服部克久、音楽会のサラブレッド

クリエーティブ・ビジネス塾53「服部克久」(2016.12.15)塾長・大沢達男

「服部l克久、音楽界のサラブレッド」

1、盗作
日本を代表する作曲家が、盗作されたと同業の作曲家によって告発される、前代未聞の裁判がありました。1998年(平成10年)のことです。告発されたのは『記念樹』(1992年発表)の服部克久、訴えを起こしたのは『どこまでも行こう』(1966年発表のブリジストンタイアのCMソング)の小林亜星です。
結果は1審無罪。控訴審有罪。最高裁は上告を不受理。服部克久は損害賠償を命じられます。『記念樹』の公の場所での歌唱・演奏はできなくなります。
『記念樹』も、『どこまでも行こう』も、You Tubeにあります。聴き比べてみてください。まあ、よく似ています。素人考えでは、あきらかに「パクって」います。でも裁判となると、微妙です。法律の世界は我々の常識を超えたものがあるからです。
敗訴した服部克久は、「判決には今も納得していない」、「あの判決で後進の作曲家が萎縮しないか心配だ」と、当時を振り返っています。
普通、裁判で敗訴したものは、その活動が制限されたり、何らかのハンディキャップを背負うものですが、服部克久の場合は違いました。勤務していた東京音楽大学客員教授の職を辞することもなく、日本作編曲協会(JCAA)の会長でも、あり続けました(音楽界は判決を無視している)。
服部克久VS小林亜星は、その師、服部良一VS服部正の対決でもありました。
服部良一(1907~1993)は、服部克久に父で、演歌の古賀政男メロディに対して、ブルースとブギウギの服部サウンドで日本の歌謡曲の二大潮流のひとつを形成した、偉大な作曲家です。服部正(1908〜2008)は、クラシック音楽の大衆化に務め、ラジオ体操第1の作曲家で知られています。
2、サラブレッド
服部克久は、「蘇州夜曲」、「東京ブギウギ」、「青い山脈」の有名な作曲家服部良一の息子として生まれ、日本の音楽界のサラブレッドとして育ちます。
まず幼少期から自宅に流れるジャズを聴き、父の作曲の現場にいて、出来上がりの新作を聞かされていました。そして6歳からピアノを始め、小学校時代は父の事務所あった銀座に通い、日劇の楽屋を遊び場にしていました。笠置シヅ子榎本健一灰田勝彦淡谷のり子などの芸能人に「坊や、坊や」とかわいがられました。ジャニーズ事務所ジャニー喜多川メリー喜多川とも旧知の仲でした。
中高は成蹊学園、オーケストラでトランペット、ジャズバンドでピアノを経験し、編曲を始めます。さらに大学はパリ国立音楽学院(コンセルバトワール)、なんと1955年に船で、神戸から1ヶ月をかけてフランスに渡っています。無事に合格したコンセルバトワールではアンリ・シャラン先生に学びます。
この経験が後になって大きくモノを言います。何と、「シェルブールの雨傘」などのフランスの大物作曲家ミッシェル・ルグランが同門で、3年ほどの先輩だったことがわかり、親友になってしまいます。そして「ゴッドファーザー」のニーノ・ロータや、フランク・プールセル、ポール・モーリア、レイモン・ルフェーブル、さらには「ティファニーで朝食を」のヘンリー・マンシーニとも友人になります。
こんな音楽家は日本にいません。服部克久は友人関係で世界の音楽界を制覇したようなものでした。
3、アレンジャー
アレンジャー(編曲家)の仕事はちょっとわかりにくい。服部克久の仕事もよく見えない所があります。
まず服部克久は「ダークダックス」の仕事をしています。コンサートに編曲とピアノで参加しています。意外にも、ジャニーズ事務所の「少年隊」とも童謡のアルバム制作の仕事をしています。
そして歌謡曲では、「石原裕次郎」と深い信頼関係にありました。「五木ひろし」の音楽監督、「山口百恵」の引退公演の音楽監督もやりました。
代表作は「谷村新司」の「昴(すばる)」でしょう。イントロのホルンの響きが印象的です、谷村は初め難色を示しましたが、結果は大成功でした。♫われは行く♫のところの、マーチ風のアレンジもいい。
服部克久の息子、服部隆之は父と同じパリ国立音楽学院を出て、NHK大河ドラマ真田丸』の音楽手掛けました。孫の服部百音(もね)は、バイオリニストで、国際コンクールで相次ぎ優勝しています。
サラブレッドは、立派な子孫を残し、日本の音楽界のレジェンド(伝統)になろうとしています。盗作事件はちょっと余計でした(「私の履歴書服部克久 日経11/1~30 を参考にしました)。