセプチュアルな設定です(撮影に使われた町田のジャズ・バー「ノイズ」は客としてお世話になっているので、あまり突っ込みたくないありませんが)。

さらに映画にはクラブのホステスさんが登場しますが、当時の銀座を忍ばせるホステスさんがいません。

銀座のホステスさんは、ファッションモデルよりファッショナブルで、喋りは威厳のあるインテリでした。彼女たちが銀座のファッションを作り、日本の流行を生み出していました。

残念です。映画『白鍵と黒鍵の間に』には、銀座が撮影されていません。

でも映画は、銀座を描こう、などとハナから思っていません。

 

3、「奈落の底」

1)始まり

舞台は1980年代後半(1986~9)の銀座です。「ヒロシ(博)」がキャバレー(交詢社通り?)のピアニストとしてデビューします。

ある日キャバレーで銀座を二分するヤクザの「親分B」(あいつ)から映画「ゴッドファーザー」の『愛のテーマ』をリクエストされ弾きます。しかしこの曲は、銀座を二分するもう一人のヤクザの「親分A」(熊野)だけが、銀座で聴くことができる曲でした。

それを知らずにやってしまった「ヒロシ」の演奏は事件になります。

2)クラブ

「ミナミ」はあることからキャバレーのピアニストからクラブ(みゆき通り?)のバンドのピアニストに採用されることになります(「ヒロシ」は「ミナミ」に)。

そこはなんと『愛のテーマ』を聴くとこができる「親分A」(熊野)のシマで、「親分A」が馴染みの客でした。

クラブには外国人の女性歌手がいました。彼女はいつも客が演奏を聞いてくれない、と嘆いていました。「ミナミ」は、所詮ジャズ・バンドは店の飾り、花瓶のような存在だと諭すのでした。

3)最後の日

銀座最後の日がやってきます。

「ミナミ」はボストン・バークリーへの留学を決心していました。

女性歌手がそれにはデモテープが必要だとアドバイスし、クラブの演奏をラジカセで録音することにします。しかし店には最高の顧客である演歌が好きな「親分A」もやってくる。許されるだろうか。

ドラマは急展開します。

かつて「ミナミ」に『愛のテーマ』を弾かせた「親分B」(あいつ)が、懐かしのキャバレーに行き若いピアニスト「ヒロシ(博)」(一人二役、非常に分かりにくいところ)に、昔と同じように弾いてくれと『愛のテーマ』をリクエストします。

そして『愛のテーマ』を弾いたピアニストは、現在はクラブ(みゆき通り)のバンドのピアニスト「ミナミ」になっていることを知り、「親分B」(あいつ)は「親分A」(熊野)がいるクラブに乗り込んでいくとになります。

4)奈落

クラブでは「親分A」(熊野)が「アキラのズンドコ節」を歌っていました。

「親分A」(熊野)と「親分B」(あいつ)が対決します。殺し合いになります。もちろん「ミナミ」も巻き込まれます。そしてみんなは、デモテープも、ビルから奈落の底に転落していきます。全ては終わります。

しかしドラマはここから・・・奈落の底で死者たちは復活し、「ミナミ」も浮浪者として復活し、母に巡り合い「母子手帳」を受け取ります。それはハシカの接種証明書として渡米には不可欠のものでした。

「ミナミ」はジャズのアメリカへ、ピアニストになるためにボストン・バークリーへ行くことになります。

***

原作の南博はピアニストとして掛け持ちしていて、クラブSとクラブRの2軒の間は歩いて5分とかからないところだ、とあります。

疑問があります。

映画では、「どこに」クラブがあったのか、描かれていません。

映画で、親分B(あいつ)が「愛のテーマ」をリクエストしたキャバレーを小説のクラブR(交詢社通り)、親分A(熊野)が歌ったクラブをクラブS(みゆき通り)と想像するしかありません。

そしてもう一つの疑問。

映画はビルの谷間の「奈落の底」を描きますが、現実の銀座にあんな場所があるのか、です。

つい先日、銀座の四角形の中をくまなく歩きました。ビルの谷間はありましたが、浮浪者が住めるような空き地はありませんでした。

「奈落の底」は、ロケハン(シナハン)をしていて監督が思いついた、これも現実にはないコンセプチュアルな設定です。

そして再び、思います。

映画は現実の銀座など問題にしていない。

映画は、「銀座の終わり」の象徴である「奈落の底」から始まり、「ジャズの誕生」の象徴である浮浪者の主人公ミナミ・ヒロシが住んでいる「奈落の底」で終わります。

映画のエンディングになる奈落の底で、南博が言ったセリフが印象的です。

<戦争したり、地球環境を壊したり、只々糞を垂れて死んでいくだけではいやだから、僕は人間にできうる何か美しいものをこの世に提供したいと願う>(『白鍵と黒鍵の間に』 p.113)。

***

南博を弁護します。映画がキーとして取り上げたのは、南博がバンドを始めたばかりの頃に考えた「青い」言葉です。

それから20年後南博は、「ジャズは生き様。バークリーの栄光も、銀座の暗黒も、私。」(p.185)の趣旨のことを言っています。こちらの方が「ジャズの誕生」にふさわしい。

 

4、ギンザ・ポスト・ギンザ

現実の南博(1960~)が、銀座にやってきた頃(1986~9)に、銀座は終わりを迎えていました。

1980年代の末に銀座で重大事件が起りました。中華料理屋「東興園」の火災です。

東興園は、先ほどの四角形からちょっと外れた、銀座電通前で電通通りを挟んで日経金ビル(現ヒューリック)の裏の路地にありました。

映画監督小津安二郎(1903~1963)が愛した店でした。

小津は「深川」、女将さんは「浅草」、二人は気が合いました。

映画『東京物語』の撮影の時には女将さんが、東京駅で仕事をする撮影クルーに、シューマイを差し入れました。

小津が「東興園」に通っていた20年後に、「本所」生まれの私も、「シューマイ・ライス」を食べに通い、いつも特製スープをサービスしてもらっていました。

「東興園」だけが銀座なのに下町でした。

電通にクリエーターとして入社したばかりの私は、ほのかに少女の面影があるわずかな異形で、女将さんは「小津のような活躍をする」と将来を保証してくれていました。

火災には地上げ屋の放火の噂があります。

だとすると、「親分A」、「親分B」のどちらかが関与していたはず・・・。

「東興園」の焼失で銀座は終わりました。

そして私も電通を退職し、フリーランサーになり、銀座を離れます。2002年には電通も汐留へ、銀座を離れます。

そして決定的なことが起こります。

2015年にそばの「よし田」(創業明治18年)が閉店します。

「よし田」は160席、3階まである大きなそば屋でした。

19世紀のフランスの画家エドゥワール・マネ(1832~83)の絵画「フォーリー・ベルジールのバー」があります。

「よし田」の客は、あの絵に描かれた客にそのものでした。

銀座のキレイどころ、会社の重役、ボーイ、バンドマン・・・そして富裕の人々。

「よし田」の閉店は、銀座の終わりの象徴でした。

映画『白鍵と黒鍵の間に』が銀座を描かなかったのは必然です。

原作が、「ジャズ喫茶」と「ジャズクラブ」を失った「ジャズ・ポスト・ジャズ」の銀座を描いたように、

映画は、「東興園」と「よし田」を失った「ギンザ・ポスト・ギンザ」(銀座が終わった後の銀座)の物語でした。

 

5、「銀座の恋の物語」

映画『白鍵と黒鍵の間に』のかんじんの音楽について触れませんでした。それは「ジャズピアニスト・エレジー 南博 ライブアット新宿ピットイン」(2月3日)を聴いた後にしましょう。

冒頭に触れた「アキラのズンドコ節」(2003年)は当時の歌ではありませんでした。

あの頃の銀座で本当にヒットしていた歌がありました。石原裕次郎の「銀座の恋の物語」(1886年 映画は1887年)です。

もし・・・親分A(熊野)が「銀恋(ギンコイ)」を歌っていれば・・・映画は全く違う印象になっていました。

ゴッドファーザー』のマーロン・ブランドアル・パチーノ、そして任侠映画鶴田浩二高倉健(二人は歌もうまかった)に負けない、二人の親分が造形され、銀座伝説が生まれていたはずです。

そしてその映画は、エルメス(旧ソニー・ビルの隣)、ジュルジュ・アルマーニ(洋書店イエナ、近藤書店があった)、ルイ・ヴィトン(南博の仕事場あたり)、バーニーズ・ニューヨーク(交詢社ビル)に占領されてしまう前の、「銀座の終わり」の名画になった・・・

そこまでは言いますまい。

(終わり)