残念ながら世界No. 1は見送りです。『首』の北野武は、映画史で、どこに位置付けられるのでしょう。

THE TED TIMES 2023-46「『首』北野武」 12/5 編集長 大沢達男

 

残念ながら世界No. 1は見送りです。『首』の北野武は、映画史で、どこに位置付けられるのでしょう。

 

1、TOHOシネマ日比谷

映画『首』(北野武監督)を観るために、映画開始の2時間前に日比谷に着きました。

「謝謝(シェーシェー)ラーメン日比谷」で腹ごしらえ、気合が入っていました。

ゴジラ像がある映画館は、ほぼ満席。

座席はアメリカの向かう旅客機のように、ファースト、ビジネス、エコノミーと階級社会になっていました。

私はもちろんエコノミー席、でも場末の映画館と大違い、ゆったりフワフワ、天国でした。

なのに、不覚。私は2~3度、映画の途中で居眠りしてしまいました。

疲れていたのか、タンメンでお腹がイッパイだったのか、それとも映画がつまらなかったのか。

映画を見終わったあとの私の感想は、

「巨匠になってしまうと、映画作りも大変だね。力の入りすぎ・・・」、

てな、もんでした。

 

それが日曜日。

ところが火曜日、川崎で仕事をしていて突然、時間が空きました。

消化不良の『首』に、シネチッタ川崎で、再挑戦しました。今度は眠らずにしっかり見ました。

フムフム、なかなか面白い。これは議論に値する。

でも、相変わらず、わからないところがある・・・。

で、私はパンフレット900円(税込990円)を買い、さらに原作があることを知り、川崎駅の有隣堂で『首』の原作792円を買いました。

巨匠の映画と付き合うのは実に大変です。

以前は全く違いました。

『3-4X 10月』(1990年)を観たのは、テアトル新宿だったでしょうか。

客はほんの数人。北野武の映画を観に行く、なんて人はいませんでした。

70年代の新宿のジャズ喫茶「ジャズ・ビレッジ」で、フリー・ジャズアルバート・アイラーを聴くようなもので、孤独なヘソ曲がりの集まりでした。

予習・復讐なしで映画を観て、孤独でしたが、感動していました。

私は当時、CMクリエーター、北野武の映画を観たと言うと、映像の演出家に馬鹿にされました。

「たけしもね、冗談で映画を撮っちゃ、ダメだよ」。

でもでも・・・誰にも言えないけれど、私にとっての北野武は、ジャン・リュック・ゴダールでした。

 

2、『首』

『首』はよくできた映画ですが、2度観て(正確には1度半)、パンフと原作読んでも、分からないところがあります。

それはさておき、断片的ですが気になったところ、をメモしておきます。

 

1)信長

この映画の最大の魅力は、新しい信長像です。

尾張弁です。「おミャーは、・・・」などと言う信長は初めてです。

戦国後期の日本を制圧していた武将は、信長(1534~1582)のみならず、秀吉(1537~1598)は名古屋市中村区出身、家康(1543~1616)は愛知県岡崎、光秀(1528~1582)は美濃(岐阜と愛知)と、みんな尾張三河でした。

20年ほど前名古屋駅でタクシーに乗ったことを思い出します。

「信長様も秀吉様も家康様も、まあ、この辺の方です。ここが日本の中心でした」。

運転手さんが誇らしげに言いました。

その通りです。日本中が「ミャーミャー」言っていました。

信長役の加瀬亮はヤクザらしくないヤクザとして北野映画アウトレイジ』に登場しました。

なぜヤクザらしくないかと言うと加瀬亮は、シノギが薬物に変わってきた時代、ヤクザの支配が肉体ではなく精神に移ってきたことを、連想させたからです。

『首』に於ける信長の狂気も薬物中毒を連想させるものです。

 

2)難波茂助

次に『首』の魅力は、曽呂利新左衛門と難波茂助の登場です。

「昔の隊列には兵隊以外のものが稼ぎどきだと一緒について行った(中略)おおかた雑兵たちは暇を持て余していたという。娯楽もない陣地だから芸人や物売りが流行る」(『首』 p40 北野武 角川文庫)。

この記述には、明らかに歴史学者網野善彦の成果が、あります。

日本の歴史は公家、武家、農民だけでなく、職人・芸能民によって支えられてきた、というものです。

曽呂利新左衛門とは上方落語の祖と言われる芸人、茂助は浮浪者に近い貧農、いわばルンペンです。

茂助を演じた中村獅童が光ります。

実に見事な「ハスッパ」を演じて見せました。歌舞伎役者の底知れぬ力を見せました。さすが「カブキモノ」です。

映画の原作『首』は曽呂利で始まり、曽呂利で終わっています。いわばこの物語の主人公は曽呂利です。

もうひとり、武将ではなくこの物語で重要な役割を果たす人間がいます。

千利休です。アーティストでありながら、政界のフィクサーとして、茶室外交をやりました(前傾 p.21からの要約)。

日本史を動かしたのは芸能民(芸能人ではありませんよ)だ。これがこの映画の新しさです。いいではありませんか。

 

3)衆道(しゅどう)

衆道とは、主君と小姓の間の男色の契りです。

肉体的だけでなく精神的な結びつきも大切にしました。

小説『首』から光秀の回想を引用します。

「すぐに村重は『俺の寝間に参れ!』と命じられていた」(中略)衆道というやつか。ならば痴情のもつれで謀反を?」(同 p.27)

「『光秀さん、信長様は俺を心底嫌っとるんではないか?どうなんや?もしあかんのやったら、あんたも加勢してくれへんか』/村重の眼は淀んでいる」(p.29)

たった二行ですが。信長、村重、光秀の関係がよくわかります。

30年前に黒澤明監督が、この脚本を北野武が撮れば傑作になると予言したそうですが、この三角関係を描けば、と言っているのではないでしょうか。

女性と同性愛と排除し成立する男性間の緊密な結びつきを「ホモソーシャル(homosocial)」と言います。

体育会系に見られる緊密な絆です。

ミソジニー女性嫌悪)、ホモフォビア(同性愛嫌悪)が伴う場合もあります。

『首』の信長、村重、光秀の三角関係がそれです。

信長と村重、村重と光秀、それぞれの接吻シーン。信長と森蘭丸の同性愛シーン。

時代劇の革命です。映像化したのは北野監督が始めてでしょう。

余談ながら、「ジャニーズ問題」についてテレビのインタヴューに答え、ビートたけしは「時代が変わったからね」、と感想を漏らしていました。

 

4)映画の発明

日比谷の映画館では居眠りしてしまいましたが、川崎の映画館では緊張感をもってワンカット、ワンカットを丁寧に見ました。見事なもんです。

回想シーンでカラーを脱色して処理したのが印象的でした。

CG映像は素晴らしい。首切り、介錯切腹そして首・・・の見事なCG映像と美術、関係者に敬意を評します。

しかし・・・タイタニックの再現映像とは違う、日本の時代劇の映像革命でしかありません。

その自慢のCG映像を使ったエンディング近くの、(有名といわれる)高松城の水攻めは、わかりにくい。

秀吉は人民救済のために切腹する城主・清水宗治をバカにし、せせら笑います。このシーケンスの狙いが、・・・よくわかりません。

北野映画の最大の魅力である音楽、効果音、MA(映像と音の融合)では、特筆するものがありませんでした。

新しい信長像、歴史の主人公としての芸人、そして衆道の映像化。

映画『首』は、時代劇の革命を成し遂げていますが、映画の発明の観点からすると、北野映画には珍しく、低い得点でした。

 

3、日本映画

『首』のパンフレットを読んで驚きます。

俳優全てに人が、映画出演のオファーに、感激しています。

そして現場の緊張感の恐ろしさ、本番の少なさへの驚き、さらに北野監督から俳優・ビートたけしへの変身の見事さに、口を揃えて称賛しています。

北野武はとんでもない日本映画のカリスマです。

「たけしもね、冗談で映画を撮っちゃ、ダメだよ」。

30年前の酷評がウソのようです。

 

日本の映画史のなかで北野武はどこに位置づけられのでしょうか。

亡き淀川長治さんが言っていました。

北野武監督は男を撮る監督なのよ」

こんな北野評は初めて、驚きましたがまさに本質、さすが淀川さんです。

男を撮るのは、黒澤明北野武です。

では女は誰が撮る。

溝口健二小津安二郎です。

山田五十鈴です。原節子です。

男を撮る監督と女を撮る監督、どちらが好きかは、あなたしだい。

ここで映画の趣味は変わります。

ちなみに私は、・・・「女を撮る」、溝口健二です。

 

世界の映画史のなかで『首』はどうでしょうか。

まずフィルメーカーのカリスマ、スピルバーグ監督を考えてみます。

スピルバーグ監督が映画の制作に入る前に必ず見る4つの映画あります。

『素晴らしき哉人生』、『捜索者』、『アラビアのロレンス』そして『七人の侍』です。

七人の侍』は世界の映画学校で一番取り上げられている映画、映画の教科書です。

『首』は『七人の侍』に負けています。

スピルバーグのあげた4作はいずれも3時間をこす、超大作ですが、単純です。『首』は複雑です。

次に、ゴダールを考えます。

映画の発明での北野武のライバルはゴダールです。

ゴダールは晩年の『映画史』でさらに映画の革命を推進しています。ゴダールは死ぬまでそして死すら前衛でした。

『首』はゴダールに負けています。

さらにチャップリンを考えます。

多才の北野武。脚本・監督・主演のオールマイティーのライバルには、チャップリンがいます。

チャップリンは音楽もやっています。

そして役者としてビートたけしは、チャップリンに負けている、と言わざるを得ません。

『街の灯』と『ライムライト』があります。

 

結論。

北野武を世界のNo. 1の監督にすることはできません。

巨匠、カリスマ、北野武はどこに行くのでしょうか。

「巨匠になってしまうと、映画作りも大変だね。力の入りすぎ・・・」、

やはり昔に戻って欲しい。

客を集めることができなかった無名の北野武に戻って欲しい。

そう願うのは、私だけなく、北野武もです。

ファーストクラスで観るような映画、作りたくありません。

でも青春は帰ってこない。

 

END