THE TED TIMES 2022-12「下北沢」 4/7 編集長 大沢達男
シモキタ名誉市民にしたい男3人と、シモキタが産むはずだったロックシンガーの話。
1、シモキタ
高校から大学まで「祖師谷大蔵」、銀座にある会社に就職して20年間は「町田」、そのあとから現在まで「新百合ヶ丘」に住んでいます。
通学、通勤、遊び、買い物、食事・・・いつも生活には下北沢(シモキタ 筆者注:実は世田谷区民はあまり「シモキタ」とは言わない)がありました。
その下北沢を日経新聞が正面切って「シモキタ物語」(日経3/21~24)というタイトルで取り上げました。
約1平方キロに10以上の劇場、約30のライブハウスがひしめく「サブカルの街」。
朝刊の最終面の3分の1を使っての4回シリーズですから、堂々たるものです。
しかし、地元にいたものとしては、物足りない。で、私自身のシモキタを考えてみました。
2、マサイさん
まずシモキタといったらマサイさんです。
映画館オデオン座(いまはフィットネス・クラブ)と小田急線をはさんで反対側の2階に「ZEM」というソウル&ブルースのバーををやっていました。
大きなテーブル席と、2~3の4人席。だれかの家みないな気楽な感じで、東京に来た関西ミュージシャンが集まっていました。
70年代です。もちろん店主が「マサイさん」という名前だとは知りませんでした。
B.B.キング、フレディ・キング、アルバート・キング、そしてオーィス・クレイ、シル・ジョンソンが流れていました。
私はブルースでなく、ソウルが好きでした。きっかけは鶴間のディスコ「シルバースワン」。
ヴェトナムに行く(そして二度と帰ってこない)黒人兵が集まり、六本木にも新宿にも渋谷にもない、米国から直送された最新のダンスナンバーがかかっていました。
そして日本のソウルミュージックの評論家としてはNo. 1の桜井ユタカさんがやっていた「soul on」のファンクラブにも入っていました。私はソウルに関しては「うるさい」つもりでした。
「ZEM」のマサイさんとは、その後、渋谷のエピュキラスでやったハープの「妹尾さん」のイベント、下北の「ロフト」で山岸淳史さんのライブで、お見かけし、顔見知りになっていきます。
「ウエスト・ロード・ブルース・バンド」の「永井・ホトケ・隆さん」と親しいこともわかってきました。
やがて「ZEM」はなくなり、しばらくしてマサイさん「デルタ・ブルー」を始めました。
1番街の角の3階か4階、カウンターとちょっとのテーブル席、あきらかに戦線縮小でした。
顔見知りになってきたマサイさんに、私のソウルのレコード100枚ぐらいを買ってくれないか、と相談を持ちかけたことがあります。関心を示してくれましたが、金を持っていなかったようです。
そのあと駅前にあった戦後のドサクサのような焼き鳥やでお見かけしたのが最後で、区画整理とともにマサイさんも街から姿を消しました。
関西ミュージシャンをシモキタに呼んだのはマサイさんです。ロックの源流になる、ブルースやソウルを東京の若者に根付かせたのは、マサイさんの功績です。
マサイさんとは、正井芳幸(2015年、62歳で没)さんです。
3、マッチャン
次にマッチャンです。本名は知りません。多分亡くなった、と噂で聞きました。
「ベルリン」というお店を、さっきのフィットネスクラブ(オデオン座)の真前の2階で、やっていました。
カウンターに6~8席、二人用のテーブル席がひとつ、狭い店でした。
パンク、テクノ、ハウスの最先端を突っ走っていました。「テレビジョン」、「ディーボ」、「トーキング・ヘッズ」の時代、70年代の終わりから80年代です。
マッチャンは町田に住んでいる普通の日本人でしたが、「ベルリン」は国際的でした。
ベルリンに行くという若者を「ベルリン」で見送ったことも、ベルリンから帰っていた若者を「ベルリン」で出迎えたこともあります。
マッチャンは、世界雄飛するテクノ少年・少女たちの兄気分でした。
「ベルリン」はその後、「鈴なり横丁」のなかにお店を移動します。しかしそれは「ベルリン」の終わりの始まりでした。
間もなく閉店し、マッチャンもシモキタから姿を消します。
4、モッチ
モッチ(望月さん)は、「戦国焼き鳥」の斜め前の2階で、ロック・バー「juice(ジュース)」をやっています。
カウンター席4人、テーブル席に4~5人の小さな店です。音楽はロック、テーブル席にファミコンが置いてあり、プレーできます。
マサイさんマッチャンより若い、モッチと同じ世代(40代)の、音楽関係者が集まる店です。
「最近のロックはあまりわかんないんですが・・・」、私の質問に対して、「大丈夫です。レッチリ、U2、ラディオ・ヘッドで、この20年何も変わっていませんから」、と即座にモッチは答えてくれました。
モッチは、ロックギターをやります。映画『ボヘミアン・ラプソディ』のときに、いろいろ解説してもらいました。
お店の壁にはオサマ・ビン・ラディンのポスターが(なぜか)飾ってあり、カウンターの正面には小さな忌野清志郎の写真があります。
モッチはキヨシロウも、チャー(竹中尚人)も、クワタ(桑田佳祐)も好きです。
突然、井上陽水を流してくれた時には感激しました。つまり、音楽が好き、趣味がいいんです。
「juice」にあがる階段の壁に、「talking heads」などのレコードジャケットが飾ってあります。それにつられたか、思わぬ外人が客としてきます。
この間は、英語を話せるいい女、実はハンガリーの人が来ました。
「なぜこの店に?」、「タトゥーを入れに、シモキタに来たの。その帰り」。
モッチは、音楽で世代を超え、国境を越えています。
5、マサコ
下北沢が音楽の街になったのは、ジャズ喫茶「マサコ」(1953~2009)があったからです。
「マサコ」は、新宿の「DIG」にも、横浜の「ちぐさ」にも負けない、ジャズ喫茶でした。
まず「マサコ」は大きかった。3つの大きなスペースがありました。それぞれに10人ぐらい入れるのに、ゴチャゴチャしていました。
それというのも猿がいたからです。猿が放し飼いにされていました。
つぎに本物のジャズ。大きなスペースに大きなスピーカー。レコードのコレクションも豊富でした。
私はガキでしたから、ジョン・コルトレーンだけでしたが(問題ありませんが)、プロのミュージシャンも来てさまざまなプレーヤーの演奏の勉強していたのでしょう。
チャーリー・パーカー、セロニアス・モンク、リー・モーガン・・・。
本物のマサコさん(奥田政子1984年没)もお店ではお見かけしたことがあります(すごいでしょう!)。
「マサコ」は、ジャス喫茶のなかのジャズ喫茶で、まだ人通りに少なかった下北沢でも、独特の個性を持っていました。
「マサコ」が作った下北沢のDNAから、マサイさん、マッチャン、モッチの店が、そしてたくさんのライブハウスも生まれたのだと思います。
「マサコ」のDNAは強い。閉店した「マサコ」の直系の店が、ふたりの元店員によって復活しています。
ひとつは「囃子(はやし)」(2017年オープン)、もうひとつはずばり「マサコ」(2020年)です。
***
最後に、マサイさんとの思い出話。
区画整理されてしまって今はない戦後のドサクサ風の飲み屋で、突然「カラオケに行こう」と、マサイさんに誘われました。
「イーすよ!」と私。それで歌ったのは覚えたてで、しどろもどろの『モナリサ』(ナット・キングコール)。
馬鹿だよね、私は。得意のエルヴィスを歌えばよかったんだよ。
マサイさんは音楽のプロだよ。冗談でカラオケに誘うわけないんだよ。オーデションだったんだよ。
ルックス、スタイル、OK! ホトケより上だ。スターになれる、あとは歌だ。
マサイさんは私をスカウトしようと思ったのです。
もし私があの時、エルヴィスを歌っていれば、どうなったか。
くやしー!シモキタの歴史を変わっていたでしょう。
マサイさん、期待に添えなくて、申し訳ありませんでした。
と、まあ。
私の下北沢の思い出は、老人の昔語なってしまいます。
しかし、日経の「シモキタ物語」は、下北沢の未来の話です。
でこれから、新規に開店した「ミカン」(未完成の意味)の飲食街に行って、100歳までの今後20年間を構想しながら、一杯やってきましょう。
(END)