クリエーティブ・ビジネス塾30「伊勢神宮」(2018.7.23)塾長・大沢達男
ライトで始まった青春は、丹下健三を経て、伊勢に向かう。
1、フランクライド・ライト
僕たちは銀座が好きでした。なかでもフランクロイド・ライトが設計をした旧帝国ホテルはデートコースに中心にありました。池の囲まれた庭を通り、ホテルのフロントに入って行く、粗末な身なりの学生はいかにも奇妙でした。それでも青春はそんなことを知りません、気にしません。僕たちは堂々とロビーに座ったものでした。そこでは帝国ホテルを住居にしていたオペラ歌手藤原義江も呆然と天井を見上げていました。
僕は1968年に広告会社電通にクリエーターとして入社します。新入社員はグループに分かれ社長と帝国ホテルで会食をします。悲しいかな休館はすでになく新館でした。そして電通社員の僕たちは帝国ホテルの新館で昼食をとりお茶を飲み、レインボーラウンジで打ち合わせをするようになります。
もうひとつあります。駒沢の電通社員寮とグランドがある「八星苑」です。そこは旧帝国ホテルの設計をライトに依頼した帝国ホテルのオーナー林愛作の自邸でした。「八星苑」もライトが設計しました。僕たちは休日になると「八星苑」に出掛け、野球をし、ライトが設計したリビングルームでビールを飲みました。
「建築の日本展」(森美術館4.25~9.17)には、旧帝国ホテルのた大谷石の柱の一部が展示されていました。それは建造物の一部ではなく、彫刻、芸術品でした。僕たちは青春に再会しました。
2、丹下健三
1968年に電通入社に僕たちは丹下健三設計「電通築地ビル」の第1期生でした。ビルは傑作でした。
まず造形。細胞を横に縦に並べたような構成になっています。ビルは生命体として、左右に上下に、発達し成長して行くように構想されています。情報通信のネットワークを増殖させて行くイメージの具現化です。
そして発展性。電通築地ビルは「東京計画1960」という都市計画の一部として設計されています。皇居から東京湾に伸びる未来東京の都市軸、その一部の築地再開発計画のなかに電通築地ビルがあります。
さらに日本列島での東京の位置づけ。東京は名古屋から大阪へとつながる東海道メガロポリスの東の起点に位置づけられています。その東京の細胞の一部としての電通築地ビルが位置づけられています。
丹下健三の評価はすでに1964年の東京オリンピック、代々木体育館で決定づけられていました。巨大な吊り天井を持つ二つの生命体のような建造物は、東京のランドマークとして世界に評価されていました。
ただこの実現には田中角栄という政治家を忘れることができません。建築予算オーバー、設計変更を求められた丹下健三は田中角栄に泣きつきます。設計変更などできない。電話を受けた田中角栄はただひと言「よっしゃ!」で、建設を実現させます。2020年東京オリンピックの新国立競技場の設計コンペの体たらくを見よ。ザハ・ハディト案はコンペに勝ちながら予算オーバーで実現していません。日本は革命ではなく滅亡を選びました。隈研吾案は、美しい。しかしそれが何の意味を持つというのでしょう。
丹下健三はその後、東京都庁新庁舎の設計コンペで勝利し(1986年)、再び時の人になります。しかしこの設計コンペの真の勝利者は磯崎新です。丹下を始め各社が超高層ビルを提案した中で磯崎はただひとり100m以下の低層ビルを提案しました。上から目線の行政は終わり。磯崎は時代の寵児になりました。
「建築の日本展」では、現存しない丹下健三自邸(1953年)の巨大模型が展示されています。僕はなんどか成城の自宅の周辺をうろついたものです。境界線のない築地(ついじ)越しに建物の様子をうかがっていました。これが丹下健三の家だ。そして今回その全貌を見て、直感、これは酋長の館だ。その通り。丹下は戦後の日本をけん引したリーダーでした。丹下の登場で、歴史的決定論のマルクス主義は粉砕されました。社会の運動法則などはない。人間は未来を設計する。丹下はまさに日本の青春のリーダーでした。
3、伊勢神宮
丹下健三の代々木体育館のとなりに明治神宮があります。二つの地域は何の違和感もなく共存しています。丹下作品はパンクで、アグレッシブ。しかし伝統的な何かがあります。もちろん明治神宮も同じです。米国からの旅行者ふたり案内し、明治神宮の玉砂利を歩いたとき、饒舌な彼らが黙りました。ここにはどなたかがいらっしゃる。神聖ななにかがある。
「建築の日本展」の白眉は、伊勢神宮です。ドイツ人の建築家ブルーノ・タウトは、伊勢神宮は神からの賜り物だ、と表現しました。武士の後、出家し、仏の道にあった西行は、伊勢神宮に参り、感動します。僕たちもまた、新しい青春のために、伊勢神宮にお参りします。
「なにごとのおわしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」西行(1118~1190)