神に感謝。めったの読まなかったま川賞で大型新人「九段理江」に出会いました。

THE TED TIMES 2024-09「九段理江」 2/28 編集長 大沢達男

 

神に感謝。めったの読まなかったま川賞で大型新人「九段理江」に出会いました。

 

1、ザハ・ハディト

「ザハ・ハディトの新(「シン」筆者の命名)国立競技場は必ず建つ。実現する。でも、それは負のレガシーのようなものにはなり得ない。なぜなら圧倒的に美しいから。そしてザハ案が選ばれたのは、東京に不足する不足する美しさを彼女だけの案が備えていたからに違いない。もしそれが建たなければ、東京が満ち足りることはない。」(p.31)。

「夕焼けが夜に完全に侵食されると、スタジアム全体は幻想的な紫色の光でライトアップされ、東京の景色を一瞬にして何十年も加速させた。(中略)奇跡としか言いようのないその光景を、私はいつまでも飽きることなく眺めていた。今にでも動き出すのではないかという生命感を湛えた構造物は、周囲に林立するビル群や道路を走る車のライトを養分にして独自進化を遂げた、巨大生物のように見える」(p.32~3)。

なんという名文でしょう。

いまでは新国立競技場は隈研吾案で完成しています。ザア・ハディット(Zaha Hadid)のシン国立競技場の設計案を議論する人など、誰もいません。

過去の決定を覆すような議論は潔(いさぎよ)くないとは、知っていますが・・・。

名文です。東京の都市計画の本質をついています。未来があります。

 

2、シン国立競技場

明治神宮外苑は明治天皇昭憲皇太后の御遺徳を伝えるために作られた美しい庭園でした。

明治神宮競技場が大正13年聖徳記念絵画館、野球場、相撲場が大正15年(1926年)、そして昭和6年に水泳場が完成しています。

1958年から、私は神宮球場の前にある都立青山高校に通うことになり、外苑とともに青春を送ってきました。

しかし明治神宮外苑はそのころからすでに破綻を見せてきました。

まず、「明治神宮外苑競技場」が1957年に取り壊され、アジア大会のために「国立競技場」になったことです。

緑の森に異種のコンクリートの構造物が現れました。それは1964年のオリンピックに向けてさらに巨大になります。

つぎに1961年に、大相撲夏場所(1947年)が開催されたこともある、相撲場が壊され第2球場が建設されます。

悲しむべきは、絵画館前の広場が軟式野球場になり、バッティング練習場までできたことです。

加えて水泳場は高速道路に削られ、最後にはなくなってしまい、絵画館裏には首都高速の出口ができました。

絵画館前の「角池」を子供用プールとして開放したことがありました。なんと馬鹿げたことをしたものでしょう。

明治天皇に敬意を表す場をプールにするなど、どなたの発想だったのでしょうか。

絵画館前の広大な広場を野球場にするというのも同じ発想です。

246号線からの銀杏並木があり、広大な広場があり、かなたに絵画館を望むから、明治天皇をしのぶにふさわしく神聖なのです。

国立競技場の建設に始まる矛盾だらけの神宮外苑再開発に対して、新たに計画されたザハ・ハディトのシン国立競技場の設計案は、晴天の霹靂でした。

矛盾だらけの神宮外苑を一新するもので、新しい東京の、いや日本のランドマークになるものでした。

私たちは熱狂しました。

かつて1964年の東京オリンピックのときに、代々木競技場を設計した丹下健三は、コンペで当選したもののの予算オーバーで、設計変更を命令されていました。

丹下は時の権力者田中角栄に直接電話をします。

丹下「設計変更を求められていますが、設計図をご覧になればお分かりいただけますが、変更はできません」。田中「いくら足りないんだ?」。丹下「×××円です」。田中「よっしゃ!」

アンビルト(建築されない)になる運命の代々木競技場は、田中角栄の力で、建設されました。

ザハ・ハディトは、安倍総理に、電話できませんでした。

シン国立競技場案は「アンビルトの女王」の傑作に新たな1ページを加えるだけに終わりました。

しかしいま、東京と日本を革新するザハ・ハディトのシン国立競技場は、小説家・九段理江により、建設され現実のものになりました。

 

3、『東京都同情塔』

小説家・九段理江は、ザハ・ハディト案の実現だけに終わりません。

神宮外苑に聳えるザハのシン国立競技場への回答を用意します。

それは、スカイツリー、東京タワーに次ぐ高さの「塔」を、神宮外苑の隣の新宿御苑に建てるというものです。

これもまたなんと美しい。

「塔は国立競技場という問いに対する完璧な回答である」(p.135)。

塔の名は『東京都同情塔』、その機能は刑務所。

未来の東京では、シン国立競技場と東京都同情塔、二つの巨大建築は同時にライトアップされ、完全に調和し、親密に話し合いでもするようになります。

小説家平野啓一郎は九段理江の受賞に対して、「圧倒的」と評しました。まさに圧倒的です。九段理江さん。芥川賞おめでとうございます。

30年後、50年後、100年後でも、シン国立競技場と東京都同情塔、この美しいアイディアが実現するように、私たちは努力すべきです。

日本映画大学の卒業制作を観て、天国から今村昌平先生の声が届きました。 「映画技術の天才(まあ職人かな)はいたかもしれないが・・・映画製作の不良はいなかったね」

THE TED TIMES 2024-08「日本映画大学」 2/21 編集長 大沢達男

 

日本映画大学の卒業制作を観て、天国から今村昌平先生の声が届きました。

「映画技術の天才(まあ職人かな)はいたかもしれないが・・・映画製作の不良はいなかったね」

 

1、不良で天才

「俳優というのは不良だ」

「不良が映画の世界では主役を演ずるから面白いんだよ」。

三船敏郎という役者は当時の不良。その不良を黒澤明監督が連れてきて映画で主役に使った、だから面白いんだ」

「最近の不良では、・・・女優とトラブルを起こしている長渕剛というのがいるらしいが、奴が面白そうだ」

「監督は?」

「・・・監督は・・・不良で、天才!かな」

日本映画学校に市民が参加できる「土曜映画会」というのがあって、今村昌平校長が話してくれたのを鮮明に覚えています。

1986年に日本映画学校新百合ヶ丘に移ってきて、1992年から日本映画学校では石堂淑朗先生が校長になっていますから、その間のことでした。

日本映画学校は、2011年から新百合ヶ丘駅前から白山キャンパスに移り、日本映画大学になりました。

その卒業制作上映会が2月10日に新百合のイオンシネマの大スクリーンでありました。

今村昌平先生が期待するような「不良で天才」監督は誕生したでしょうか。

 

2、家族

3本の卒業制作を続けて観ました(5本上映でしたが、時間の都合で途中で失礼)。

そして驚きました。

どれもこれも「家族」がテーマの映画だったからです。

20代前半の若者それも映画表現を学んでいる学生の最大関心事が「家族」というのに驚きました。

卒業制作はその作家(学生)の一生を左右します。いや決定づけます。

東京芸大の油絵画家の卵は、卒業制作に「家族」をテーマに選ぶでしょうか。

あり得ません。

まあ、変なツッこみはヤメましょう。

『卒業制作』 vs 『プロの作品』。

二つの作品を対決させて鑑賞し評論します。

これは面白いことになりそうです。

 

1)『あしあとステッチ』 vs 『理大囲城(Inside the Red Brick Wall)』

第1作目は『あしあとステッチ』、35分のドキュメンタリーでした。

兄と私そして両親の家庭です。

不幸が突然訪れます。

建築設備業で順調に業績を伸ばしていた父の会社が、反社(反社会的勢力)と関係を持っていたということで、社会から追放され倒産します。

私は父に何が起こったのかを検証するために取材を始めます。

父と兄、父と母、そして父と従業員、そして私は父と直接対決します。

映画解説のパンフレットは、「家族とは何なのだろうか」と、結ばれています。

映画が描いた「九設倒産」は実在の会社で実際に起こった事件です。

もし父(田島貴博)が反社勢力と関係がないなら、テーマは『冤罪』になります。

しかし父が反社勢力と関係があるなら、反社勢力が何者かがテーマになります。

どちらのテーマでも取材はむずかしい。

かといって「九設倒産」を家族の問題に矮小化することはできません。

作者の学生のみなさんに、質問します。

香港映画のドキュメンタリー『理大囲城(Inside the Red Brick Wall)』(劇場公開2022 監督:香港ドキュメンタリー映画工作者)をご覧になりましたか。

香港民主化デモの中で、2019年に警察が香港理工大学を包囲し学生をキャンパスに閉じ込めた事件を、学生側から撮影した映画です。

香港、中国では上映禁止、でも日本では観ることができました。

反乱を起こした学生たちは、大学の中に留まるべきか、逃げるべきか。

決断をしなければならない運命の時が迫ってきます。

きみならどうする?

キャンパスからの脱走はできます。

塀を乗り越え飛び降りる、生きるか死ぬかの決死行、しかし裏切り。

残ったものは警察との最終決戦になります。

これも地獄です。

観客はいつも決断を迫られます。

対して『あしあとステッチ』では、作者自らが安全地帯にいて、「九設事件」に迫っていない。

不満が残ります。

なぜ、父の罪について警察と対決しない?・・・反社の人へのインタヴューをしない?・・・父と反社の人が会食したレストランの話を訊いてみない?・・・

私の判定:×学生の負け、○プロの勝ち

 

○天国からの今村昌平先生の声

「お疲れさまでした」

「 『九設事件』の本質は、大分の事件なのに福岡県警が出てきていることです」

「ひとりの学生がテーマにできる事件ではありませんでした」

「ただし取材を拒否していた父親を説得し、インタヴューに成功したことで、作品は形になっています」

「そこは評価します」

「しかし、疎遠だった父との関係が改善された、という結論では弱い」

「父が家庭を顧みなくなったのは、仕事だけですか。隠された理由があるのではないですか」

「すべての人を問い詰めなければ、観客の心を捉えることはできません」

「ずる賢く、醜い、人間の悪を撮るのです」

 

2)『つきあかり』 vs 『兎たちの暴走』

第2作目は『つきあかり』、25分のドラマでした。

東京のバレエ団でプリマをしている私が2年ぶりに故郷に帰ります。

姉が先に帰っていました。

母は一人暮らし、父は2年前に亡くなっていました。

姉はそれと気がついていませんでしたが、母はボケて耄碌(もおろく)していました。

医者に見せるとアルツハイマー認知症、一人暮らしは難しいと診断されます。

私は東京帰りを延期し母を介護します。姉は施設に入れろと提案します。

私は「バレエと家族、どちらを取るべきかで、悩み続けること」(パンフレットより)になります。

プリマは一日として稽古を休むことはできません。

バレリーナは1日休むと自分ではわかり、3日休むと観客にわかるという厳しい仕事です。

ドラマはバレリーナの現実を無視しています。

介護では「地域包括ケア」が社会のテーマです。

家族、となり近所、ケアマネ、医師が、支え合い・助け合うのです。

室内だけの描写ではだめ、近所と社会を撮るべきです。

そして一番の問題は「認知症」という言葉です。

「Dementia」の訳語に「認知症」を決めた厚労省は間違えています。

高齢化によるボケ・耄碌(もおろく)は病気ではありません。ですから治療・治癒はできません。

学生の皆さんに質問します。

昨年(2023年)公開の中国映画『兎たちの暴走』(『兎子暴力』 The Old Town Girls 2020年 中国)を観ましたか。

中国語でいいます。「兎子暴力(Tuzi baoli=ツージ バオリー)」です。

この映画も『つきあかり』と同じように、母と娘を扱っています。

しかし心温まる家族とは正反対です。母と娘は、娘の同級生を誘拐し、殺害してしまいます。

主人公は母と娘、そして娘を中心した4人の女性、そして女性のシェン・ユー監督の撮りました。

伝統的な価値観の崩壊、無制限に解放される欲望、アノミー状態(規範の崩壊)の市民を描いています。

勝手にしやがれ』(1960年 ゴダール)、『理由なき反抗』(1955年 ニコラス・レイ)、『俺たちに明日はない』(1967年 アーサー・ペン)です。

パンキッシュなファッション、ワイングラスが並ぶスタイリッシュなテーブル、アンニュイ(物憂げで気怠い)でノンシャラン(無頓着で投げやり)、フリージャズのような映画です。

こんな中国映画は初めてです。

私の判定:×学生の負け、○プロの勝ち

 

○天国からの今村昌平先生の声

「エンディング。『つきあかり』の中で、母親の前で踊る娘のシーンはうまく撮れています」

「お疲れさまでした」

「ところで、私の『楢山節考』を観てくれましたか」

「老いを究極まで問いました」

「『つきあかり』は、老いの問題から逃げていませんか」

「ボケと耄碌(もおろく)の母による家庭の破壊を、地域社会の破壊を、撮ることから逃げていませんか」

「冒頭の評価と矛盾しますが、老いの問題に対して心優しい人々を描いても解決になりません」

 

3)『ママ』 vs 『苦い銭

第3作目は『ママ』、53分の中国を舞台にしたドキュメンタリーでした。

中国人の母親(私)の物語です。

私の夫はレストラン経営の社長、私には子供が3人います。小6、小4、小1の3人の娘。

ただし末娘は自閉症

私は社員トレーニング学校の校長を務め、小さい頃からの夢、花屋の経営を始めていました。

自閉症の子の特殊教育と家族のケア、そして夢の花屋の経営、私は「家族と夢の両立を果たすことができる」(パンフレットより)でしょうか。

「家族と夢の両立」って何ですか。

なぜ、家族が夢にならないのですか。なぜ、家族と夢が対立するのですか。

西欧流の個人主義のようで問題の立て方で発想がおかしい。

中国は「仁義礼智信」の外婚制共同体家族の価値観です。

「人権・自由・平等」は英米核家族イデオロギーです。

学生の皆さん、中国映画『苦い銭』(『苦銭(Bitter Money) ワン・ビン王兵監督 フランス・香港合作 2016年製作 2019年公開)を、観ましたか。

出稼ぎ労働者少女シャオミン(16歳)の話です。

賃金は12時間以上働いて、70~150元(1190~2550円)、粗末な食事、狭い部屋にベッドが並ぶタコ部屋での生活です。

ゴミが散乱している粗末な街にベンツが我が物顔に乗り込んできます。

カメラがメチャクチャいいです。

すし詰めの車内、女工たちの日常、言い争い、夫婦喧嘩、髪や首筋をつかむドメスティック・ヴァイオレンス

おまけに登場人物が突然カメラマンに命令します。ついてきて、そして撮って。

カメラマンは5人。中に日本人が一人いました。

監督からは、1日最低3時間、5時間は撮れと命令されました。

1人5時間、5人のカメラマン、1日25時間、1週間で175時間。そこから2時間の映画が制作され、中国の格差社会を告発しました。

苦い銭』は、動物のように生きうごめく人間どもを撮り、時代を撮りました。

私の判定:×学生の負け、○プロの勝ち

 

○天国からの今村昌平先生の声

「私が作った学校の生徒が中国で撮影できるなんて驚きです。関係者のみなさんに感謝します」

「気に入ったシーンがありました」

「納品した花に対するクレームの電話のシーン、自閉症のこどもが、粘土細工の人間の足や腕をもぎ取るシーン」

「いいじゃないですか。あのキャメラ・アイです。お疲れさまでした」

「ただし、あとは散漫。本(脚本)の問題でしょう」

「『ママ』の家族は恵まれていませんか。上の下あるいは中の上でしょう」

「だから問題の立て方が難しい」

「病気と医師と医療施設、商売と利権と官僚、教育と地域と中国共産党

「どれでも掘り下げられます。うごめく人間を描けます」

 

3、映画の発明

1)何を撮るか

今回の卒業生は、コロナ禍に学生時代を送っています。

コロナがみなさんを内向きにし、「家族」と向き合うことしかできなくした、と考えると悲しい。

しかし、なぜコロナを問わない?という疑問も生まれます。

○文明の環境破壊がコロナを起こしました。武漢の問題を究明すべきです。

○医学は伝染経路を解明できていませんでした。マスクとワクチンは新たな公害を起こしています。医学を疑うべきです。

○中国には「QRコード」による人民支配の問題があります。私は22年11月にイーキン・チェンのコンサートのために香港に行きました(映画スター・鄭伊健=イーキン・チェンのマネージメントスタッフ)。ホテルで2日間足止めされ、政府からQRコードが送られてきて、外出が可能になりました。私も中国人の行動も中国政府により監視されています。

○民主主義は危機にあります。香港には周庭(アグネス・チョウ)の問題もあります。

○あなたたち学生の発言もすべてAIにより就職先から検閲されています。AIによるキーワード検索の前に言論の自由などありえません。

○映画『ブレードランナー』の次の時代をテーマにすべきです。シンギュラリティを前にして何を学習すればいいのか。ベーシックインカムで私たちは労働を奪われるのか。

○ここでは国際政治の問題には触れません。政治のテーマを議論できないほど、時代は深刻です。

1989年の天安門事件を描いた『天安門、恋人たち』(『頤和園=イーフォユェン』  Summer Place 2006)を日本では観ることができます。

ロウ・イエ監督を過去の人にしてはいけません。

2)どう撮ったか。

いままで辛口にみなさんの仕事を評価してきましたが、作品は仕上がっていました。

作品がしっかりとしていたから、感想があり、評論ができました。

どう撮ったかの映画技術はしっかりしたものです。キャメラ、照明、美術、衣装、編集、MAに破綻はありません。

とくに印象に残ったのは音楽、音の作り方、使い方がうまいことです。

映画職人の養成はできています。素人の意見ではありません。

私は電通のCMクリエーターで、企画、脚本、演出、撮影、編集、ナレーション、MA、予算がなければオールマイティでした。

CMクリエイターは、日本の映画人はもちろん、英・米・仏・独・中、海外の映画スタッフと同じ釜の飯を食い、仕事をしています。

さらに企画とプレゼンテーションのプロです。

今回の卒業制作で感じたのは、プランニングとプレゼンテーションが内向きすぎること、世界感覚がない・・・(広告のチンドン屋が偉そうですみません)。

日本映画大学でもCM講座を1コマ持ちたかったのですが、いまとなっては残念です。

3)映画の発明

映画職人の養成だけでは、映画大学とはいえません。

映画は、映画という確固たる概念があって、それを作ることではありません。これが映画だ!を発明しなければなりません。

エイゼンシュタインは2~3秒のフィックスの短いカットをつなげモーションピクチャー(動画)にしました。

逆に溝口健二はワンシーンをワンカットで撮りました。奇跡のキャメラワークとライティングがそれを支え、新しい映画が生まれました。

さらにゴダールは手持ちのカメラの長いカットを使い、揺れ動くアプレゲールの心を撮り、ヌーヴェルバーグになりました。

日本映画大学の英名は、”Japan Institute Of The Moving Image” です。映画(cinema)ではなく、動画(moving image)を使っています。

そこには映画という固定観念を打ち破る、映画を発明する確固たる意思があります(それにしても分かりにくい英語。学校名としては不適切)。

 

○天国からの今村昌平先生の声

「卒業制作、お疲れさま」

「残念ながら、今回の作品では『不良で天才』に出会えなかったね」

「映画技術の『天才』(まあ職人かな)はいたかもしれない、でも映画製作の『不良』はいない」

「なぜならば私が好きな、「うじ虫」のような人間を、撮れていなかったから・・・」

「問題は脚本。いや脚本以前の、企画の問題だろうね」

「ことしの卒業制作では映画は発明されていなかった。来年また、お会いしましょう」

End

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

映画『哀れなるものたち』を見て、途方もない虚しさに襲われました。

THE TED TIMES 2024-07「『POOR THINGS(哀れなるものたち)』」 2/14 編集長 大沢達男

 

映画『哀れなるものたち』を見て、途方もない虚しさに襲われました。

 

1、『POOR THINGS』(ヨルゴス・ラモンティス監督 イギリス・アメリカ・アイルランド合作)

映画『哀れなるものたち』の原題は『POOR THINGS』(ふつうは「かわいそうに」と日本語にされる)で題名の中に「POOR」(貧しい)という単語が入っています。

ところがどっこい映画は、「wealthy」(裕福な)、「rich」(金持ちの)という言葉が似合うような、豪華なものです。

私が惹かれたのは、主人公の女性ベラ(エマ・ストーン)と旅をする男性ダンカン・ウェダバーン(マーク・ラファロ)が着ていたジャケットです。

船の中では、黄金のジャケットでした。

もちろん金ではありません。黄色と茶色の中間、絹が織り込まれているような厚手の生地の上着です。

中には同系色のタブルのベストを着ていました。

かっこいい。ダンカンの仕事は弁護士ですが、女遊びが職業のような伊達男(だておとこ)でした。

ダンカンは船の中で黒人の青年に会います。

黒人は襟に赤のスカーフをのぞかせた黒のジャケット。これもスリムな体型を想像させクール、かっこいい。

さらにダンカンは別のシーンでグレーの地に白のストライプのスーツを着ます。

弁護士といわれば、うなづかざるを得ませんが、どう見てもジゴロ(gigolo=ヒモ)にしか見えません。

スタイリッシュ。これもかっこいい。

映画のプログラムの解説ではベラのドレスが素晴らしいとありますが、私は男性のジャケットに注目していました。

「背広」という言葉は、ロンドンの紳士服街のセヴィル・ローズ(Savile Row)から、あるいは市民を意味するシビル(Civil)からです。

ジャケット、スーツといえばイギリスです。

昔、ロンドンを拠点とするメンズファッションの「トップマン(Topman)」というブランドにハマり、数年にわたりスーツを10着ほど購入しました。

いずれも満足、型紙がいい、伝統があります。以来スーツはイギリスという考えは揺らぎません。

ダンカンのジャケットに拍手です。

 

2、ヴェネチア国際映画祭金獅子賞受賞

コスチュームがリッチですが、セット(美術)もリッチでした。なかでも船のバックに見える雲が素晴らしかった。

天候が荒れ狂う寸前のドラマティックなものです。

ベートヴェンの田園交響曲の第4楽章で、突然のどかな田園が、雷雨と嵐に襲われますが、あれです。

映画で嵐はやってきませんが、恐ろしいほどの緊迫感があります。

音楽も全体を通していい。

映画の音楽はむずかしい。いい音楽を連ねても雑音になるだけ、映画は音楽的になりません。

音楽映画なのに音楽がピリッとしない日本映画『白鍵と黒鍵の間に』を見たばかりでしたので余計に印象に残りました。

映画『哀れなるものたち』の音楽の使い方に、YES!、です。

ひとことで言って映画『哀れなるものたち』の「映画IQ」は高い。

撮影、照明、美術、CG、衣装、編集、そしてMA・・・スタッフ全てがいい仕事をしています。

だからヴェネチアで金獅子賞になったのです。

***

しかし分からないものです。

LOVEと前戯のない機械的なセックス・シーン・・・エロを感じさせない性に関する露骨なトーク・・・を聞いているうちに、

初めは声を出して笑っていたのですが、急に虚しさにとらわれ始めました。

映画って何?。

私は何を見るために、ここに来ているの?。

死んだ母親の脳に彼女が産んだ新生児の脳を移植し再生させるという話。それがどうしたの?

ベラの肉体は大人なのに精神は子供。だから一緒に旅をするダンカンは精神的にゼロのベラを成長させなければならない。セックスの快楽すらも・・・。

へんてこりんな外国人ふたりの旅に、私はわざわざお金を払ってまでして、同行しなければならないの?。

・・・・・・。

映画館で、プアではないリッチな時間を過ごしていたはずなのに、その時間は音を立てて崩れ始めました。

 

3、19世紀のイギリス

ベラとダンカンは、旅の途中でアフリカのアレクサンドリアに寄航します。

そしてベラは、現地の人々の悲惨な生活を目撃し、ダンカンがギャンブルで手にした巨額の金を、プレゼントするというシーケンスがあります。

そのあたりで、私の神経はプチンと、切れたました。

映画の舞台は19世紀後半のイギリスです。

おいおい、イギリス人よ、あのころ君たちは、アジアで何をしていたのだよ。

いまさらヒューマニストぶって、自由だと平等とか、やめてくれ。

私は心の中で怒鳴り始めていました。

イギリスは1600年から東インド会社を設立しインド人を搾取してきました。

1857年のインド大反乱セポイの乱)では、老人・女子・小児などを血祭に挙げ、ムガル帝国を滅ぼし、イギリス領のインド帝国を成立させています。

イギリスは中国でも、中国人をアヘン中毒にし、1842年の不平等条約南京条約をむすび、中国国家を解体しています。

なぜそんなことをしたか、イギリス人は「科学的に正しい」ことをしただけです。

「北欧系に比べて、ほかの『人種』は知能能力は低い」。「動物の品種改良ができるなら、人間の品種改良もできる」。

19世紀のイギリスは、ダーウィンの『進化論』を生み、「優生学」で世界に冠たる「科学」の国でした。

映画はエンディングでなんでも銃で命令する紳士を登場させます。あれこそがまさにイギリス人でした。

「POOR THINGS(かわいそうに)」で「POOR DEVIL(哀れな人)」です。

***

ところで私はスーツを数着持ち、いまだに伊達男やジゴロに憧れています。

現在の世界では背広が標準服で、着ないのはインド人とアラブ人です。

私と私たちの知らない未来が、世界を待ち構えています。

 

 

 

 

 

チャールズ・ダーウィン(1809~1882)の進化論から、英米の帝国主義、そしてマルクス主義が始まりました。

THE TED TIMES 2024-06「進化論」 2/7 編集長 大沢達男

 

チャールズ・ダーウィン(1809~1882)の進化論から、英米帝国主義、そしてマルクス主義が始まりました。

 

1、英国

<英国のインド進出では、武力だけではなく、インド教徒と回教徒、藩王藩王、ジャット人とラージプト人、ブンデラ人とロヒラ人、仲間同士を戦わせました。

1857年のインド兵叛乱では、英国は残忍酷薄な行為を行っています。

「土民の老幼男女を屠った」、「老人・女子・小児なども血祭に挙げられた」。

大英帝国において、インド農民以上に悲惨なるものはない。彼は一切を絞り取られてただ骨のみを残している」

さらに英国は、中国(支那)で絹織物と茶を買い。代金を阿片で払います。

中国人は阿片中毒に、中国は経済的財政的危機を迎えます。

1839年、中国は林則徐に取締りを命じますが、英国は勝利し、1842年不平等条約南京条約を結び、中国国家を解体します。

「すべての支那将校を海賊や人殺しと同じく、英国軍艦の帆桁にかけよ。人殺しの如き人相して、奇怪な服装をなせるこれらの多数の悪党の姿は、笑うに耐えざるものである。

支那に向かっては、イギリスが彼らより優秀であり、彼らの支配者たるべきものたることを知らしめなければならぬ」>(『米英東亜侵略史』(大川周明 土曜社)からの要約)。

なぜ英国は、インド人と中国人に対して、こんなに非道いことをしたのでしょうか。

英国人は「科学的に正しい」とことをしたまでに過ぎません。

「北欧系に比べて、ほかの『人種』は知能能力は低い」(『ダーウィンの呪い』 千葉聡 講談社現代新書 p.194)。

「動物の品種改良ができるなら、人間の品種改良もできる」(p.190)

知能指数の低い、インド人・中国人は絶滅する運命にある、と科学的に信じていたからです。

2、米国

<「およそ150年以前から(中略)世界は白人の世界であるという自負心が昂(たか)まり、欧米以外の世界の事物は、要するに白人の利益のために造られている思想を抱き、いわゆる文明の利器を提(さ)げて、欧米は東洋に殺到し始め」ました。

そんな中で、1853年ペルりのアメリカ艦隊が浦賀湾に乗り込み、通商開港の条約締結を求めてやってきて、翌年の正月、やむなく幕府は長崎の他に、下田・函館を開く約束をします。

日清戦争(1894~5)で支那の無力が暴露され、帝国主義支那を略奪の対象とするようになります。

アメリカの東洋政策も変わります。

太平洋を支配するものが東亜を支配する、アメリカは日本の勢力圏である満蒙を進出の目標にします。

1905年ポーツマスで日露の講和談判が進行している最中アメリカの鉄道王ハリマンが、日本のものとなるべき南満州鉄道を買収しようとし、桂首相との間に覚書を成立させます。

驚いた小村寿太郎がこれを取り消しにします。

アメリカは満鉄、シベリア鉄道で世界一周船車連絡路を築こうとしていました。

ハリマン計画の失敗で、アメリカは日本が東洋進出の障碍であると考えるようになります。

アメリカは日本人排斥を始めます。

1906年にサンフランシスコの小学校から日本少年を放逐し、1907年に数十人のアメリカ人が日本人経営の商店を襲撃します。

加えて1911年加州議会で日本人土地所有禁止の法律が成立します。さら加州排日協会は、日本人の借地権を奪う、写真結婚の禁止、米国が排日法を制定する、日本人に帰化権を与えない、日本人の出生に市民権を与えない、以上を決議をします。

日米両国の政治的決闘が始まります。

アメリカは、1921~2年のワシントン会議で、第一に日英同盟を廃棄させ、日本を国際的に孤立させ、第二に日本海軍の主力艦を米英の6割に制限することに成功します。

「繰返して述べたる如く、米国の志すところは、いかなる手段をもってしても太平洋の覇権を握り、絶対的に優越たる地歩を東亜に確立するに在る。そのために日本の海軍を劣勢ならしめ、無力ならしめ、しかる後に支那満蒙より日本を駆逐せんとするのである」>(『米英東亜侵略史』(大川周明 土曜社)からの要約)。

そして1941年12月8日の開戦なり、1945年8月15日の終戦になります。

米国の日本に対する態度も、米国人が科学的に正しいと考えてしたことに、他なりません。

「奴隷は人間ではない。堕落した民族、依存的な民族、異質な民族が我々の国境内に存在したとしても、それらは合衆国の一部ではない。彼らは社会問題であり、平和と福祉に対する脅威である」(p.226)。

「この法律は日本で排日移民法と呼ばれてきたものだが、必ずしも日本からの移民を排除しようとしたものではなく、その本質は遺伝的に劣った「人種・民族」の移入阻止を目的とした優生思想である(p.234)。

3、マルクス

「『優生学とは、民族の先天的な資質を向上させるあらゆる効果を研究する科学』」(p.190)。

ギリシャ時代から優生思想はありました。紀元前4世紀のプラトンはこう言っています。

「上流階級の市民のうち良質と評価された男女だけが結婚し、それ以外は繁殖を禁じす。質の低い者は下層階級に追放する」(p.254)。

さらに近代になってからも近代オリンピックの父ピエール・ド・クーベルタン(1863~1937)が言っています。

「スポーツよ。あなたは豊穣だ。あなたは種族の完成に向け、真に高貴の努力し、不健康な種子を破壊し、その純粋さを脅かす傷を癒す」(p.278)。

そしてカール・マルクス(1818~1883)も社会進化論を展開しています。

「アジア的・古代的・封建的・および近代ブルジョア的生産様式が、経済的社会構成体のあいつぐ緒時期として表示されうる」(『経済学批判・序言』 カール・マルクス)。 

マルクスニュートン(1642~1727)の天体法則のように、社会変動の運動法則を発見し、自らの理論を「科学」としました。

さらにマルクスの理論にダーウィンの進化論を取り入れています。

ダーウィンは、(中略)動植物の諸器官の形成に関心を向けた。社会的人間の生産的諸器管の形成史、それぞれの特殊な社会有機体の物質的基礎の形成史も同じ注意に値するのではないか」(『マルクス・エンゲルス全集』23a p.487)。

進化論と優生学の影のある「科学的思想」は科学ではありません。

加えてマルクスは日本に対してたった1行ですが差別的な記述を残しています。

「日本でも、生命条件の循環は、もっと清潔に行われている」(『資本論』(三)p.303 向坂逸郎訳 岩波文庫)。

イングランドの労働者の劣悪な生活描写の後に出てくる、突然の日本そして日本人を奴隷扱いしたような、この記述は一体何なんでしょう。

 

篠山紀信、荒木経惟、坂田栄一郎の時代の終わり。なんだか自分も終わるようで、怖い。

THE TED TIMES 2024-05「篠山紀信」 1/29 編集長 大沢達男

 

篠山紀信荒木経惟坂田栄一郎の時代の終わり。なんだか自分も終わるようで、怖い。

 

1、篠山紀信(1940~2024)

篠山紀信さん(以下敬称略)が1月4日に亡くなりました。

残念です。私は電通のクリエーターでしたが、なぜか篠山紀信と仕事をすることがなく、そのまま終わってしまいました。

でも電通を辞めフリーになってからの事務所が、港区元麻布の篠山紀信の自宅のすぐそばにありましたので、いつも一緒ような気がしていました。

篠山といえば「オレレ・オララ」(1971)です。

リオのカーニバルの写真です。私はクリエーターになって間もない頃ですが、写真の迫力に圧倒されました。

写真家が身体ごと被写体にぶつかっていました。

写真への興味を開眼させられ、それ以来写真家といばまず篠山紀信と考えるようになりました。

16歳の宮沢りえを撮ったヘア・ヌード写真集「サンタフェ」(1991)があります。篠山は期待を裏切りませんでした。

写真評論家飯沢耕太郎篠山紀信を「時代のプロデューサー」と表現していますが、まさしく篠山紀信は時代を作りました。

そしていま、「三島由紀夫の家 篠山紀信」(1995年 美術出版社)を手に取っています。書棚から、偶然見つけました。

とんでもない写真集です。いかなる三島由紀夫へ追悼文や評論より優れています。

住宅の全景から、庭のアポロンの彫像を見ながら、玄関を入り、置物、椅子、家具、2階へ膨大な蔵書、書斎、執筆に使った机、そして3階へ窓から東京の景色を見せて、お仕舞いという構成です。

いちばん目を引くのは、三島が執筆に使っていた机が粗末な事務机であることです。家屋全体が装飾が多いものだけに印象的です。

「書斎は作家の頭脳であり心臓部であり、芸術家のもっとも神聖な秘密を宿した奥部である・・・」(篠田達美 p.215)。

私自身が三島の机に座り、万年筆を持ち、原稿用紙に文字を連ねている、ような気分になります。

写真集の中に、三島が客を接待したり、椅子に座ったり、書斎で電話に出たりの写真が出てきますが、それらはぜんぶ、三島家のアルバムから篠山が複写したものです。

篠山自身が三島を撮った写真は1枚だけです。でも家と家具と置物を撮るだけで、三島由紀夫のその息遣いまでが写っています。

篠山紀信は、戦後最大のスキャンダラスの芸術家三島由紀夫の精神を、撮影することに成功しています。傑作です。

そういえば思い出します。元麻布の篠山さんの自宅前を通ると、よくマリファナを吸っている匂いがしました。

あれは篠山さんの家からだったのしょうか。間違えていたらごめんなさい。でも違法の篠山が好きです。

ご冥福をお祈りします。

 

2、荒木経惟(1940~)

荒木経惟の方が半年だけ篠山の先輩です。

篠山は芝中、芝高、日大のまあお坊ちゃんですが、荒木は上野高校千葉大の秀才です。

荒木経惟電通の先輩で、電通時代で最後の高知ロケに一緒に行きました。

荒木はやっぱり天才でした。

乗った飛行機はYS-11でした。飛行機の中から荒木は全開でした。

窓から地上を眺めベラベラ喋りながらシャッターを切っていました。湖が見えると「青い精液だ」パシャ!。

飛行機を降りて電車に乗っても同じです。

「いいか電車が止まったらシャッター押すからね。撮り手の意思から解き放たれた写真。傑作が生まれる」カシャ!。

さらに旅館に入ると大騒ぎ。女中さんが現れると、「そう、それそれ!旅情だよ。襖のところに立って、いいねえ」パシャパシャ!

そして食事の後はストリップに行きました。コートの下にカメラを隠して、いざとなれば、すぐに撮れるようにしていました。

「ヤクザに見つかると、うるせ~から」「やつらに甘く見られないように、靴だけは最高級を履くんだよ」「いざという時、効くよ」。

荒木の出世作で最高傑作の「センチメンタルな旅」は電通時代の作品で1000円で買いました。

先日古本屋に売りました。なんと20万円。

しかし売るまで時間がかかりました。なぜなら買主は、USAだから。荒木のコレクターは世界です。

先日、香港で英語版の「ARAKI」を買いました。内容は全作品集のようなものです。

荒木は商売でも天才。日本では出版できない写真がたくさん入っていました。コート中のカメラから撮った写真です。

そういえば、羽田空港YS-11を見送りにきた奥さんの「陽子さん」の写真を私は撮っています。

もし、荒木さんお元気でしたら、ご連絡ください。

お売りします(笑)。

 

3、坂田栄一郎(1941~)

坂田は広告の制作会社ライトパブリシティで篠山の後輩です。

坂田は京北高校から日大出身、しかも大手飲料会社重役のお坊ちゃんです。

競馬が好きです。なぜなら、馬主席に入れるから(金持ち!)。

坂田とはアメリカのリチャード・アベドンのところから、日本に帰ってきた時からの付き合いです。

「アベドンは、コレだから(手のひらをほほのところで斜めにかざし)、タイヘンだよ(お尻を手のひらで覆う)」(聞いていたスタッフは笑う)。

坂田はいつもハッピーでした。背も高く、スラっとしていて、スタイリッシュでした。

坂田の代表作は「LOVE CALL」(坂田栄一郎 朝日新聞出版 2008)です。

1988年から20年間、週刊誌「アエラ」の表紙写真です。

その真骨頂は外国人の写真にあります。

レナード・バーンステイン、カストロアイルトン・セナアラファトゴルバチョフサッチャータイガー・ウッズカルロス・ゴーン・・・など。

カストロの時はヒドかったよ。自民党の誰だかが入っていきて、5分で撮れって、言ってきたんだよ」

「5分で撮れるわけないでしょう!お偉いさんを怒鳴りつけたよ」

「そしたらそれを聞いていたカストロがニヤニヤして・・・修羅場を経験しているからわかるんだよ」

「撮影はもちろん、うまくいったよ」。

私はサッチャーの写真が好きです。少女のようです。

日本でもいい人がいます。石原慎太郎堀江貴文佐藤琢磨・・・国際的な人は皆いい。

「日本人って、スタジオ入ってくると、構えちゃうでしょ。外国の人は、ハーイ!とか言って、フレンドリーでしょ。全然違うんだよね」

まあ、坂田栄一郎しか、アエラの仕事はできませんでした。

50年以上昔、初めて坂田と仕事をした時、彼だけスタッフの弁当を食べませんでした。

自分でランチボックスを持ってきていたのです。

70年代の初めです。69年にアメリカではウッドストックのロックフェスがありました。

ヴェジタリアン、ビーガン・・・、日本の私たちは、そんな流行を知る由もありませんでした。

エーちゃん、あのとき、ランチボックスには何が入っていたのですか。

***

荒木、篠山、坂田の前の世代写真界の巨匠、操上和美(1936~)、鋤田正義(1938~)、森山大道(1938~)は、みな元気です。

しかし篠山紀信は突然死にました。そして、荒木経惟の、坂田栄一郎の、噂を聞きません。

私も終わりなのでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「銀座の終わり」と「ジャズの誕生」を描いた映画『白鍵と黒鍵の間に』。

THE TED TIMES 2024-04「映画『白鍵と黒鍵の間に』」 1/22 編集長 大沢達男

 

「銀座の終わり」と「ジャズの誕生」を描いた映画『白鍵と黒鍵の間に』。

 

1、「アキラのズンドコ節」

70年代に、銀座日航ホテル(今はない)の地下で、ピアノ弾きのバイトをしていた坂本龍一が、当時を回顧して語っています。

<演歌をリクエストされると、バイトを終わった後もしばらく間、そのメロディが頭に残ってしまって、仕事にならなかった>。

映画『白鍵と黒鍵の間に』も同じです。

映画が終わって印象に残ったのは、親分A(熊野)が歌った「アキラのズンドコ節」だけに、なってしまったからです。

<銀座で小林旭はヘンだ、石原裕次郎だよ>。<原作では村田英雄の「王将」だったのに>。<そもそも「アキラのズンドコ節」は2003年リリースだから、映画が描いた1986~9年の銀座で歌われるのはおかしい>。

私は分けの分からぬことを考え始めていました。

しかし映画にとって、こんなことはどうでもいい、ことでした。映画は極めて観念的に「銀座の終わり」と「ジャズの誕生」を描いていました。

 

2、銀座

服部時計店を背にしてまず第一歩を踏み出す。晴海通りを渡り、右に曲がってすずらん通り方に左折、しばらく行ってみゆき通りを右折。その先の界隈が、僕が毎晩いた思い出の場所である」(『白鍵と黒鍵の間に』 p.183 南博 小学館)。

映画『白鍵と黒鍵の間に』の舞台は、鳩居堂ソニービル(今はない)、銀座電通、ライオンビアホール(交詢社通りの向かい)に囲まれた、銀座の四角形の中にあります。

四角形の頂点の古いビルの撮影は銀座描写には不可欠ですが、映画には出てきません。

そして銀座に欠かせない飲食の場所すらも登場しません。

まずそばの「よし田」。四角形から新橋側にちょっとだけ飛び出しますが、銀座で仕事をする人々が夕方になると集まり、食事をする場所でした。

とんかつの「とん通」(いまはない)、とんかつの「梅林」(昭和2年創業)、そして焼き鳥屋の「とり銀」も出てきません。

太宰治が飲んでいた「ルパン」、都知事美濃部亮吉(とんでもない革新知事)がランチを食べていたフランス料理「エスコフィエ」、となりの通りの「三笠会館」の看板すらも出てきません。

映画の中でバンドマンのたまり場として「ボストン」は、みゆき通り「風月堂」のそばのはずですが、どうしても思い出せません。

「ボストン」が実在していたとしても、映画で描かれているような場所は、銀座にはありませんでした。

あくまでも映画のコンセプチュアルな設定です(撮影に使われた町田のジャズ・バー「ノイズ」は客としてお世話になっているので、あまり突っ込みたくないありませんが)。

さらに映画にはクラブのホステスさんが登場しますが、当時の銀座を忍ばせるホステスさんがいません。

銀座のホステスさんは、ファッションモデルよりファッショナブルで、喋りは威厳のあるインテリでした。彼女たちが銀座のファッションを作り、日本の流行を生み出していました。

残念です。映画『白鍵と黒鍵の間に』には、銀座が撮影されていません。

でも映画は、銀座を描こう、などとハナから思っていません。

 

3、「奈落の底」

1)始まり

舞台は1980年代後半(1986~9)の銀座です。「ヒロシ(博)」がキャバレー(交詢社通り?)のピアニストとしてデビューします。

ある日キャバレーで銀座を二分するヤクザの「親分B」(あいつ)から映画「ゴッドファーザー」の『愛のテーマ』をリクエストされ弾きます。しかしこの曲は、銀座を二分するもう一人のヤクザの「親分A」(熊野)だけが、銀座で聴くことができる曲でした。

それを知らずにやってしまった「ヒロシ」の演奏は事件になります。

2)クラブ

「ミナミ」はあることからキャバレーのピアニストからクラブ(みゆき通り?)のバンドのピアニストに採用されることになります(「ヒロシ」は「ミナミ」に)。

そこはなんと『愛のテーマ』を聴くとこができる「親分A」(熊野)のシマで、「親分A」が馴染みの客でした。

クラブには外国人の女性歌手がいました。彼女はいつも客が演奏を聞いてくれない、と嘆いていました。「ミナミ」は、所詮ジャズ・バンドは店の飾り、花瓶のような存在だと諭すのでした。

3)最後の日

銀座最後の日がやってきます。

「ミナミ」はボストン・バークリーへの留学を決心していました。

女性歌手がそれにはデモテープが必要だとアドバイスし、クラブの演奏をラジカセで録音することにします。しかし店には最高の顧客である演歌が好きな「親分A」もやってくる。許されるだろうか。

ドラマは急展開します。

かつて「ミナミ」に『愛のテーマ』を弾かせた「親分B」(あいつ)が、懐かしのキャバレーに行き若いピアニスト「ヒロシ(博)」(一人二役、非常に分かりにくいところ)に、昔と同じように弾いてくれと『愛のテーマ』をリクエストします。

そして『愛のテーマ』を弾いたピアニストは、現在はクラブ(みゆき通り)のバンドのピアニスト「ミナミ」になっていることを知り、「親分B」(あいつ)は「親分A」(熊野)がいるクラブに乗り込んでいくとになります。

4)奈落

クラブでは「親分A」(熊野)が「アキラのズンドコ節」を歌っていました。

「親分A」(熊野)と「親分B」(あいつ)が対決します。殺し合いになります。もちろん「ミナミ」も巻き込まれます。そしてみんなは、デモテープも、ビルから奈落の底に転落していきます。全ては終わります。

しかしドラマはここから・・・奈落の底で死者たちは復活し、「ミナミ」も浮浪者として復活し、母に巡り合い「母子手帳」を受け取ります。それはハシカの接種証明書として渡米には不可欠のものでした。

「ミナミ」はジャズのアメリカへ、ピアニストになるためにボストン・バークリーへ行くことになります。

***

原作の南博はピアニストとして掛け持ちしていて、クラブSとクラブRの2軒の間は歩いて5分とかからないところだ、とあります。

疑問があります。

映画では、「どこに」クラブがあったのか、描かれていません。

映画で、親分B(あいつ)が「愛のテーマ」をリクエストしたキャバレーを小説のクラブR(交詢社通り)、親分A(熊野)が歌ったクラブをクラブS(みゆき通り)と想像するしかありません。

そしてもう一つの疑問。

映画はビルの谷間の「奈落の底」を描きますが、現実の銀座にあんな場所があるのか、です。

つい先日、銀座の四角形の中をくまなく歩きました。ビルの谷間はありましたが、浮浪者が住めるような空き地はありませんでした。

「奈落の底」は、ロケハン(シナハン)をしていて監督が思いついた、これも現実にはないコンセプチュアルな設定です。

そして再び、思います。

映画は現実の銀座など問題にしていない。

映画は、「銀座の終わり」の象徴である「奈落の底」から始まり、「ジャズの誕生」の象徴である浮浪者の主人公ミナミ・ヒロシが住んでいる「奈落の底」で終わります。

映画のエンディングになる奈落の底で、南博が言ったセリフが印象的です。

<戦争したり、地球環境を壊したり、只々糞を垂れて死んでいくだけではいやだから、僕は人間にできうる何か美しいものをこの世に提供したいと願う>(『白鍵と黒鍵の間に』 p.113)。

***

南博を弁護します。映画がキーとして取り上げたのは、南博がバンドを始めたばかりの頃に考えた「青い」言葉です。

それから20年後南博は、「ジャズは生き様。バークリーの栄光も、銀座の暗黒も、私。」(p.185)の趣旨のことを言っています。こちらの方が「ジャズの誕生」にふさわしい。

 

4、ギンザ・ポスト・ギンザ

現実の南博(1960~)が、銀座にやってきた頃(1986~9)に、銀座は終わりを迎えていました。

1980年代の末に銀座で重大事件が起りました。中華料理屋「東興園」の火災です。

東興園は、先ほどの四角形からちょっと外れた、銀座電通前で電通通りを挟んで日経金ビル(現ヒューリック)の裏の路地にありました。

映画監督小津安二郎(1903~1963)が愛した店でした。

小津は「深川」、女将さんは「浅草」、二人は気が合いました。

映画『東京物語』の撮影の時には女将さんが、東京駅で仕事をする撮影クルーに、シューマイを差し入れました。

小津が「東興園」に通っていた20年後に、「本所」生まれの私も、「シューマイ・ライス」を食べに通い、いつも特製スープをサービスしてもらっていました。

「東興園」だけが銀座なのに下町でした。

電通にクリエーターとして入社したばかりの私は、ほのかに少女の面影があるわずかな異形で、女将さんは「小津のような活躍をする」と将来を保証してくれていました。

火災には地上げ屋の放火の噂があります。

だとすると、「親分A」、「親分B」のどちらかが関与していたはず・・・。

「東興園」の焼失で銀座は終わりました。

そして私も電通を退職し、フリーランサーになり、銀座を離れます。2002年には電通も汐留へ、銀座を離れます。

そして決定的なことが起こります。

2015年にそばの「よし田」(創業明治18年)が閉店します。

「よし田」は160席、3階まである大きなそば屋でした。

19世紀のフランスの画家エドゥワール・マネ(1832~83)の絵画「フォーリー・ベルジールのバー」があります。

「よし田」の客は、あの絵に描かれた客にそのものでした。

銀座のキレイどころ、会社の重役、ボーイ、バンドマン・・・そして富裕の人々。

「よし田」の閉店は、銀座の終わりの象徴でした。

映画『白鍵と黒鍵の間に』が銀座を描かなかったのは必然です。

原作が、「ジャズ喫茶」と「ジャズクラブ」を失った「ジャズ・ポスト・ジャズ」の銀座を描いたように、

映画は、「東興園」と「よし田」を失った「ギンザ・ポスト・ギンザ」(銀座が終わった後の銀座)の物語でした。

 

5、「銀座の恋の物語」

映画『白鍵と黒鍵の間に』のかんじんの音楽について触れませんでした。それは「ジャズピアニスト・エレジー 南博 ライブアット新宿ピットイン」(2月3日)を聴いた後にしましょう。

冒頭に触れた「アキラのズンドコ節」(2003年)は当時の歌ではありませんでした。

あの頃の銀座で本当にヒットしていた歌がありました。石原裕次郎の「銀座の恋の物語」(1886年 映画は1887年)です。

もし・・・親分A(熊野)が「銀恋(ギンコイ)」を歌っていれば・・・映画は全く違う印象になっていました。

ゴッドファーザー』のマーロン・ブランドアル・パチーノ、そして任侠映画鶴田浩二高倉健(二人は歌もうまかった)に負けない、二人の親分が造形され、銀座伝説が生まれていたはずです。

そしてその映画は、エルメス(旧ソニー・ビルの隣)、ジュルジュ・アルマーニ(洋書店イエナ、近藤書店があった)、ルイ・ヴィトン(南博の仕事場あたり)、バーニーズ・ニューヨーク(交詢社ビル)に占領されてしまう前の、「銀座の終わり」の名画になった・・・

そこまでは言いますまい。

(終わり)

 

 

 

 

 

 

だれが、なにが、新聞の代わりを、やってくれるのでしょうか。

THE TED TIMES 2024-03「新聞の終わり」 1/15 編集長 大沢達男

 

だれが、なにが、新聞の代わりを、やってくれるのでしょうか。

 

1、「朝日の最下位」事件

まったく私的な会合ですが、「元旦社説ランキング」というイベントを、数年続けてやっています。

正月に6人の一家言持った老人が集まり、東京で発行されている6紙の元旦社説を読み比べ、評論しランキングをつけるという催し物です。

集まった6人とは東京6紙での元論説委員2人、東京キー放送局元政治部記者1人、野党党首元秘書1人、元大手広告代理店クリエーター1人、元広告代理店経営者で元学生活動家1人の6人です。

今年の「元旦社説ランキング」で事件が起こりました。朝日新聞が6紙の最下位になってしまってのです。

1)東京 2)産経 3)日経 4)読売 5)毎日 6)朝日。

普通、東京6紙といえば、朝日、毎日、読売、日経、産経、東京と言われますが、ちょうどその逆に順番になりました。

遊びの催し物とはいえ、ショッキングでした。

 

2、朝日と毎日の社説

朝日新聞(見出し「暴力を許さね 関心と関与を」)

ウクライナ、ガザ、ミャンマースーダンで戦火が激しく、「警察官」(米国)を失った世界は不安定化した。ガザに住む朝日の通信員ムハムド・マンスールさんは、まず水、そして薬、食糧、燃料の支援が必要だという。パレスチナイスラエルの互いの憎悪の深さに驚かされる。ウクライナとガザの戦争からの教訓がある。まず戦闘が始まれば止められないということ。国連も機能不全、しかし国連を見限るわけにいかない。つぎに戦争には憎悪と不信の蓄積があること。ロシアの侵略は10年前から、パレスチナイスラエルには長年にわたり壁やフェンスが築かれていた。理不尽を見過ごさない、争いの芽を摘む関心と関与を。

 

毎日新聞(見出し「二つの戦争と世界 人類の危機克服に英知を」)

欧州と中東の戦争は「人類の危機」だ。対テロ戦争を始めた米国が20年後のアフガンから撤退したように軍事力で対立は解消できない。まずは停戦で死傷者を減らすことである。国際社会の脆弱性が露呈しているいま、国家中心から人間中心の視座に転換しなればならない。世界人権宣言の精神である。国際司法裁判所(ICJ)そして「法の支配」。さらにもうひとつは国家に対して市民が声を上げることである。長男を戦闘で失ったイスラエル人母親すらが、パレスチナ人との共存の未来を望んでいるではないか。欧州の移民規制のような排外主義は許されない。多様性の尊重である。人類の危機には他者との共生の道がある。

 

二つの新聞とも、ウクライナとガザがテーマで、戦争に対してどうするのかを論じています。

朝日は紛争(暴力)の芽を摘む関心と関与を持たなければならないと警告し、毎日は人間中心・市民中心・他者との共生を説いています。

なぜ不評だったのでしょうか。まずテーマ設定が悪い。日本がどう関与すべきなのか、政権は何をすべきかなのか、外交的なテーマを論じられていません。

抽象的で高踏的な人道問題で終わっています。

横田めぐみさんの拉致に、イスラミックステイトの後藤さん湯川さん虐殺に、さらにはアフガニスタンでの中村医師の銃撃に、朝日と毎日は現状を変える力になり、メディアとしての責任を果たしたでしょうか。

さらに北朝鮮のミサイル発射に、中国の南沙諸島、台湾、尖閣への進出に、ロシアの北方領土問題の棚上げに、朝日が言う「暴力の芽を摘む関心と関与」が、毎日が言う「人間中心・市民中心・他者との共生」が説得力を持ち、有事を阻止する力になるでしょうか。

発行部数減少に悩む朝日と毎日は、日清、日露、大東亜の夢再び、戦争による発行部数増大に、期待をしているのではないでしょうか。

無責任な「平和と民主主義」議論は、論説委員と筆者の力不足以外の何物でもありません。

 

3、リベラリズムの終わり

新聞の発行部数の減少、新聞は読まれない、新聞記者の質の低下、新聞の終わりの時代が近づいています。

今回の「朝日の最下位」事件で明らかになったのは、朝日・毎日が続けてきた戦後の「平和と民主主義」の時代の終焉です。

朝日は戦後GHQより発行停止処分(1945.9.18)を受け、それ以来自己検閲によりGHQの機関紙になっていきます。

「兵器の戦争」は終わりましたが、米国は日本の歴史と伝統を全否定する「文化の戦争」を仕掛けてきました。

万世一系天皇と祭祀共同体の日本に、「日本国憲法」、「東京裁判」(靖国神社批判)そして「太平洋戦争」(大東亜戦争ではない)という用語で、リベラリズムの戦いを挑んできました。

リベラリズムとは、自由、平等、人権のいわゆる「戦後の平和と民主主義」です。

たとえば憲法13条には「すべての国民は、個人として尊重される。生命、自由及幸福の追求に対する国民の権利については・・・」とありますが、これは米国独立宣言の丸写しです。

独立宣言には「すべての人間は生まれながらにして平等であり、その創造主によって、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられている」とあります。

気をつけなければいけないのは、キリスト教の神によって、権利が与えれれていることです。つまり異教徒は、この限りではありません。

現在の国際紛争のほとんどは一神教の争いです。そしてリベラリズムとはアングロサクソン核家族イデオロギーでしかありません。

日本は「兵器の戦争」だけなく「文化の戦争」でも敗れ、民族としての誇りを失い人口減少で、30世紀初頭には地球上から姿を消そうとしています。

「朝日の最下位」事件の真相は、平和と民主主義の時代の終わり、とリベラリズムの終焉です。

私たち日本人が、日本人に還るとき、日本の新たなスタートを切るとき、がやってきました。