社会科学で、日本は世界の田舎者。

クリエーティブ・ビジネス塾9「岩井克人」(2016.2.24)塾長・大沢達男
1)1週間の出来事から気になる話題を取り上げました。2)新しい仕事へのヒントがあります。3)就活の武器になります。4)知らず知らずに創る力が生まれます。5)ご意見とご質問を歓迎します。

1、東京教育大付属中・高等学校
中学校の社会科の授業での話。<自宅の平面図を書きなさい>という課題が出されます。ところが書けない、という生徒が続出します。学力がないのではありません。学校は日本を代表する進学校、東京教育大付属(現在の筑波大付属)の中学校。日本で一番優秀な生徒が集まっている学校です。自宅の平面図が書けない、その理由は、自宅に敷地が広すぎる、自宅が大きすぎるからです。教育大付属中学高校は誰もが進学できる授業料の安い学校でしたが、もうそのときには、会社役員、高級官僚、医者、学者の子弟に占領されていました。
岩井克人(1947~)は、アパート暮らしのサラリーマンの子として初めて劣等感を味わったと、当時を振り返っています(『経済学の宇宙』p.14~15 日本経済新聞出版社)。岩井とは東京大学卒、MIT(マサチューセッツ工科大)でPh.D.を取得した、日本を代表する経済学者です。
もうひとつ東京教育大付属には逸話があります。同じ東京大学の経済学部に学び、これまた日本を代表する経済学者、石川経夫(1947~1998)、奥野正寛(1947~)と岩井が東京教育大付属の同級生であったことです。東大の後、岩井はMIT(マサチューセッツ工科大学)、石川はハーバード大、奥野はスタンフォード大に学びます。いくら東京教育大付属ができるといっても、これは出来過ぎです。
2、世界の田舎者
岩井は東京大学卒業の後、MITの大学院に進学します。そして世界を代表する経済学者ポール・サムエルソン(1915~2009)の教えを受けます。1年目に論文を書きサムエルソンに認められ数理経済学の専門誌に掲載されます。そして2年目には研究助手に雇われます。さらに驚くべきことにサムエルソンが出張で大学を留守にするときには、代講を務めるようになります。加えて2年次が終わった夏休みには後にノーベル経済学賞を受賞するロバート・ソロー(1924~)の研究助手になります。
岩井は経済学者としてあっという間に世界の頂点を極めます。3年も経たないうちにMITでPh.D.(博士号)を取得。ソロー教授には若手の理論家を紹介するとアドバイスを受けます。しかし岩井は「傲慢に」そのオファーを断ります。そして、その学者人生は、「頂点」から「没落」を始めることになります(前掲p.78)。
もちろん「没落」は謙遜です。しかし「没落」は真実。岩井は世界のトップから日本のトップに転身しました。
まず岩井は日本を代表する知識人のひとりでした。文芸評論家の柄谷行人、哲学の浅田彰らとの交流がありました。いわゆるニュー・アカデミズムの論客として活躍します。
そしてもちろん岩井は日本を代表する経済学者であり続けました。宇野弘蔵小宮龍太郎、に学び、石川経夫、奥野正寛の終生の友であり、『貨幣論』などの重要な著作を残し、長く東京大学の経済学部教授であり続けました。でも日本のトップは、世界の田舎者としての活躍でしかありませんでした。
3、『日本語が滅びるとき』
岩井のパートナーである小説家の水村美苗(1951~)が衝撃的な『日本語が滅びるとき』(筑摩書房)を出版したのは2008年のことです。水村は、世界は英語の世紀に入った、インターネットとは英語である、そして英語の時代に対して日本は無策である、と宣言します。そして恥ずかしい事例として、国際会議で英語で話せる政治家がいない。さらには、1960年代に駐日米国大使エドゥイン・ライシャワーの話を紹介します。20年ほどに何十人もの日本の閣僚と知り合ったが、知的で真剣な会話を英語で交わすことができたのは、せいぜい3名しか思いつかない(前掲『日本語が滅びるとき』p.273)。
水村美苗の『日本が滅びるとき』は、パートナーの岩井克人に向けて書かれたようなものでした。岩井はいくつもの経済学の論文を英語で書きながら、自らの英語のスピーキングのまずさを、いつも自覚していました。だからタコツボのように、自らの世界を日本に閉じ込めてしまったのです。
物理学の小柴昌俊、医学の山中伸哉は、軽々と国境を越え、ノーベル賞にたどり着きました。社会科学での世界への道はとてつもなく困難のようです。
そういえば、もうひとつの東京教育大付属伝説を忘れていました。日銀総裁黒田東彦(1944年〜)、彼も東京教育大付属駒場出身です(岩井たちは教育大付属「大塚」)。アベノミックスの成功で、日本を救い世界の景気を上昇させることができるならば、世界の田舎者は返上、ノーベル賞ものです。