日本国憲法は改正できない。GHQの勝ち、日本民族の負け。

TED TIMES 2021-5「憲法改正」 2/5 編集長 大沢達男

 

日本国憲法は改正できない。GHQの勝ち、日本民族の負け。

 

1、GHQ

GHQの日本統治の基本コンセプトは明確でした。日本を米国に復讐する国にさせないことです。日本国憲法は、1946年2月2日にマッカーサーGHQ民政局のホイットニーに命令し、正味9日間だけで、2月12日に草案が完成し、それをもとに完成したものです。「日本国憲法9条。①正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。②前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」そしてGHQは、これが改正できないように<憲法改正には、両院議員の三分の二以上の賛成が必要でしかも国民投票過半数が必要である(96条)>と定めました。

2、DUPES

Dupes(デュープス)とは、共産主義者ではないのに、共産主義者を同じことを主張をする人々のことです。デュープスもGHQの戦後統治から生まれました。

日教組の初代代表はマルクス主義歴史学者羽仁五郎です。その教え子が、日本の歴史教育を牛耳り、デュープスを育てました。ややこしいのは、羽仁五郎の教え子が、GHQの内部にもいたことです。

日本国憲法の草案に関わったのはGHQ民政局のチャールズ・L・ケーディス(1906~1991)ですが、その右腕として活躍したエドガートン・ハーバート・ノーマン(1909~1957)は、羽仁五郎に学んだ日本史の歴史学者でした。羽仁はわがもの顔でGHQに出入りしていました。しかしその後、ノーマンはソ連のスパイ容疑がかけられ、1957年に自殺します。

GHQは、言論検閲のCCD(民間検閲局)と、言論統制のCIE(民間情報教育局)を使って、日本の言論をコントロールしました。検閲局(CCD)には、最盛期に8000人以上の日本の知識人(英語ができる)が働き、手紙、電話、電報をチェックしていました。その中には、日本で中心的に活躍するようになる政治家、官僚・公務員、教育者、マスコミ関係者がいました。だれもが、GHQの協力者であることを告白していません。

情報教育局(CIE)は、まず新聞に『太平洋戦史』(GHQの造語)を連載し、日本軍の「サディスティックな」暴走を捏造し、その後の新聞報道のお手本を示しました。つぎに『太平洋戦争史』をもとにラジオ番組『真相はこうだ』を放送します。『太平洋戦争史』を書いたのは、戦前の東大と立大の講師であった情報教育局のブラッドフォード・スミス(1909~没年不明)とされていますが、ケーディス、ノーマンの力もあったと思われます。さらに映画と演劇を検閲では、デビット・コンデ(1906~没年不明)がいました。コンデは忠誠・復讐の映画演劇を禁止し、黒澤明の『わが青春に悔いなし』(1946)で、改変を命じています。コンデは共産主義者で、労働組合の組織し、労働争議を推進しました。しかしGHQは、東西冷戦になって一転、左翼を一掃。コンデも日本に来ていたニュー・ディーラーとともに、GHQを追われます。

3、SPY

もうひとつGHQの戦後統治で大きな力となったものがあります。日本人二世の米国人スパイです。まずジョン・アイソ(相磯藤雄 1908~1987)。アイソは、GHQ参謀2課(G2)の赤狩りチャールズ・ウィロピーの部下です。日系2世としてはじめてハーバード・ロー・スクールを卒業したエリート。アイソはハワイの日系人米国部隊である第100大隊で日系人の諜報語学兵(スパイ)6000人を育て戦地に送り込んだ、スパイの指導者です。GHQの統治は、英語と日本語を操れる日系二世スパイの力を抜きに、語れません。アイソは87年にハリウッドで銃殺される悲劇の死を遂げています。もう一人います。フランク・ババ(馬場正三 1915~2008)です。馬場は情報教育局(CIE)で、NHKの番組の検閲と製作をしました。カリフォルニア州立大学バークレー校卒で、日系二世スパイを育成していました。「話の泉」、「二十の扉」など、戦後のラジオの人気番組を作ったのは馬場です。恐ろしいことに馬場は、70年代のロッキード事件にもNHK関係者を通じて、顔を出します。

日本というのはおかしな国です。ジョン・アイソは勲三等旭日中綬章、フランク・ババは勲三等瑞宝章を受けています。日系二世スパイは、粉骨砕身、臥薪嘗胆、忠君愛国の日本人精神で、<星条旗アメリカ合衆国に尽くした>だけです。それを褒めてどうする・・・。GHQの日本占領政策は成功しました。日本人は憲法改正をできません。保守とデュープスの平和主義リベラルの溝は深まるばかりです。