『カラマーゾフの兄弟』の嫌い!と、好き!

クリエーティブ・ビジネス塾31「ドストエフスキー④」(2017.7.31)塾長・大沢達男

「『カラマーゾフの兄弟』の嫌い!と、好き!」

1、嫌い
文豪の作品についてあれこれ言うのは気が引けますが、好きや嫌いは言ってもいいでしょう。
まずミーチャ(カラマーゾフ家の長男)が熱を上げたグルーシェニカとカテリーナが好きではありません。
グルーシェニカについては、文章のデッサン力のところで、ドストエフスキーの技術を頭を下げましたが、「好き」はあれでおしまいです。ミーチャがグルーシェニカのどこに惹かれたのか。グルーシェニカはミーチャをどのように愛したのか。どんな性を楽しんだのか。わかりません。カテリーナもおなじです。どういう人なのかは、わかります。でも、息づかいがわかりません。ドストエフスキーは女を描くのが下手です。
つぎは「少年たち」です。これは逆に上手すぎます。でも「少年たち」の残酷趣味が嫌です。読みたくない。
<深夜、11時の列車が通過するときにレールのあいだにうつぶせになり、列車が全速力で走り抜ける間、身動きせずにがまんしとおしてみせる>(『カラマーゾフの兄弟④』p.15)
そして動物イジメ。少年たちはそういうことをするのでしょうが、たとえ小説の中でも、聞きたくありません。
しかし「少年たち」は、小説の重要なプロットです。ぼくが嫌い!とほざいたところで、消し去るわけにはいきません。「少年たち」は小説のエンディングで主役を演じます。そしてそれがいい。そこは「好き」です。
もうひとつの嫌いは、裁判のシーンです。小説のクライマックスが嫌いなんて、身もふたもないのですが、嫌いは嫌いです。刑事裁判はどこの国でも同じです。事実(証拠)をもとに犯罪を証明する。数学の証明問題と同じです。検事の論告と弁護人の弁論。ディベートです。でも所詮言葉の遊びです。社会の安全圏内の人々が、危機に遭遇している人の困難をのぞき見して、あーでもない、こーでもない、推理して人の不幸を喜ぶ、極めて下品な楽しみに過ぎません。
素人考えですが、検察官はなぜ殺された父親の死体検案書を提出していないのでしょうか。死因は何か。凶器は何か。凶器に付着していた血液型は何か。それがわかれば何も争うことはないと思いますが。
2、好き
同じディベートでも、神はいるのか、いないのかのディベートは「好き」です。幻覚症のイワンのもとに、実在しないロシア紳士が現れ、無神論者のイワンと議論する「悪夢。イワンの悪夢」のシーンです。
<いったん、人間が一人残らず神を否定すれば(中略)おのずから今までの世界観や、肝心かなめの過去の道徳はすべて崩壊し(中略)人間は、神のような、巨人のような誇りの精神によって称えられ、人神(じんしん)が出現する。(中略)1時間ごとに快楽を経験することになる。(中略)かつての天国での喜びに対するすべての期待にとってかわる>(p.393~4)<人はいずれ死ぬ身であって、復活はないことを知る。(中略)自分の兄弟を、もはやいっさいの報いなしで愛するようになる>(p.394)
「大審問官」のシーンと同じ。ドストエフスキーはやはりドストエフスキーです。神はいるか、いないかのディベートは精緻。ただし、コチトラは、大和の益荒男。「神」についてなんて、考えたことがない。日本の文学者も評論家は、ドストエフスキーはすごいと評価しますが、日本人はいつも神の存在を問うているでしょうか。みんな嘘つきの見栄っ張り。食べ慣れないロシア料理、西洋料理をおいしそうな顔をして食べるだけです。
つぎの「好き」は、少年たちが登場する「エピローグ」、『カラマーゾフの兄弟』のエンディングです。
<パパ、ぼくのお墓に土をかけるときは、パン屑もまいてね。スズメが飛んでくるようにね。だってスズメが飛んでくるのが聞けたら、ぼくは一人じゃないんだってわかって嬉しくなるもの>(『カラマーゾフの兄弟⑤』p.48)。これは幼くして死んだイリューシャの言葉です。
そして「少年たち」はイリューシャの墓前で誓います。<まず、第一に、善良であること、次に、正直であること、それからけっしておたがいを忘れないこと>(p.60)
3、ロシア
神がいるかいないか。父を殺すか。皇帝を否定するか。そのバックグランドにはいつもロシアがあります。
<おれはロシアを愛しているんだ、アレクセイ、おれ自身はたとえ卑怯者でも、 ロシアの神を愛しているんだ>(p.31)。これは有罪が決まったミーチャの言葉です。
ドストエフスキーは『カラマーゾフの兄弟』を通じてロシアの未来をテーマにしています。美しい。「好き」です。もし、日本の小説家が、<おれは日本を愛しているんだ>と書いたら、たちまち三流扱いされます。私たちの祖国は、なぜ、こんな国になってしまったのでしょうか。