クリエーティブ・ビジネス塾44「6人の日本人②」(2018.10.22)塾長・大沢達男
4、松尾芭蕉(1644~1694)
西行も、兼好も出家しました。芭蕉も出家こそしませんでしたが、世を捨て、放浪しました。出家とはいったん死ぬこと。「死んだつもり」で生きる。虚飾を切り捨て、人間の本当の生き方を見つめようとしました。
「わび(る)」とはいったん死ぬことで、「わびしい」とは死んだような気持ちになることです。
「さび」とは、何の飾りもない本体だけの状態です。錆び付くぐらい徹底的に、余計な物を捨てた状態です。
芭蕉の創作のキーワードである「さび」と「軽み」、「不易」と「流行」は、日本人の調和する力です。
寂寥の極みと軽快な心、不変の重みと移り変わる物の姿、矛盾をよしとて尊重しました。
中国の中華思想は、ほかの国のものを取り入れません。芭蕉は反抗の人、日本の人でした(『日本人の忘れもの2』p.6,p.224 『日本人の忘れもの3』p.78,p.87,p.97)。
「円柱の 下ゆく僧侶 まだ若く これより先 いろいろの事があるらむ」 斎藤茂吉
5、福沢諭吉(1835~1901)
福沢諭吉は経験や勘、習慣や常識だけの尊重を「無学」としました。万物の学理を「物理学」とよび、物理学をもつことが文明で、習慣に従って生活するのではなく、ものの仕組みと仕掛けを考えることを奨励しました。文明開化のチャンピオンのような福沢諭吉は、西洋文明一辺倒の人ではありませんでした。
まず福沢は空想とか霊怪を尊重していました。「空想は実行の原素なり」。心の中の空想が事実を生むと信じました。合理主義に反抗しました。つぎに実学。実学とは漢学とは反対のものです。まわりくどくて実情にあてはまらない空論ではなありません。人生の目的を達成する学問です。漢学に反抗しました。さらに学校の中だけの学問、応用だけの学問を嫌いました。「浮世の物事を軽々しく見過ごしてはいけない」と諭しました(3- p.198)。アカデミズムに反抗しました。
「日本脱出したし 皇帝ペンギンも 皇帝ペンギン飼育係も」塚本邦雄
6、岡潔(1901~78)
岡は「日本人は情の人である」を断言しました。中国人、印度人、西洋人はみな、知、知、知、知を基にするが、日本人は情の人だと反抗しました。
まず岡は、「情にそむくことが不道徳だ」といいました。
つぎに「存在を与えているものは情だけ」としました。考えあぐねての理解より、感動したものの方が心に残る。「散る花、鳴く鳥、見止め、聞き止めざれば留まることなし」の芭蕉の言葉を例証としてあげました。「見止め聞き止める」とは、情で見極めることで、存在して消えない。
そして結論。日本人は情の人である。涙もろかったり、情念的にばかり行動して、合理性のない人間が日本人ではありません。物に対する感動を生み出し、長く感銘を記憶しつづけることで、その物を存在させる情緒をもつ人間、それが日本人です(3-p.225~9)。
「海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す 屍 大君の 辺にこそ 死なめ かへりみはせじ」大伴家持
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なぜ、日本の悪口を言えばインテリ、なのか。それは、戦後の占領軍による言論統制の成果です。「天皇制ファッシズム」が戦前の諸悪の根源であるとする、戦後の「平和と民主主義」教育の成果です。「天皇制ファッシズム」とは共産主義運動の用語です。その象徴的な存在である羽仁五郎は、共産主義者として占領軍GHQと協力し、日教組の前身を組織しました。1970年代に羽仁五郎は、その著『都市の論理』で、学生運動闘士のヒーローになります。なぜ学生たちが、裏切り者を崇拝するような、バカなことをしたか。GHQの言論統制統制と共産主義者の協力の実態が明らかになっていなかったからです。偽りの「平和と民主主義」を暴露したのは、1980年代の『閉ざされた言語空間』(江藤淳)です。つまり団塊の世代は、間違えた「平和と民主主義」教育そのままで成人し、社会に出ています。
日本の悪口を言うインテリとは、戦後の「平和と民主主義」者のことです。中西進は日本に味方しながら、国粋主義者になることを避けるために、天皇と皇室について触れません。
6人の日本人。天照大神、紫式部、本居宣長、松尾芭蕉、福沢諭吉、岡潔。もちろ天照大神は神様ですが、6人はみな反抗の人であったことが分かります。情の反抗、ロマン的反抗でしょうか。日本