八百長はある。しかし八百長は許されない。

コンテンツ・ビジネス塾「八百長」(2011-6) 2/15塾長・大沢達男
1)1週間分の日経が、3分間で読めます。2)営業での話題に困りません。3)学生のみなさんは、就活の武器になります。4)毎週ひとつのキーワードで、知らず知らず実力がつきます。5)ご意見とご質問を歓迎します。

1、八百長をどう考えるか
大相撲の力士間であきらかに八百長を疑わせるケータイを使ったメールのやり取りが行われていました。ケータイは野球賭博関連で警視庁が押収したもので、メールは10年3月の春場所、同5月の夏場所の時にやり取りされたものです。このことで日本相撲協会は、大阪府立体育館で行われる予定の春場所の中止を決定し、放駒(はなれごま)理事長は「膿(うみ)を完全に出し切る」「相撲の歴史で最大の汚点」と発言し不祥事をわびました(日経2/3、2/7)。
大相撲の八百長の噂は昔からありました。大きな事件は1963年。当時の若手流行作家だった石原慎太郎東京都知事)が、柏戸大鵬の全勝対決の結果を翌朝のスポーツ紙で、八百長だ!と書き立てました。ところが相撲は、所詮ふたりの男の力くらべ、八百長エビデンス(証拠)はありません。石原の謝罪で和解が成立します。
使者が走るんだよ。勝負の前の支度部屋にいる力士のもとに対戦相手から八百長の依頼がくるのさ。金額に決着がつかない場合は、土俵上の仕切りのときに指をだす。1本出したら10万、だめなら、次の仕切りのときに2本の指を出し20万。それで八百長成立。だいたいからして、千秋楽の7勝7敗の力士は勝っているじゃないか。使者が走っているのは間違いないよ。大相撲の八百長は笑い話として、昔から語られてきました。しかし今度ばかりは、メールという物的な証拠があります。「真剣勝負と公正をむねとするスポーツの世界では、八百長は最大のタブーであり、絶対悪であり、そこを踏み外した者を弁護する余地などない」(阿刀田寛 日経2/3)。
2、大相撲はスポーツか
1)八百長は社内協調である・・・星の売買、貸借。八百長をするインセンティブ(動機)は存在する。協会は、力士に終身雇用を保証する会社。力士は競争をするが、情報を分け合い、能力を分かち合い、協調によって会社の生産性を高めている(『大相撲の経済学』中島隆信 P.124 ちくま文庫)。
2)八百長の絶滅は社会へのプラスにならない・・・八百長をなくすには、取り組み編成、部屋制度、巡業などの力士交流をなくし、体重別、個人別総当たりに競技に変えなければならない。真剣勝負は怪我人をを多くするだけで、相撲を面白くするとは限らない(前掲P.126~P.128)。
3)大相撲はスポーツではない・・・相撲協会文部科学省所管の公益法人。その目的は「わが国固有の国技である相撲道を研究し、相撲の技術を錬磨し、その指導普及を図るともに・・・」、であり、相撲の強みは文化性であって競技性ではない(前掲P.218)。
「相撲は、格闘技やスポーツではなく、伝統文化である」元力士の舞の海秀平もこう書きました(前掲P.267)。実際に、伝統文化を理解せず、勝負だけにこだわった外国人力士は追放されています。相撲をけんかと言ったハワイ出身の小錦は、横綱に推薦されませんでした。土俵際でガッツポーズをし休場中にサッカーを楽しんだ、モンゴル出身の朝青龍は、横綱を辞めさせられました。二人は、相撲を勝利至上の格闘技スポーツ、と勘違いしたからです。
3、八百長はある、しかし八百長は許されない
ドラッカーのマネジメント理論を援用し、相撲という事業と八百長を考えてみます。
1)顧客(観客)にとっての八百長・・・巡業で人気の初っ切り(しょっきり)では、反則(髷をつかむ)、禁じ手(突く殴る蹴る)、横綱がちびっ子に倒される八百長で、観客を魅了します。力士は芸人です。しかし観客は、巨漢、怪力、無敵の力士のファンです。2)従業員(力士)にとっての八百長・・・八百長は、相互扶助、相撲の生産性に向上に、有効です。しかし八百長は、力士を堕落させます。
3)社会にとっての八百長・・・相撲は伝統文化。武勇、仁義です。そして相撲協会公益法人八百長を黙認できません。しかし勝利至上主義のスポーツではありません。相撲は礼節です。
八百長はある、しかし八百長は許されない」これが相撲という事業を繁栄させるための結論です。メールで八百長の相談とはなんとも野暮です。神事や伝統文化が泣きます。そこには、神業、以心伝心、阿吽(あうん)の呼吸がありません。外交でもビジネスでも相撲でも、メールで秘密は守れません。実際に会って話しましょう。手抜きの野暮はやめましょう。