「GHQが書いた『太平洋戦争史』を読む」

クリエーティブ・ビジネス塾28「太平洋戦争史」(2017.7.10)塾長・大沢達男

GHQが書いた『太平洋戦争史』を読む」

1、太平洋戦争
あなたは先の戦争をなんと呼んでいますか。日本が戦ったのは「大東亜戦争」です。にも拘らず、新聞は「太平洋戦争」としか書きません。「大東亜戦争」というと、街宣車に乗った右翼に勘違いされかねません。
それどころか、戦前賛美の国家主義者、軍国主義者と烙印を押されます。恐ろしい話です。
「太平洋戦争」とはGHQ(占領軍)が日本人に押しつけた言葉です。マスコミ、教科書から「大東亜戦争」は消え、「太平洋戦争」に書き換えられ、私たちは心も頭もGHQによって占領されてしまいました。
『太平洋戦争史』(GHQ/SCAP/CIE 連合国総司令部民間情報教育局資料提供 呉PASS復刻選書7 呉PASS出版 復刻平成27年6月10日 原著昭和21年3月30日 高山書院)は、連合国軍の占領下にあった日本で、1945年(昭和20年)12月8日より10回にわたりGHQ記述として全国の新聞紙上に連載された宣伝記事です。「太平洋戦争」という用語がここで初めて使われ、「大東亜戦争」は否定され、日本人が強制されて使うようになりました。
2、日本政府と日本人の犯罪
「日本の軍国主義者が国民に対して犯した罪は枚挙の暇がないほどであるが、そのうち幾分かは既に公表されているものの、その多くは未だ白日の下に曝されておらず、時のたつに従って次々に動かすことの出来ぬような明瞭な資料によって発表されて行くことになろう」(前掲p.15)。
『太平洋戦争史』はまず、軍国主義者と国民の対立という構図、つまりマルクス主義階級闘争の歴史のようにして、「大東亜戦争」を書き始めます。
第2の特徴は、日本人を暴力的な野蛮人・未開人扱いにして、記述していることです。
「(南京で)婦人達も街頭であろうと屋内であろうと暴行を受けた。暴力に飽まで抵抗した婦人達は銃剣で刺殺された。この災難を蒙った婦人の中には60歳の老人や11歳の子供達までが含まれていた」(p.55)
「パターン並にコレヒドールで降伏した米比軍捕虜は悪虐なる「死の行進」を行わさせられ、私物まで剥ぎ取られ食物の与えられず、殴られ刺殺され、彼等が精力つき果て道に倒れた時には射たれ、日本軍のトラックや戦車に轢かれ、日本の金を持っておれば打首にされ、焼けつく様な日光にさらされ生き埋めにされたりした。日本軍の獣性は(中略)彼等の残虐性の焔は盛に燃えさかったのである」(p.81~82)。
「日本のテロリズムはパシグ河の南岸殊にパコ、エルミタ、シンガロン区では殆んど先例のない程のひどさであった。ここでは全滅の運命にあった日本兵の狂気の如き群れは米国人であろうと比島人であろうと男、女、子供の区別なく、やたらに斬りまくり殺害するという惨虐を敢てした」(p.122)
事実はどうであったか。ここではその検討をするのが目的ではありません。
みなさんは読んでいてどう思いますか。
『太平洋戦争史』は日本への人種偏見、人種差別の観点から書かれています。『菊と刀』と同じです。
3、誰が書いたか
「『真相箱』の呪縛を解く」(p.45 櫻井よしこ 小学館文庫) によればCIEの企画課長スミス・ブラッドフォード(ブラッド・フォード・スミス 1909~)だろうということになっています。ブラッドフォードは昭和9年から11年まで、東大、立教大学で講師を務め、昭和16年から20年まで戦時情報局員(ルース・ベネディクトと同じ)でした。戦時中は紙爆弾(ビラ)を作成し、対日放送で心理戦争に従事していました。戦後にCIE(民間情報教育局)に勤務するために再来日したことになっています。
しかしGHQには『太平洋戦争史』を書けるような人材がほかにもいました。エドガート・ハーバート・ノーマン(1909~1957)です。宣教師の子供で軽井沢生まれ、トロント大学ケンブリッジ大学ハーバード大学で学び、日本では羽仁五郎に学んだ日本史歴史学者です。英国情報局保安部はノーマンを共産主義者と断定、ノーマンはソ連のスパイの疑いをかけられ、1957年に自殺しています。
さらにいます。ノーマンを右腕として使っていたチャールズ・L・ケーディス(1906~1991)です。マルクス主義者で日本国憲法の9条を起草しました。
そしてもうひとり羽仁五郎。1945年12月に日教組の原型である教員組合をGHQの指導により結成した羽仁五郎は、GHQのお気に入りで、占領軍のあたりをうろついていました。
「太平洋戦争」には占領軍の洗脳だけでなく、日本人の裏切り者がいることを忘れてはなりません。