TED TIMES 2021-49「コルトレーン」 12/15 編集長 大沢達男
コルトレーンを、ヒューマニストやリベラリストに、してはいけない
1、映画『ジョン・コルトレーン チェイシング・トレーン』(「Chacing Trane: John Coltrane Documentary」 2016年 アメリカ 監督:ジョン・シャインフェルド)
12月の11日土曜日の午後、有楽町でコルトレーンの映画を見ました。客席はほぼ満員、場所柄もあるでしょうが、団塊の世代中心の観客でした。
ちょっとがっかり。
ジョン・コルトレーン(1926~1967)は不滅、若い人が狂喜する前衛の映画で欲しかった、年寄りの思い出映画であってほしく欲しくなかった、・・・まあしょうがないか。
意外なプロットが3つありました。
まずコルトレーンが50年代に麻薬とアルコールの中毒であったことです。コルトレーンといえば、真面目で求道的な芸術家とばかり思っていましが、意外でした。
事実、1966年に神保町のジャズ喫茶「響」にやってきたコルトレーン・コンボのメンバーは酒もタバコもやらなかった、という証言を「響」の大木俊之助さんがしています(『ジャズ喫茶に花束を』(村井康治 p.46 河出書房新社)。
真相は、コルトレーンが57年に中毒を克服していることです。以後、神の天啓を受け、本格的な活動を始めます。
次に黒人の地位向上にコルトレーンが大きな力を発揮した、と描かれていることです。映画には、黒人弾圧の映像やキング牧師が登場してきます。
そして第3、1966年に来日し、殺人的なスケジュールをこなし、原爆都市・長崎を訪問し、『ナガサキ』を作曲していることです。
ドラッグ克服はともかく、映画は人権や平和運動の思想家コルトレーンとしてその生涯を、総括しています。
となるとちょっと違う、反抗しました。コルトレーンはそんなケチ存在ではない。
2、1967年7月17日
コルトレーンが死んだ日、大学4年(正確には5年)の夏休みでした。
就職は決まっていない。「どうするの?」「廃品回収業でもやるさ!」。お先真っ暗な人生を送っていました。
ジョン・コルトレーンの音楽は、生きる上での支えでした。とくに『至上の愛』、『アセンション』への展開に目を見張っていました。
音楽は破壊されている、豚の叫び声のようなサックスの響き。でも時代はそんな音楽を待ち望んでいました。
「人生生きるに値しない」、「石を積み重ね、それを壊し、また積み重ね、壊す。人生とは不条理そのものである」、「人生に意味はあるか」、「自殺こそが哲学の最大の課題である」。
ジョン・コルトレーンの死で、最後の光が消えました。衝撃でした。
私たちは、街を彷徨い、ジョン・コルトレーン、アルバート・アイラー、オーネット・コールマンのアヴァンギャルド・ジャズの音を探しました(ステレオ再生装置は買えない、ラジカセもない時代)。
新宿・歌舞伎町の「ジャズ・ヴィレッジ」、横浜・黄金町の「スイング」、そのふたつが一番過激でした。そして東銀座には「オレオ」がありました。
新宿の「DIG」は、その意味でおとなしいジャズ喫茶、さらに横浜・野毛の日本最古のジャズ喫茶「ちぐさ」は保守本流(?)、伝説のオーナー吉田衛さんがお店にいらっしゃいました。
「リクエストなにかある?」「アルバート・アイラーのスピリチュアル・ユニティ!」「おじさん、そういうの聞かないんだよ」。断られました。
当時、北野武(ビートたけし)は、歌舞伎町の「ヴィレッジ・バンガード」でバイトをしていて、バイトの同僚に連続射殺魔の永山則夫がいました。
坂本龍一は都立新宿の高校生でしたが、学校の代わりにジャズ喫茶に通学していました。
映画ではジャン・リュック・ゴダール、大島渚、高倉健のヤクザ映画。演劇では寺山修司、唐十郎。アートではアンディ・ウォーホル、横尾忠則。建築では丹下健三、黒川紀章、磯崎新。ファションでは石津謙介、高田賢三、山本寛斎。写真では荒木経惟、篠山紀信。
ジャズだけでなく若者文化が爆発していました。
コルトレーンが死んだ翌年の1968年は、全共闘の学生運動の年(安田講堂事件は1969年)として記録されていますが、ストリートを歩けばわかるようにマルクス主義全盛であったわけではありません。
『1968 若者たちの叛乱とその背景』(小熊英二 新曜社)のように、学生運動を政治運動としてだけ見るのは間違いです。
コルトレーンの音楽は西洋近代の合理主義全般に意義を申し立てていました。コルトレーンを西欧近代の人権や平和の思想家として総括するのは危険な間違いです。
まず簡単なことに、コルトレーンは4人の女性をほぼ同時期に愛しています。しかも正妻以外の他の3人の女性に子供をもうけています。うち一人は白人女性です。コルトレーンはマンハッタン・スタリオン(マンハッタンの種馬)と呼べるようなエロスの人でした。コルトレーンは人権活動家でしょうか。
4人の女性を書いたのは、『コルトレーン ジャズの殉教者』(藤岡靖洋 岩波新書)ですが、この本はこの事実を書きながら、しきりに公民権運動とからめてコルトレーンの音楽が、リベラリズムの抵抗の音楽であることを強調します。主張がバラバラ。岩波書店の編集方針はこんなもんでしょう。
なぜ、こんな音楽以外のことで、からむのか。
『サピエンス全史』(ユヴァル・ノア・ハラリ 柴田裕之訳 河出書房新社)が、自由、基本的人権、リベラリズムの思想は、白人帝国主義の思想であることを明らかにし、『ナショナリズムの美徳』(ヨラム・ハゾニー 庭田よう子訳 東洋経済新報社)が、リベラリズムを帝国主義として、退けているからです。
コルトレーンを古い書棚に閉じ込めてはいけない。時代は動いています。
コルトレーンの死の1967年7月17日の直前の6月に、カリフォルニアで20万人の若者を集めた1967年モントレー・ポップ・フェスティバル開かれています。ジミー・ヘンドリックス、ジャニス・ジョップリン、ママス&パパスが登場しました。この流れが1969年のウッド・ストックになります。
自然に帰れ、反産業社会、近代の合理主義批判。時代はロングヘア、Tシャツ、スニーカーのヒッピーへ。時代はジャズからロックに変わります。
コルトレーンの存在は、全ての社会変動の象徴で、新しい時代の到来を予言し、若い世代に影響を与えました。
しかしコルトレーンの死でジャズの歴史は終わりでした。ニューヨークのライブスポットはつぎつぎに閉店、日本でも新宿にあれほどあったジャズ喫茶は姿を消します。
コルトレーンの死はジャズの死でした。一つの世代の青春の終わりでした。
3、「Left Alone」
なぜいまさら、ジャズを聴くのか、しかもコルトレーンを聴くのか、わかりません。
一つは、有楽町の映画館に集まった観客のように、情けないけれど、青春の思い出からでしょう。
それともう一つは、ジャズが既成の概念にとらわれず、破壊と創造を繰り返す音楽だからでしょう。
ニューヨークに行くと必ずジャズ・ライブに行きます。ミュージシャンは、ナツメロではなく必ず新しい挑戦を、演奏して聴かせてくれます。
そうです。コルトレーンには挑戦があります。それに勇気づけられる、だからコルトレーンが聴きたくなります。
コルトレーンを語る時に、対照的なサックス奏者で、忘れられない二人がいます。
一人は「Saxophone Colossus」のソニー・ロリンズです。コルトレーンが知的だとすれば、ロリンズは官能的でセクシーです。
もう一人はジャッキー・マックリーン、というより「Left Alone」(マル・ウォルドロン)。これは人生に失恋したような演歌、めっちゃエロです。人生の曲がり角にはいつもこの曲が現れます。「音楽は思い出を作るから嫌いだ」(寺山修司)。まさしくその通りです。
ロリンズもレフト・アローンも、聞くとあの頃を思い出します。情感べったり、退嬰的。でもしょうがない、好きなんだから。癒されるだから。
しかしコルトレーンは違う。いまの自分が、戦っているか否か? を問います。
さて今日はコルトレーンの何を聴きましょうか。コルトレーンが本格化したのは1957年からです。活躍はそれから10年。亡くなる直前の曲は、いくらなんでも、さすがにしんどい。
1960年の「My Favorit Things」がいいでしょうか。ソプラノ・サックスのアドリブに酔いしれましょうか。
いやいや1957年の「Blue Train」にしましょう。ジャズっぽくて、聴きやすい。単なる思い出だけでなく、きっと神の天啓を受けたコルトレーンがいるはずです。それを探してみましょう。
復活なったジャズ喫茶・下北沢「マサコ」に行って、リクエストしてみます。これから出かけます。じゃあ。
(end)