クリエーティブ・ビジネス塾44「ガダルカナル」(2019.10.29)塾長・大沢達男
『失敗の本質』に、改めて学ぶ。
1、ガダルカナル
ガダルカナル島はオーストラリア大陸の右上、ほとんどオーストラリア、四国の1/3ほどの小さな島です。海軍は米豪遮断作戦のために、飛行場の建設に取り組んでいました。
ミッドウェー海戦で勝利した米軍は、反攻の第1弾としてガダルカナルを選びました。
1)島には海軍陸戦隊の150人と人夫2000人が飛行場を建設していました。1942年8月7日、1万3000人の米軍がガダルカナル島に上陸し、島は奪われます。大本営はわずか2000人の一木支隊に島の奪回を命じます(大本営は米軍を2000名と間違って判断していた)。一木大佐は自決。負けます。
2)つぎに日本軍は第1回総攻撃をします。8月20日には米軍は日本軍が建設した飛行場を使い始めます。ガダルカナル島への兵員、武器、糧食の輸送は大型輸送船では不可能になります。苦心の輸送で、9月7日までに、陸軍5400人、海軍200人、糧食2週間分、兵器弾薬が陸揚げされます。対する米海兵隊は1万6000人。9月12、13日の戦いで日本軍は負けます。帝国陸軍不敗の思想はつまずきます。
3)そして第2回総攻撃。壮大な計画を立てます。10月14日、歩兵1万7500人はどうにか上陸しますが、糧食は30日分の1/2、弾薬は1~2割程度しか陸揚げできませんでした。10月23日、総攻撃の1日前に作戦変更を進言した川口少将は更迭されます。統帥の混乱、情報の錯綜、日本軍は敗北します。
4)1943年1月4日、大本営はガダルカナル島撤退を命令します。2月1、4、7日に撤収。投入された日本軍将兵は3万2000人、戦死1万2500人戦傷死1900人、戦病死4200人、行方不明2500人。対して米軍の参加将兵は60000万人、戦死者1000人、負傷者4245人、餓死ゼロ。明らかな敗北です。
2、なぜ負けたのか
1)海兵隊・・・恐るべき事実があります。ガダルカナル島が米軍に占領されたという知らせが入ったときに、大本営陸軍部内にその名「ガダルカナル」を知っているものは、1人もいませんでした(『失敗の本質』p.110野中郁次郎他 中公文庫)。陸軍の主力は中国・インドでした。太平洋はあくまでも海軍の担当でした。陸・海軍バラバラの日本軍に対して米軍は「海兵隊」を発明し、水陸両用作戦を展開していました。
2)歩兵操典・・・大本営は「白兵銃剣主義」、「艦隊決戦主義」の古い考え方に縛られていました。日露戦争での成功体験です。陸軍『歩兵操典』(明治42年)の「戦闘二最終ノ決ヲ与フルモノハ銃剣突撃トス」は大東亜戦争の敗北まで墨守されていました(『失敗の本質ー戦場のリーダーシップ篇ー』p.312野中郁次郎編著 ダイアモンド社)。陸軍の兵站への考え方は、補給は敵軍から奪取もしくは現地調達でした。さらに海軍の主要目的は米軍海軍機動部隊撃滅で、補給物資輸送の護衛に艦艇を使うものではありませんでした(『失敗の本質』p.137)。
3)敗戦の本質・・・日本軍での人事システムでは学校での成績が重視されていました。優等生たちは現場を知らず、現場に行こうともしませんでした。ガダルカナルの惨状を知りませんでした。握り飯ひとつにありつけない同胞を見捨て、兵站と情報での敗北を無視しました。机上で戦略を論じていました(山本五十六は、たびたび米国を訪れ国力を知り、苦肉の策としてハワイを見て真珠湾攻撃作戦を立案している)。
つぎに陸軍と海軍の対立は積年の伝統で深刻でした。双方が面子を重んじ、弱音、撤退は禁句でした。そして戦争をやめることができず、最後の破滅まで進みました。さらにガダルカナルでの川口少将の罷免に見られるように、現場での合理的な判断は、「健在主義」、「卑怯者」と否定され、突撃、玉砕が奨励される組織文化がありました。
3、第2の敗戦
東日本大震災に付随する福島第一原発事故は、官邸と東電が危機対応リーダーシップが発揮されない、国家の危機管理体制が機能しない、人災でした(『失敗の本質ー戦場のリーダーシップ篇ー』p.ⅴ)。
当時の菅直人首相は、原発事故後に自らの母校・東工大の卒業生名簿をあたり原発専門家を捜しました(学歴重視のエリート主義)。つぎに原発事故現場におもむき、「俺は原発の基礎的なことは知っている」と専門家を恫喝しました(現場無視のイデオロギッシュな反原発主義)。そして復興会議では、コンセプトすら提示できず、問題をメンバーの丸投げしました(具体的な提案のない批判主義)。
菅直人首相は、「いま」「ここ」の現実に向き合えず、ダイナミックな危機対応ができなかった日本軍に酷似しています。 そして日本は「第2の敗戦」をし、日本の滅亡を加速させました。