坂田栄一郎は、40年前も今も、大型新人です。

コンテンツ・ビジネス塾「坂田栄一郎」(2011-22) 5/25塾長・大沢達男
1)1週間分の日経が、3分間で読めます。2)営業での話題に困りません。3)学生のみなさんは、就活の武器になります。4)毎週ひとつのキーワードで、知らず知らず実力がつきます。5)ご意見とご質問を歓迎します。

1、型破りの新人
1970年代の日本写真界に衝撃的に登場した新人がいました。坂田栄一郎、その新人はすべてが型破りでした。まず坂田はキャリアが違いました。ニューヨークで当時の世界を代表するファッションとポートレートのリチャード・アヴェドンのアシスタントを5年近くしていました。つぎに坂田はスラリとしたハンサムでした。いままでの日本の写真家とは雰囲気が違いました。先輩との違いは当然としても同世代の写真家とも坂田は違いました。広告写真の操上和美、激写の篠山紀信、天才アラーキー荒木経惟、彼らは小柄で職人を感じさせる写真屋、坂田はスタイリッシュなフォトグラファーでした。そしていちばんの違いは坂田のハッピーなキャラクターでした。「アヴェドンはこれだからさ(手を口元に添え女性が品を作る仕草)!たいへんだったよ(と腰あたりに手を添える)!」「撮影終わってクタクタになって家に帰るとマキシーンが、トウちゃん!ベッドに連れて行って!」「外人はストレートだから参っちゃうよ(当時の坂田はイギリス人のスタイリスト・マキシーンと結婚していた)」
偉ぶらない、構えたところがない。坂田がいる撮影スタジオはいつも笑いに溢れていました。型破りの新人はたちまち人気者になり、CM業界でもたくさんの仕事をこなすようになります。
2、アエラ
坂田は1988年から朝日新聞社の週刊誌『AERA』の表紙写真を撮るようになります。1年の約束で始めたのですが、この仕事は継続し現在23年間、1000人を超える世界の巨人を撮影することになります。坂田は広告の仕事をやめます。そして師匠のリチャード・アヴェドンと同じようなポートレートのフォトグラファーとして成熟していきます。
1)ジェーン・グッドール・・・アエラの表紙写真900以上を集めた写真集『LOVE CALL』(朝日新聞出版)のなかでひときわ輝くのがこの女性の動物行動学者を撮った写真です。知的な彼女がまるで恋人の前でしか見せないようなくつろいだ表情をしています。ジェーンは撮影のあと、ブランケットをヒーターを用意してくれた、坂田の心遣いに感謝するという手紙を書きました。英元首相マーガレット・サッチャー、米国務長官ヒラリー・クリントンも新聞やテレビで見せない乙女の表情をしています。
2)フィデロ・カストロ・・・撮影では自民党の故三塚とたったの5分の撮影時間を巡って戦いました。革命家カストロはわずかに笑っています。坂田に戦うフォトグラファーの姿を見たからです。ワレサポーランド大統領、アラファトパレスチナ自治政府議長、チベットダライラマもみんな笑っています。坂田がいれば世界は仲良くなれます。
3)五島龍・・・ピカソが描く人物がピカソを思わせるように、手塚治虫の漫画の主人公が手塚自身に似ているように、フォトグラファーも自分を超えるものは撮れません。不思議です。坂田はバイオリニストの五島龍を撮っています。五島は天才モーツアルトのように視線を外界ではなく、自らの内なる魂に向けています。この写真は不滅です。天才を撮れる坂田も神の国の人なのでしょうか。
3、思想家
坂田はフランスのファッション誌『ボーグ』の撮影のために来日したアヴェドンのアシスタント採用試験に丸暗記した英語のスピーチで合格し、帰国したアヴェドンからニューヨーク・オフィスへの採用の手紙をもらい、帝国ホテルの旅行客に話かけ英語を学び、1966年に渡米しています。
でも平成のいまには注釈が必要です。当時は1ドル=360円(現在は80円)、帝国ホテルは、フランクロイド・ライトが作った大谷石造りの美術館のような建物、そして飛行機はプロペラ機。坂田がやったことは、学生の就活(就職活動)ではなく、探検家がやるようなアドヴェンチャーでした。
ニューヨークでの坂田は、ヒッピー文化に触れます。アヴェドンのオフィスには、ポップアートのアンディ・ウォーフォールや歌手のボブ・ディランが出入りしていました。レイドバック(ゆったりリラックス)した自分、文明というパンツを脱ぎ捨てた自分、そして自然と共生する自分。坂田のライフスタイルは、ロックの70年代に始まりインターネットの現在にまで積み上げられてきた、世界をリードする思想です。坂田はフォトグラファーの姿をした思想家です。ところが日本では、この思想が通用しない。だから坂田は吠えます。40年前も今も、自らが型破りの新人でなくてはいけないからです。