北斎も太宰も、富士には、ちょっとテレていますね。

TED TIMES 2020-42「葛飾北斎」 6/28 編集長大沢達男

 

北斎も太宰も、富士には、ちょっとテレていますね。

 

1、葛飾北斎

東京の下町生まれで、『富嶽36景』と『富嶽百景』、たくさんの富士山を描いた葛飾北斎(1760~1849)は、日蓮宗徒だったからでしょうか、富士山信仰があります。

富嶽36景』の最後に「諸人登山」(しょじんとざん)があります(『富嶽36景』は36枚の版画ですが、好評のために、10枚が追加されています。最後とは46枚目ということになります)。この絵にはお馴染みの裾野が広い富士山がありません。なぜなら、山頂の絵だからです。富士信仰のグループが火口を巡るお鉢回りをしています。北斎が生きていた頃には、富士山信仰のグループ「富士講」の活動が、江戸庶民の間で盛んになります。行衣を身につけ登山し、修行します。江戸の市中では「富士塚」というミニ富士を造り、お参りする風習も生まれました。

「庶人登山」の絵には、狭い岩室に閉じこもっている人が描かれています。これは、室町時代長谷川角行(かくぎょう)が富士の麓の洞窟(胎内)にこもり、商売繁盛、難病平癒、家内安全、夫婦和合の富士講の経典を作った、荒行にならったものです。さらに江戸初期の食行身禄(じきぎょうみろく=伊藤伊兵衛)はもいます。男女・四民の和合、世直しを説き、富士の7合5芍の烏帽子岩(えぼしいわ)で31日間の断食をし、富士講の江戸庶民に大きな影響を与えました。

富士山は神様の山でした。「富士山本宮浅間大社(ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ)」に、富士山の活動を鎮める神で、神武天皇の先祖に当たる木花咲耶姫(このはなさくやひめ)が、祀られてます。

北斎は『富嶽36景』に続いて『富嶽百景』を残し、その中でも、富士講を描いています。登山する人々を描いた「不二の山明ケ」、「辷り(すべり)」、岩室にこもる人々を描いた「不二の室」、そして山頂でお鉢巡りをする「八界廻り(はっかいめぐり)の不二」です。

2、絵画の発明

北斎は富士山信仰によって富士山を描き始めましたが、人々の暮らしを描く力、自然を描く力、馬・籠・船を描く力で、絵画を発明しました。最大の魅力はデザイン力です。北斎は描写のふりをして、ありえない景色をコラージュし、構成しました。写実ではありません。あくまでもデザイン優先のイラストレーションです。

例えば、『富嶽36景』の32、「甲州三坂水面(こうしゅうみさかのすいめん)」、御坂峠から富士を描いたものです。この絵の中で北斎は3つの嘘をついています。まず御坂から河口湖と富士は一緒に見えない、次に水面に写る富士を描いているが対称に描かれていない。さらに夏の富士なのに水面の富士は雪をかぶっている。こうなってくると、富士山信仰なんてどうでもいい。冨士は単なる表現素材にしか過ぎない。あるとすれば、芸術信仰です。

さらに、北斎マーケティングで絵を描いています。江戸時代においても、絵が売れるか売れないかは、重大な問題でした。富士を描くのは売れ線でした。だから北斎は過去の作品の真似をしています。不易です。そこに流行、受け線を加えました。不易に学び流行を加える、というヒットの法則。これは後にパブロ・ピカソにより実行されています。加えて、北斎はパンクです。絵の中に、版元のロゴを入れて、永寿堂・西村屋与八の宣伝をしているんですから(「東海道吉田」、「相州仲原」)。

3、太宰治

<(富士の)青い頂きが、すっと見えた(中略)げらげら笑った。やっていやがる、と思った><東京の、アパートから見る富士は(中略)クリスマスの飾り菓子である><ここから見た富士は(中略)好かないばかりか、軽蔑さえした>。いずれも小説『富嶽百景』の太宰治による富士の描写です。小説の中の主人公は、小説を書くために、御坂峠に滞在しています。御坂峠からの描写です。先ほど触れた北斎甲州三坂水面」です。

太宰は富士をどう思っていたのでしょか。もちろん<御坂の富士も、ばかにできないぞと思った><富士山、さようなら、お世話になりました>の叙述もありますから、決して、否定ばかりではありません。

この小説の中で、太宰は<富士には月見草がよく似合う>の有名な叙述を残しています。この言葉は、どうも好きになれない。きっと富士山は太宰にとって小説の神様なのでしょう。その前で、自分は月見草のように、健気に咲いて見せる。鴎外や漱石のようにひまわりの大輪の花を咲かせることはできないが・・・。すがったのでしょう。それにしても、太宰は富士に対して、どうも、お茶目です。