映画『枯れ葉』は、今年二人目のフィンランドの監督の作品です。

THE TED TIMES 2023-52「枯れ葉」 12/27 編集長 大沢達男

 

映画『枯れ葉』は、今年二人目のフィンランドの監督の作品です。

 

1、アキ・カウリスマキ

映画『枯れ葉』を観ていて驚きました。ルキノ・ヴィスコンティ監督の映画『若者のすべて』(1960~)のポスターが、飲み屋の壁に貼ってあるではありませんか。

ほかにもいろいろな映画のポスターがありましたが、ヴィスコンティ監督の映画だけが目を引きました。

なぜ、分かったのでしょうか。

映画『若者のすべて』の原題『Rocco e I soui fratelli』(Rocco and his brothers=ロッコと兄弟)を知っていたからです。

飲み屋のシーンでは、壁のポスターにある若者がアラン・ドロンである、ことを確認するだけに集中していました。

そしてこの映画には、映画好きの監督のいろんなワナが仕掛けてあるんだろうな、と思い始めました。

そして映画のエンディング。最後のワナに笑いました。

男「犬の名前はなんていうの?」

女「チャップリン!!」

監督は映画が好きなんです。

そしてもうひとつフィンランドがヨーロッパの田舎であることがわかりました。

若者は都会に憧れ、映画を目指す。

 

映画『枯れ葉』は、イギリスのロックパンド『オアシス』のノエル・ギャラガーリアム・ギャラガーを思わせるような、いかにも労働者風の男(オアシスのファンの方々、失礼!)の恋物語です。

甘いロマンスの話ですが、田舎者で無教養な肉体労働者の二人が主役では、全くロマンチックではありません。

男は仕事中の工事現場でポケットビンから酒を飲むようなろくでなしです。透明な水のような液体ですから、スピリッツ系、ジンかウォッカでしょう。強い酒です。

女はこれまたパートタイム労働者のサエない女。賞味期限のパンとはいえ、それを店の棚からバックに入れて持ち出し、警備員に見つかり捕まってしまうのですから。

二人の関係は虚無的、と言ってもいいほどです

映画はそれをよく捕らえています。

ポートレートを撮るように動かないカメラ、喜怒哀楽の表情を表さない男と女。

セックスも、キスも、抱擁すらしない、恋人たち。徹底したアンチ・ロマンです。

それは映画の半ばで現れる「マウステチュトット」の演奏で決定的になります。

時代遅れの田舎のパンク・バンド。彼女たちの演奏で、映画のトーン&マナーは決定的になります。

反抗的、刹那的、虚無的、暴力的、無神論的。

でも・・・男と女は絆を求め、幸せを切望している。それに応えるように映画はハッピーエンドで終わります。

先ほど触れた映画のエンディングのシーン、男と女は二人並んで犬と一緒に、未来に向かって歩いて行きます。

そして犬の名前が「チャップリン!」で、笑って終わり。

あーよかった、よかった。

 

2、ユホ・コスマネン

映画『枯れ葉』の監督はアキ・カウリスマキ(1957~)、もう20本以上映画を撮っていて国際的にも評価されているフィンランドの映画監督です。

フィンランドの映画監督なんて珍しい。

ところが今年の初めにもうひとりフィンランドの映画監督の作品を見ています。

『コンパートメントNo.6』のユホ・コスマネン監督(1979~)です。

年の初めのユホ・コスネマン、年の暮れにアキ・カウリスマキ。今年はフィランドの年でした。

さて『枯れ葉』vs.『コンパートメントNo.6』。どちらに軍配が上がるでしょうか。

物語とカメラワークで、対照的な映画です。

『枯れ葉』は、ひとつの町で男と女の物語、そしてカメラは動きません。

『コンパートメント』は、ひとりの女性の列車での旅の物語、カメラは手持ちカメラで自由自在に動きます。

映画作りという点では、甲乙がつけられません。

ただ二つの映画には共通点があります。

フィンランドと外国の関係を扱っていることです。

『枯れ葉』は、物語に関係なく、ときどきラジオからウクライナ情勢を知らせます。

どうもアキ・カウリスマキ監督は、ウクライナの戦争に反対し、ロシアに怒りをぶつけているようです。

わかりません。

対して『コンパートメント』は、ウクライナ戦争が始まる前の映画ですが、フィンランドに批判的、ロシアに親和的です。

映画の主人公の女性は、自由を絵に書いたようなボヘミアンのフィランド人を断罪し、酒飲みで無作法なロシア人に親しみを見せます。

飛躍して言うと、映画は米国とNATOリベラリズムに、批判的です。

ウクライナ戦争の行方はわかりませんが、歴史人口学者のエマニュエル・トッドは早くも、米国とNATOの敗北を宣言しています。

論旨は、米国経済の脆弱さ、ドイツとロシアの切っても切れない関係、ポーランドウクライナ領土へ野心・・・極めて説得力があります。

フィランドのNATO加盟、リベラリズムへの帰依は間違いです。

まあ、屁理屈を並べて申し訳ありませんが、『枯れ葉』vs.『コンパートメントNo.6』は、世界観においてユホ・コスマネン監督の勝ちです。

 

3、ヴィム・ヴェンダース

全く個人的な事情ですが『枯れ葉』を観る前日に、ヴィム・ヴェンダース監督の『パーフェクト・デイズ』を見ました。

ともに最下層の労働者を扱っている映画ということで、今度は『枯れ葉』vs.『パーフェクト・デイズ』を考えてみます。

これは議論するまでもなく、アキ・カウリスマキ監督の勝ちです。

監督自身が郵便配達、皿洗い、煉瓦工の経験者で、労働者階級を描くのを専門にしている監督だからです。

『枯れ葉』の酒飲みの主人公が「オアシス」のリアムやノエルに似ているからではなく、彼に親しみを持てます。

つまり労働者の本当が描かれているから、仕事中にポケット瓶から焼酎を飲んで見たいからです。

対して『パーフェクト・デイズ』のトイレ清掃員平山さんは、インテリや金持ちの憧憬(強く言う軽蔑)でしかない、と私は生意気な感想を持ちました。

ヴィム・ヴェンダース監督は、「平山さんは、今の私たちが必要としているキャラクターだ」と言いましたが、平山さんは大人の童話の主人公でしかありません。

アキ・カウリスマキ監督には及びませんが、皿洗い、焼き鳥屋の店員、ガードマン、ちょっとした最下層の肉体労働者の経験をしたことのある私には、わかります。

いい映画ですが、平山さんに親近感を持つ、会いたいと思うことはありません。

 

アキ・カウリスマキ監督は1勝1敗。理屈で負けて、感覚で勝った、というところでしょうか。

映画好きの監督に敬意を評します。まずは映画『枯れ葉』に乾杯です。

 

 

 

『パーフェクト・デイズ』、東京をこんなに美しく撮った映画はありません。

THE TED TIMES 2023-51「パーフェクト・デイズ」 12/26 編集長 大沢達男

 

『パーフェクト・デイズ』、東京をこんなに美しく撮った映画はありません。

 

1、小津安二郎

映画『パーフェクト・デイズ』は、主人公の中山の部屋をカメラが低い位置から撮るシーンから始まります。

カメラはパンしたり、ズームしたりせず、フィックスされたままです。

ヴィム・ヴェンダース監督は日本での撮影だからローアングルでカメラを動かさない小津安二郎に敬意を評している、と思いながら観ていました。

ところが映画の半ばで、小津監督の映画「麦秋」と全く同じカットが出てきたので、驚きは確信に変わりました。

公園で二人の女性が、同じ動作でベンチに腰掛けるシーン。

これは『麦秋』のエンディングで、二人の女性が浜辺に座って話すシーン、そのときの動作と全く同じタイミングで撮影されています。

明らかです。ヴィム・ヴェンダース監督は小津安二郎監督を意識しています。

私は知りませんでした。ヴェンダース監督は、小津映画のカマラマン厚田雄春のアングルファインダーを自宅に持っているほどの小津安二郎のファンだったのです。

日本で撮るから気を使っていたのではありません。小津への尊敬を込めた映画だったのです。

 

2、THE TOKYO TOILET

『パーフェクト・デイズ』は、公衆トイレの清掃員・中山の物語です。

公衆トイレとは、東京・渋谷の公共プロジェクトで、著名な建築家が設計した17ヶ所のユニークでクリーンな「THE TOKYO TOILET」のことです。

主人公中山の仕事は、そこを日に3度、掃除して回ることです。

朝5時15分に起きて、布団を畳んで歯を磨き、「THE TOKYO TOILET」の作業着に着替えて、缶コーヒーを飲んで軽ワゴンで乗って出かけていきます。

仕事が終わったら、銭湯に行き、浅草の地下鉄駅のそばの地下道の飲み屋で飲み、時々馴染みスナックに行き、部屋に帰り、布団を敷いて本を読んで寝る生活、その繰り返しです。何も変わりません。何も起こりません。

ただ変わっているのは、中山が部屋でいくつも植木を育ている、水をあげるのが日課になっていること。

つぎに軽ワゴンにはカセットテープがあり、中山は懐かしのポップスを聴きながら、仕事場に向かうこと。

たとえば映画の冒頭ではアニマルズの「朝日の当たる家」がかかります。

そしてもうひとつ、中山がオリンパスのフィルム撮影のコンパクトカメラを持ち歩いていること。

中山は、光と影に敏感です。木漏れ日のある木々に向かってシャッターを切ります。

映画では単調な毎日だけ、アクション、サスペンス、エロテロ、何も起こりません。

主人公の中山は無口、いや主人公からセリフを奪った映画です。映像で全てを語る、映画の発明への挑戦があります。

何も起こらない、でも見ていたい、だから革命的、心がときめきます。

目を見張るのは、軽ワゴンで移動する時の東京の美しさです。

高速道路から見た川沿いにある幾何的な街並み、朝の光で見事な曲線の高速道路の輝き、ビルの間に見え隠れする東京スカイツリー、そして浅草の地下道。

まさしくロードムービー。いままで日本人はだれもこんなに美しい東京を撮ることは出来ませんでした。

愛(いと)おしい、懐(なつ)かしい、そして美しい。東京が好きになる映画です。

 

3、柳井康治、高崎卓馬、役所広司

「THE TOKYO TOILET」を企画、プロデュースしたのは、柳井康治(1977年生まれ、横浜市立大学卒)は、柳井正の次男でファーストリテイリングユニクロ)の役員です。

もちろんこれは個人プロジェクトです。柳井康治は、映画『パーフェクト・デイズ』のプロデューサーでもあります。新しい日本人の出現です。

そして脚本をヴイム・ヴェンダースと共に書いたのは高崎卓馬(1959年生まれ、早大卒、電通)です。高崎なくしてこの映画は成立しませんでした。古本屋のおかみの鋭い評論、映画のエンディング近くでの「影は重なると濃くなる」のセリフ、すべて高崎の力によるものでしょう。

電通出身ですが、軽薄短小ではなく、スケールの大きな新しい日本人です。

柳生康治と高崎卓馬に敬意を表します。

さて主人公の中山を演じた役所広司(1956年生まれ 元千代田区「役所」土木「工事」課勤務)をどう評価すべきでしょうか。

第76回カンヌ国際映画祭最優秀男優賞受賞。映画の最後3分は運転する主人公中山のアップだけでした。

小津映画の原節子は、映画『麦秋』の笑顔で、アルカイク・スマイルと呼ばれ、神話の女性の再来とされ、永遠となりました。

役所広司は新たなアダムの誕生になったでしょか。

役所の笑顔は永遠です。しかし、早朝に起きて、植物に水を与え、軽ワゴンで出掛け、音楽を聴き、トイレの掃除をして、木漏れ日をカメラに収め、仕事が終わり、銭湯に入り、一杯飲んで、帰り、本を読んで眠る。

トイレの清掃員の1日が「パーフェクト・デイズ」と言えるでしょうか。

強く言えば、インテリや金持ちの肉体労働者への憧憬(いや軽蔑かもしれない)、に過ぎない。

人生は人間関係、国は国際関係、それらを捨象しての人生論や国家論は、所詮、夢物語。大人の童話に終わります。

役所広司に責任はありませんが、新しいアダムの誕生とは言えません。

End

 

 

 

 

 

 

 

 

 

年の暮れに冴えない話題ですが、いわゆる認知症は病気ではありません。

THE TED TIMES 2023-50「認知症」 12/25 編集長 大沢達男

 

年の暮れに冴えない話題ですが、いわゆる認知症は病気ではありません。

 

1、「認知症

認知症」はdementiaの訳語として、2004年に政府によって採択された言葉です。それまでは痴呆症。「痴呆」は侮蔑的だということで認知症に変更されました。

認知症とは、高齢化によるボケ、耄碌(もおろく)、痴呆のことです。認知症は病気ではありません。老化現象です。

まず認知症になる人が85歳以上では4割、90歳以上では6割を超えます。世代の半分以上が同じ病気になるのはおかしい。老化現象と考えたほうがいいのです。

つぎに認知症には、アルツハイマー型、血管性、レビー小体型などがありますが、圧倒的多数派アルツハイマー型です。

アルツハイマー型はアミロイドβという蛋白が脳に沈着しておこります。正常な人でも年齢と共に増えます。増え方が大きければ、認知症になります。その状態は異常ですが、異常だから病気だというのはおかしいのです。

つまり高齢者の認知症とは病気ではなく、老化現象です。「ボケたな」、「耄碌(もおろく)したな」、が正しい言い方です(「認知症は病気ではない」奥野修司 『文藝春秋』2023.8 p.332~341)。

(注:それにしても「認知症」というネーミングは政府のやった大失敗の。まず認知症の「認知」は認知科学(cognitive science)の「認知」とは全く関係がない。つぎに「痴呆症」を否定するだけに力が注がれ、新しい名前を開発するためにネーミングのプロの意見を全く聞いていない。混乱は「認知症」という言葉から始まっている。たとえば元CMクリエーターの私なら「熟年症」を提案する)。

2、認知症基本法とレカネマブ

1)2023年6月に「共生社会を実現を推進するための認知症基本法」が成立しました。認知症基本法では、予防や治療法だけでなく、認知症との共生が掲げられています。

インフォームドコンセント(説明と同意)の難しさ。説明を受けても、ひとりで治療を選ぶことができない患者が増えている。○意思決定能力が低下した人を包摂する民法を考える必要がある。○支援も必要だが、高齢者の自律的生活を保証することも必要。○アルツハイマー認知症の患者は相手の意見に同調する傾向が強くなる。理解していなくても「ハイ!」。リスクを伴う医療行為に対する同意能力を確認する必要がある(成本迅京都府立医科大学教授 日経11/3)。

どれもこれも厄介な問題ですが、<認知症の人が地域で尊厳を保持し他の人と共生し、そして認知症の予防・診断・治療・リハリビリテーションの研究成果を普及・活用・発展させることが必要>です(池田学 大阪大学教授 日経11/2)。

2)23年9月にアルツハイマー病に新しい治療薬レカネマブの製造販売が承認されています。従来の治療薬は対症療法薬でした。

レカネマブは、アルツハイマー病の脳内で起きる「アミロイドβ」と呼ばれる異常なタンパク質を抗体により脳から取り除き、病気の進行そのものに影響を与えるものです。

<当事者も介護者も、医師任せ、ケアマネジャー任せにするのではなく、どのような治療と介護を望んでいるか、しっかりと意思を伝えて、専門職と協働で治療や介護を選択する時代が訪れようとしている>と池田教授の文章は結ばれています。

3、老化現象

認知症患者の推計値は600万人以上、軽度認知障害(MCI)は500万人以上(池田教授)、つまり日本の人口を1億1000万とすると、10人に1人は認知症ということになります。日本人の10人に1人が認知症ではおかしい。

そこで冒頭の「認知症は病気ではない」に戻ります。やはり認知症に、「予防・診断・治療・リハビリ」という言葉はなじみません。「認知症」とは「熟年症」。加齢によるボケ、耄碌(もおろく)です。

80歳を過ぎたら、生活のダウンサイジング、外出や習い事を減らす、撤退戦を考えるべきです(前出奥野修司)。それでもあなたは不老不死を望みますか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

またまた年末の大逆転、映画『ポトフ』が、今年の私の好きな洋画のNo. 1になりました。

THE TED TIMES 2023-49「ポトフ」 12/23 編集長 大沢達男

 

またまた年末の大逆転、映画『ポトフ』が、今年の私の好きな洋画のNo. 1になりました。

 

1、田園交響曲

野原に長くテーブルを並べ、30人ぐらいの人が食事をするシーンがあります。

左手の奥にシャトーが見え、その前で10人ぐらいの子供たちが遊んでいます。

たぶんお庭なんでしょう。

芝生の緑、樹々の緑、鳥の鳴き声、そして青空、あたりには陽の光が溢れています。

食事をしている人はみな、白を基調にした正装で、カメラはロングで全体を写したり、アップで人物に寄ったり、淡い光の映像が連続します。

そこで映画の主人公である美食家ドダン(ブノア・マジメル)と料理人ウージェニー(ジュリエット・ビノッシュ)が結婚を発表します。

映画の中のひとつのクライマックス・シーンです。

映画『ポトフ』は、ルノアール、マネ、モネなどの印象派のタッチを持った映画です。

かと思うと、室内での料理のシーンでは、渋い色調のレンブラント・カラーで撮影されています。

アップでの野菜、肉、鶏肉、スープなっどの食材、銅製の鍋、皿、暖炉の火。

そして手持ちカメラで料理人の動きが追跡されます。

一糸乱れぬ深い色調のカメラワークは奇跡というほかはありません。

映画『ポトフ』の映像は、バロックです。

戸外での映像は印象派、室内での映像はバロック

全ての映像が一切の音楽を拒否し続けます。

鳥の鳴き声、動物の遠吠え、煮炊きの音、調理器具の音、物音だけで映画は構成されています。

トラン・アン・ユン監督は、『青いパパイアの香り』、『夏至』で、類い稀な筆致の水彩画のような映像を発明しました。

今回は監督が油絵具を持ちました。

映画『ポトフ』の豊かな色彩の映像は、ベートーベンの『田園交響曲』です。

 

2、ガストロノミー( Gastronomie 美食)

美食は、美術と音楽と並ぶ、フランスの芸術です。

<私には外交官より料理人が必要である>と、ある政治家が言ったように、フランスの美食の伝統は、1623年のヴェルサイユ宮殿の創建から始まり、400年の歴史をもっています

主人公のドダンはその歴史から生まれた美食家で、おなじくウージェニーはドダンお抱えの料理人です。

残念ながら、日本人の私には、料理を論じることができません。

グリーンピースのヴルーテ」、「牡蠣のキャビアミモザエッグ添え」、「若鶏のドゥミドゥイエ風」・・・映画のタイトルである「ポトフ」という単語を聞いても、「舌」が反応しません。

パリにはCMロケで数回訪れています。

ジュリエット・ビノッシュより2歳若いソフィー・マルソーの撮影です。

フランス人スタッフと一緒に仕事を食事をしていますから、たんなる旅行者ではありません。

いまでも覚えているのは、カナール(canal=鴨)とソル(sole=舌平目)。

白ワインは、アルザスリースリング。赤ワインは、ボルドーカベルネソーヴィニヨン。映画で描かれたブルゴーニュに特別の思い入れはありません。

でも美食家ドダンの映画の中の台詞には本能的にあこがれます。

「この料理には、陸と海の合奏(アンサンブル)がある。」

いつかこんなことを言ってみたい。

映画『ポトフ』が好きです。そして今年の洋画No. 1に選びました。

 

3、ジュリエット・ビノッシュ

映画に若干15歳の少女美食家ポーリーヌ(ポニー・シャニョー・ラポワール)が出てきます。

楽家モーツアルトのような、絶対音感(絶対味覚)を持った美食家の天才です。

ポーリーヌの存在が、この映画に好感を持てる理由の一つです。

美食家は自分が快楽に浸るだけではありません。伝統をまもり、未来を作ることに熱心です。

ドダンとウージェニーは、自らの持っている感覚と技術を、次の世代のポーリーヌに伝えようとしています。

フランス人は偉いなと思います。

ドダンが新しい料理人を見つけたときに、ちゃんと若いポーリーヌを連れて行くではありませんか(脚本がいいのです)。

ポーリーヌ役のポニー・ラポワールは、ウージェニー役のジュリエット・ビノッシュの若い頃を想像させます。

ジュリエットが『汚れた血』でブレイクしたのは22歳の時でした。

ポニー・ラポワールもジュリエットのように未来のフランス映画を担う人になっていくのでしょうか。

そして忘れてはいけません。

この映画の最高殊勲選手(演技者)はジュリエット・ビノッシュです。

ジュリエットは『汚れた血』のときから、いわゆる美人女優ではありませんでした。

どこにでもいそうで、どこにもいない、なつかしい感じの女の子でした。

今回は料理人でもアーティザン(職人)の料理人を演じました。

無駄な動きがありません。座っている時、上体が動きません。優れたスポーツ選手のすぐれたフォームを思わせます。

かっこいいです。トラン監督が言っています。

ジュリエットが撮影現場に入ってくるその場が一変する。

冒頭で触れた草原での食事、結婚発表のシーンに戻ります。

ドダンとウージェニーは、20年も前から、一緒に暮らし、料理を楽しんいるのに、結婚していませんでした。

印象的なのは、二人だけのシーンからは色彩が奪われています。まるでムンクやビュッフェの絵画のよう、不条理。

美食家と料理人は、夫婦であり得るのか、恋人同士なのか、あるいは単なる仕事仲間なのか・・・。

指揮者と女性ヴァイオリニスト、作曲家と女性歌手、映画監督と女優。

恋人? 夫婦? いやいや、やっぱり単なる仕事仲間!!。

この映画はこの永遠の問いに答えています。

それは長年パートナーと映画を製作してきたトラン監督の問題でもあるからです。

美食家ドダンと料理人ウージェニーは、二人の力でいい仕事をしました。それでいいです。

映画『ポトフ』では、エンディングに、たったひとつの音楽が使われています。

オペラ『タイス』からのメロディー、それに涙しながら、今年は終ります。

トレヴィアン、ジュリエット。

私の今年の洋画No. 1は、『ポトフ』。

私の世界No. 1映画監督は、トラン・アン・ユンになりました。

 

End

 

 

 

 

 

 

 

 

 

年末の大逆転『ゴジラ-1.0』が、今年の私の好きな邦画のNo. 1になりました。

THE TED TIMES 2023-48「ゴジラ-1.0」 12/19 編集長 大沢達男

 

年末の大逆転『ゴジラ-1.0』が、今年の私の好きな邦画のNo. 1になりました。

 

1、大和心

特攻隊として出撃した零戦が突撃できずに不時着、しかもその整備基地の危機で仲間を見捨てることになる、落ちこぼれの日本兵士が、『ゴジラ-1.0』の主人公です。

彼は戦後になってゴジラに遭遇し、旧軍隊メンバーと連帯し、日本人だけの団結でゴジラに勝利し、たくさんの日本人の命を救い、自分自身の戦争を終わらせることができたという物語です。

ゴジラ-1.0』(ゴジラマイナスイチ)は、大和心を呼び覚ます映画です。なぜ大和心をくすぐられるのでしょうか。

第1に1947年の占領下でありながら、米軍の力を借りずに旧日本兵だけで、東京を襲ったゴジラを打ち倒すために立ち上がったことです。

第2にゴジラと戦うために、旧日本兵が団結し科学者と協力し、日本人が結集することです。

そして第3に、特攻隊失格のダメ男が旧軍の整備士を探し出し、「震電」(しんでん)という伝説の戦闘機を整備し、ゴジラに特攻することです。

ゴジラ-1.0』は、日本人の男らしさとやさしさ、日本人の知恵と作戦、そして日本人の団結と実行力、つまり益荒男振り(ますらおぶりぶり)を余すところなく描く映画です。

 

2、小説版『ゴジラ-1.0』(山崎貴  集英社オレンジ文庫

ゴジラ撃退のために出撃する駆逐艦雪風」の堀田辰雄元艦長(田中美央)は、元海軍士官達の前で話します。

「我が国は国民を守るべき自前の軍隊を有しておりません。駐留連合国軍による軍事行動は大陸のソ連軍を刺激する恐れが高く、不可能と判断されました。つまり、我々は民間の力だけであの怪物に立ち向かわなければなりません。」(p.121)

つぎに元技術士官・野田建治(吉岡秀隆)は、ゴジラ攻撃の海神(わだつみ)作戦の前日に話します。

「この国は命を粗末にしすぎてきました。脆弱な装甲の戦車、補給軽視の結果、餓死・病死が戦死の大半を占める戦場・・・戦闘機には最低限の脱出装置も付いていなかった。しまいには特攻だ玉砕だと・・・・・・だからこそ今回の・・・・・・民間主導の今作戦では一人の犠牲者を出さないことを誇りにしたい。今度の戦いは死ぬための戦いでしゃない。未来を生きるための戦いなんです。」(p.147)。

そして主人公のダメ男、敷島浩一(神木隆之介)は、衝撃的な発言をします。

「・・・・・・俺の・・・・・・戦争が終わってないんです。」(p.134)

映画は敷島の戦争を終わらせるための戦いを描いています。

そして映画は敷島のパートナー大石典子(渡辺美波)のセリフで終わります。

「浩さんの戦争は終わりましたか?」(p.187)

 

3、戦争が終わっていない

終戦の2年後1947年に元特攻隊の敷島の発した<戦争が終わっていない>という言葉は、終戦から78年後2023年の日本人の心にグサリと突き刺さりました。

戦争が終わっていない。

2023年の今もその通りです。

終戦後に米軍は文化の戦争を仕掛けてきました。

二度と日本が戦えないように、極東裁判を行い日本国憲法と太平洋戦争史を与え、徹底した言論統制を行いました。

国体を破壊し、大和心を否定し、日本文化を後進とする、文化の戦争を行いました。

日本人は民族としての誇りを失い、人口減少の道を歩み始め、30世紀初頭には地球から姿を消します。

戦争は終わっていません。いまだにGHQというゴジラとの戦いがあります。

次に米国は、「リベラリズ帝国主義」で、NATO、アフガン、中東で侵略を始めました。

日本人は変わらず米国が主張する、自由、平等、平和、民主主義の「リベラリズム」が、人類の普遍の原理だと信じています。

戦争は終わっていません。リベラリズムというゴジラとの戦いがあります。

そして日本人は無抵抗な羊の群れに成り下がっています。

北朝鮮により横田めぐみさんが拉致されたときに、日本人は立ち上がったでしょうか

ISIL(イスラミック・ステート、イスラム国)により、後藤健二さんと湯川遥菜さんが虐殺されたときに、日本人は報復したでしょうか。

アフガニスタン武装勢力パキスタンタリバン運動)によって、中村哲医師が銃撃され死亡した時に、日本人は軍隊を派遣したでしょうか。

戦争は終わっていません。北朝鮮、IS、タリバンというゴジラと戦わなければなりません。

ゴジラ-1.0』に感激して、こんなことを言うと、リベラリズムに占領されている日本では、「右翼」「国粋主義者」「復古主義者」と、必ず後ろゆびを指されます。

ところがどっこい。『ゴジラ-1.0』は邦画の全米興行収入で歴代1位になり、アメリカ人に受けています。

米国によって愛国心を去勢された日本人が愛国心に目覚めたことを、米国人によって評価される、なんともへなちょこなことが起きています。

でもよく考えてみれば、愛国心アメリカ人がゴジラと闘う日本人に共感するのは、当たり前のことです。

<戦争が終わっていない>。

この一言で、『ゴジラ-1.0』は今年の私の好きな日本映画No. 1になりました。

 

End

 

 

遼クンさようなら、また会う日まで。

THE TED TIMES 2023-47「石川遼」 12/12 編集長 大沢達男

 

遼クンさようなら、また会う日まで。

 

1、サンデー・バックナイン

ゴルフ日本シリーズの初日(11月30日)、遼クンは-2(ツーアンダー)で回りました。トップ・グループではないけれど、いい出だしでした。

ゴルフ好きの友人からメールが来ました。

「今日は応援に行っていたんすか?」

「遼クンはとてもいいと思います。」

「今日は仕事、明日はライブ、明後日はたジャズの勉強コンサート、読売カントリーに行けるのは、最終日のみです。サンデーバックナインに期待します」

と、返信しました。

友人への夢のメールは現実になりました。遼クンは3日目になんと62を出し、トップの13アンダーの二人に続き3位にまで順位を上げてきました。

トップは蝉川泰果(せみかわたいが 22歳 75㎝)と中島啓太(なかじまけいた 23歳 178㎝)で、人気者の二人です。相手にとって不足はありません。

 

2、遼クン

新百合ヶ丘に行ったのは8時半、ゴルフ場への無料バスの列は、200人から300人ありました。

20年ほど前から日本シリーズに通っていますが、ちょっと混んでいました。ほとんどの人が遼クン目当てだとすると、これはまずいと直感しました。

コースは予想の通り大混雑。気づいたことがあります。

女性が減り、男性が増え、脚立(補助椅子)を持っている人が目立つ、その分見にくくなりました。

さて1番ホール、遼クンはティーショットをいきなりバンカー入れました。

それはそれでいいのですが、フェアウエイのタイガ(川)のボールはそのバンカーから2~30ヤード先にあったことです。

遼クンは出すだけ、寄せもよらず2パットのボギー、タイガはなんなく寄せたてバーディーでした。いやな予感がしました。

絶望は3番ホールで早くも決定的になりました。

持ったクラブが違ったのかもしれませんが、遼クンの第1打は左に曲がるコーナー、タイガはなんと左曲がって坂の中間、ホールへの寄せの距離にありました。

この距離の差は、上手いとか下手とかの問題ではありません、次元の違いです。

ジャンボ・尾崎の頃から、何人ものプレーヤーを読売で見ていますが、ティーショットをあそこに置いた強打者はそんなにいません。

それでもアウトは先行の二人が14アンダーで遼クン13アンダー、理想的な展開で、サンデーバックナインを迎えることになりました。

でも、遼クンを応援するのが、だんだん辛くなってきていました。

まずドライバーでタイガに20~30ヤードおいていかれることです。ダウンスロープのところでは軽く50ヤードはオーバードライブされています。

セカンドの勝負だ、寄せがうまい、などと言っている場合ではありません。

遼クンとタイガは、次元(ディメンジョン)が違うゴルフをしています。残酷な言い方ですが、高校野球プロ野球です。

同じことはケイタ(中島)にも言えます。

実はスタート前のケイタを練習を最前列でじっくり見ています。

むかしアーノルド・パーマーのプライベートな練習を、ベイヒル・オーランド・フロリダで、誰にも邪魔されず、目の前で見たことがあります。

打ち出された球が2段3段ロケットのように、グーングンと加速しながら飛んで行きます。

ケイタはパーマーさんのような球を打っていました。飛距離でももちろん遼クンを10~20ヤードはおいていきます。

結局優勝はタイガ、遼クンは前日より11ストロークも多い73で、悲劇のサンデー・バックナインになりました。

私の夢も終わりました。

 

3、パパ

いままでコースで何度かパパを見かけました。パパの解説も聞きました。話したこともあります。

今回もパパに会いました。でも知り合いではありませんから、挨拶はしません。

パパには、頭が下がります。特別なパスを首からぶら下げていません。一般人とまったく同じ、大混雑の中を歩いています。

遼クンが読売に始めてきたのは16歳の時でしょうか。そしていまは31歳、ですから15年も変わらずパパは遼クンのラウンドに付き合っていることになります。

持続する情熱、素晴らしいと思います。今年は遼クンのマネでしょうか。ちょびヒゲを生やしていました。

タイガー・ウッズは父親にゴルフを教わり父親に育てられました。そして31歳の時に父を失い自立しています。

遼クンはどうでしょう。パパにはいつまでも元気でいて欲しいけれど、自立していますか。

翌日の新聞で、遼クンはこのオフは筋トレそして飛距離を伸ばすと、報じられていました。

可能ですかね・・・。

遼クンは終わっているのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

残念ながら世界No. 1は見送りです。『首』の北野武は、映画史で、どこに位置付けられるのでしょう。

THE TED TIMES 2023-46「『首』北野武」 12/5 編集長 大沢達男

 

残念ながら世界No. 1は見送りです。『首』の北野武は、映画史で、どこに位置付けられるのでしょう。

 

1、TOHOシネマ日比谷

映画『首』(北野武監督)を観るために、映画開始の2時間前に日比谷に着きました。

「謝謝(シェーシェー)ラーメン日比谷」で腹ごしらえ、気合が入っていました。

ゴジラ像がある映画館は、ほぼ満席。

座席はアメリカの向かう旅客機のように、ファースト、ビジネス、エコノミーと階級社会になっていました。

私はもちろんエコノミー席、でも場末の映画館と大違い、ゆったりフワフワ、天国でした。

なのに、不覚。私は2~3度、映画の途中で居眠りしてしまいました。

疲れていたのか、タンメンでお腹がイッパイだったのか、それとも映画がつまらなかったのか。

映画を見終わったあとの私の感想は、

「巨匠になってしまうと、映画作りも大変だね。力の入りすぎ・・・」、

てな、もんでした。

 

それが日曜日。

ところが火曜日、川崎で仕事をしていて突然、時間が空きました。

消化不良の『首』に、シネチッタ川崎で、再挑戦しました。今度は眠らずにしっかり見ました。

フムフム、なかなか面白い。これは議論に値する。

でも、相変わらず、わからないところがある・・・。

で、私はパンフレット900円(税込990円)を買い、さらに原作があることを知り、川崎駅の有隣堂で『首』の原作792円を買いました。

巨匠の映画と付き合うのは実に大変です。

以前は全く違いました。

『3-4X 10月』(1990年)を観たのは、テアトル新宿だったでしょうか。

客はほんの数人。北野武の映画を観に行く、なんて人はいませんでした。

70年代の新宿のジャズ喫茶「ジャズ・ビレッジ」で、フリー・ジャズアルバート・アイラーを聴くようなもので、孤独なヘソ曲がりの集まりでした。

予習・復讐なしで映画を観て、孤独でしたが、感動していました。

私は当時、CMクリエーター、北野武の映画を観たと言うと、映像の演出家に馬鹿にされました。

「たけしもね、冗談で映画を撮っちゃ、ダメだよ」。

でもでも・・・誰にも言えないけれど、私にとっての北野武は、ジャン・リュック・ゴダールでした。

 

2、『首』

『首』はよくできた映画ですが、2度観て(正確には1度半)、パンフと原作読んでも、分からないところがあります。

それはさておき、断片的ですが気になったところ、をメモしておきます。

 

1)信長

この映画の最大の魅力は、新しい信長像です。

尾張弁です。「おミャーは、・・・」などと言う信長は初めてです。

戦国後期の日本を制圧していた武将は、信長(1534~1582)のみならず、秀吉(1537~1598)は名古屋市中村区出身、家康(1543~1616)は愛知県岡崎、光秀(1528~1582)は美濃(岐阜と愛知)と、みんな尾張三河でした。

20年ほど前名古屋駅でタクシーに乗ったことを思い出します。

「信長様も秀吉様も家康様も、まあ、この辺の方です。ここが日本の中心でした」。

運転手さんが誇らしげに言いました。

その通りです。日本中が「ミャーミャー」言っていました。

信長役の加瀬亮はヤクザらしくないヤクザとして北野映画アウトレイジ』に登場しました。

なぜヤクザらしくないかと言うと加瀬亮は、シノギが薬物に変わってきた時代、ヤクザの支配が肉体ではなく精神に移ってきたことを、連想させたからです。

『首』に於ける信長の狂気も薬物中毒を連想させるものです。

 

2)難波茂助

次に『首』の魅力は、曽呂利新左衛門と難波茂助の登場です。

「昔の隊列には兵隊以外のものが稼ぎどきだと一緒について行った(中略)おおかた雑兵たちは暇を持て余していたという。娯楽もない陣地だから芸人や物売りが流行る」(『首』 p40 北野武 角川文庫)。

この記述には、明らかに歴史学者網野善彦の成果が、あります。

日本の歴史は公家、武家、農民だけでなく、職人・芸能民によって支えられてきた、というものです。

曽呂利新左衛門とは上方落語の祖と言われる芸人、茂助は浮浪者に近い貧農、いわばルンペンです。

茂助を演じた中村獅童が光ります。

実に見事な「ハスッパ」を演じて見せました。歌舞伎役者の底知れぬ力を見せました。さすが「カブキモノ」です。

映画の原作『首』は曽呂利で始まり、曽呂利で終わっています。いわばこの物語の主人公は曽呂利です。

もうひとり、武将ではなくこの物語で重要な役割を果たす人間がいます。

千利休です。アーティストでありながら、政界のフィクサーとして、茶室外交をやりました(前傾 p.21からの要約)。

日本史を動かしたのは芸能民(芸能人ではありませんよ)だ。これがこの映画の新しさです。いいではありませんか。

 

3)衆道(しゅどう)

衆道とは、主君と小姓の間の男色の契りです。

肉体的だけでなく精神的な結びつきも大切にしました。

小説『首』から光秀の回想を引用します。

「すぐに村重は『俺の寝間に参れ!』と命じられていた」(中略)衆道というやつか。ならば痴情のもつれで謀反を?」(同 p.27)

「『光秀さん、信長様は俺を心底嫌っとるんではないか?どうなんや?もしあかんのやったら、あんたも加勢してくれへんか』/村重の眼は淀んでいる」(p.29)

たった二行ですが。信長、村重、光秀の関係がよくわかります。

30年前に黒澤明監督が、この脚本を北野武が撮れば傑作になると予言したそうですが、この三角関係を描けば、と言っているのではないでしょうか。

女性と同性愛と排除し成立する男性間の緊密な結びつきを「ホモソーシャル(homosocial)」と言います。

体育会系に見られる緊密な絆です。

ミソジニー女性嫌悪)、ホモフォビア(同性愛嫌悪)が伴う場合もあります。

『首』の信長、村重、光秀の三角関係がそれです。

信長と村重、村重と光秀、それぞれの接吻シーン。信長と森蘭丸の同性愛シーン。

時代劇の革命です。映像化したのは北野監督が始めてでしょう。

余談ながら、「ジャニーズ問題」についてテレビのインタヴューに答え、ビートたけしは「時代が変わったからね」、と感想を漏らしていました。

 

4)映画の発明

日比谷の映画館では居眠りしてしまいましたが、川崎の映画館では緊張感をもってワンカット、ワンカットを丁寧に見ました。見事なもんです。

回想シーンでカラーを脱色して処理したのが印象的でした。

CG映像は素晴らしい。首切り、介錯切腹そして首・・・の見事なCG映像と美術、関係者に敬意を評します。

しかし・・・タイタニックの再現映像とは違う、日本の時代劇の映像革命でしかありません。

その自慢のCG映像を使ったエンディング近くの、(有名といわれる)高松城の水攻めは、わかりにくい。

秀吉は人民救済のために切腹する城主・清水宗治をバカにし、せせら笑います。このシーケンスの狙いが、・・・よくわかりません。

北野映画の最大の魅力である音楽、効果音、MA(映像と音の融合)では、特筆するものがありませんでした。

新しい信長像、歴史の主人公としての芸人、そして衆道の映像化。

映画『首』は、時代劇の革命を成し遂げていますが、映画の発明の観点からすると、北野映画には珍しく、低い得点でした。

 

3、日本映画

『首』のパンフレットを読んで驚きます。

俳優全てに人が、映画出演のオファーに、感激しています。

そして現場の緊張感の恐ろしさ、本番の少なさへの驚き、さらに北野監督から俳優・ビートたけしへの変身の見事さに、口を揃えて称賛しています。

北野武はとんでもない日本映画のカリスマです。

「たけしもね、冗談で映画を撮っちゃ、ダメだよ」。

30年前の酷評がウソのようです。

 

日本の映画史のなかで北野武はどこに位置づけられのでしょうか。

亡き淀川長治さんが言っていました。

北野武監督は男を撮る監督なのよ」

こんな北野評は初めて、驚きましたがまさに本質、さすが淀川さんです。

男を撮るのは、黒澤明北野武です。

では女は誰が撮る。

溝口健二小津安二郎です。

山田五十鈴です。原節子です。

男を撮る監督と女を撮る監督、どちらが好きかは、あなたしだい。

ここで映画の趣味は変わります。

ちなみに私は、・・・「女を撮る」、溝口健二です。

 

世界の映画史のなかで『首』はどうでしょうか。

まずフィルメーカーのカリスマ、スピルバーグ監督を考えてみます。

スピルバーグ監督が映画の制作に入る前に必ず見る4つの映画あります。

『素晴らしき哉人生』、『捜索者』、『アラビアのロレンス』そして『七人の侍』です。

七人の侍』は世界の映画学校で一番取り上げられている映画、映画の教科書です。

『首』は『七人の侍』に負けています。

スピルバーグのあげた4作はいずれも3時間をこす、超大作ですが、単純です。『首』は複雑です。

次に、ゴダールを考えます。

映画の発明での北野武のライバルはゴダールです。

ゴダールは晩年の『映画史』でさらに映画の革命を推進しています。ゴダールは死ぬまでそして死すら前衛でした。

『首』はゴダールに負けています。

さらにチャップリンを考えます。

多才の北野武。脚本・監督・主演のオールマイティーのライバルには、チャップリンがいます。

チャップリンは音楽もやっています。

そして役者としてビートたけしは、チャップリンに負けている、と言わざるを得ません。

『街の灯』と『ライムライト』があります。

 

結論。

北野武を世界のNo. 1の監督にすることはできません。

巨匠、カリスマ、北野武はどこに行くのでしょうか。

「巨匠になってしまうと、映画作りも大変だね。力の入りすぎ・・・」、

やはり昔に戻って欲しい。

客を集めることができなかった無名の北野武に戻って欲しい。

そう願うのは、私だけなく、北野武もです。

ファーストクラスで観るような映画、作りたくありません。

でも青春は帰ってこない。

 

END