瀬戸内寂聴の自叙伝が始まった。こらは必読です。

コンテンツ・ビジネス塾「瀬戸内寂聴」(2011-50) 12/19塾長・大沢達男
1)1週間分の日経が、3分間で読めます。2)営業での話題に困りません。3)学生のみなさんは、就活の武器になります。4)毎週ひとつのキーワードで、知らず知らず実力がつきます。5)ご意見とご質問を歓迎します。

1、思想家
2011年は、日本で始めて女性が作った女性のための雑誌『青鞜(せいとう)』が、創刊されてから100年に当たる。瀬戸内寂聴は自叙伝『この道』(東京新聞夕刊11/14)を、こう書き始めました。
「日本の女性の地位は、旧来通り男性に従屈していて、良妻賢母を理想とする忍従の立場を変えることはできなかった。経済力のある男性は、妻妾(さいしょう)同居などを平然を行い、夫の放蕩(ほうとう)の結果、性病をうつされ失明する妻があっても泣き寝入りであった。妻の姦通(かんつう)は、夫の訴えによって妻を獄につないだ」
瀬戸内は『この道』によって、自らを日本女性史の、「新しい女」として位置づけています。平塚明(はる=らいてふ)、与謝野晶子田村俊子伊藤野枝岡本かの子有吉佐和子、そして現代の山田詠美江國香織川上弘美川上未映子、そのど真ん中に瀬戸内寂聴。瀬戸内は、明治、大正、昭和、平成と続くの女性の歴史を語るにはなくてはならない人物である。この試みは正当です。家庭を捨てた、妻子ある男に走った、大胆に性を描いた、文芸雑誌に干された、誰よりも旧来の社会と血まみれになって戦ってきたのは、瀬戸内寂聴、その人だったからです。
2、宗教家
小説家瀬戸内晴美(1922~)は、51才のときに出家して瀬戸内寂聴(1973)になります。僧侶・寂聴は、連合赤軍永田洋子、連続射殺魔の永山則夫、死刑囚との交流を続けました。その言葉には宗教家として真実があり、極限の世界にいる人間に通用しました。
人生は無常。人は生々流転している。動いている。流れている。同じ状態は続かない。このことを東北大震災の被災者の人々に伝えるために、瀬戸内は病床から起き上がります。奇跡です。僧侶としての私の最後のお勤めかもしれない。瀬戸内は祈るために東北に出掛けました。
私は悪い女だ。人は堕ちる。人間だから堕ちる。堕ちればこそ救いが見える。瀬戸内は坂口安吾堕落論』に学びます。そして、悪い女なんだからと開き直り、自由になります。
地獄に行くか、極楽にいくか。あの世ではどうせ地獄にまいります。地獄の方が賑やかで楽しいような気がします。極楽なんて退屈。今日はどうやって責められるのか、どんな鬼が来るのだろうか、緊張している地獄の方が楽しい(「時代を創った女。瀬戸内寂聴」『文芸春秋2012.1』P.416)。
天台寺の住職として出版した『寂聴般若心境』(1988年)は、ベストセラーになり、月1回の京都の寂庵での法話には定員100名に10倍の申し込みがあり、東北の天台寺法話には5000人を超える人々が集まります。寂聴は、僧侶の中の僧侶、史上に名を連ねる宗教家です。
3、芸術家
「自殺する見苦しさより、出家する方が美しい身の終わりのような気がする」(『女徳』P.539 瀬戸内寂聴 新潮社)。瀬戸内はさまざまな女を題材に、芸術家としての業と女としての業の矛盾相克を描きました。その闘いに女たちはバカ正直とも愚直ともいえるまともさで、真っ向からぶつかり、血を流している。瀬戸内はそうした女たちに最も強くとらわれたのです(前掲P.651尾崎秀樹の解説より)。
瀬戸内は小説家という名の芸術家、幅広い分野の芸術家がその仲間にいます。交友録的なエッセイ『奇縁まんだら』(瀬戸内寂聴横尾忠則 日本経済新聞出版社)は、その記録です。さらに、藤原新也沢木耕太郎橋本治平野啓一郎横尾忠則丸谷才一梅原猛、当代一流の男性芸術家が瀬戸内のファンとして控えてます。
田村俊子賞(1961)、女流文学賞(1963)、谷崎潤一郎賞(1992)、そして文化功労者(1997)、文化勲章(2006)。瀬戸内は89才ですが、過去の人ではありません。2011年には泉鏡花賞を受賞しています。そして小説家としても長い歴史の日本文学の頂点に立とうとしています。紫式部の『源氏物語』にはすでの挑戦しました。そして次のターゲットは清少納言です。
瀬戸内は、ロゴスの思想家であり、パトスの宗教家であり、エロスの芸術家です。その偉大さを知らぬのは私たち同時代の人間だけで、歴史が瀬戸内寂聴の名前を忘れることはないでしょう。