『白鍵と黒鍵の間に』(小説:南博 小学館 )は「ジャズ ポスト ジャズ」の物語です。

THE TED TIMES 2024-02「ジャズ」 1/8 編集長 大沢達男

 

『白鍵と黒鍵の間に』(小説:南博 小学館 )は「ジャズ ポスト ジャズ」の物語です。

 

1、ジャズは終わった

『白鍵と黒鍵の間に』(南博 小学館)は、1987~9年の銀座を舞台にした、ジャズピアニストの物語です。

その20年前、1967年にジョン・コルトレーンが亡くなったとき、ジャズ評論家の相倉久人は「ジャズの死」と宣言しました(『あなたの聴き方を変えるジャズ史』 p.191 村井康司 シンコーミュージックエンターテイメント)。

じゃー残されたジャズプレーヤーはどうなるんだ。マイルスがいるじゃないか。

コルトレーン以降のジャズはどう評価すればいいのか。コルトレーンを知らない若いジャズファンは何を聞いていることになるか。

さまざまな疑問がありますが、相倉の予言は正しかった。まさしくコルトレーンの死で、ジャズは終わりました。

 

それは、東京の街を見ればわかります。

60年代後半から70年代の新宿は、ジャズ喫茶の街でした。

思い出せるだけでも、「ビレッジ・ヴァンガード」、「ジャズ・ヴィレッジ」、「木馬」、「ポニー」そして「DIG」がありました。

私が通ったのは、一番過激な「ジャズ・ヴィレッジ」です。

四角のスペースは、床、壁、天井すべて真っ白に塗装され、テーブルや椅子はなく、壁に沿って打ち付けられた板(ベンチ)の上に座る、捕虜収容所、犯罪者の取り調べ待合室のようでした。

ジョン・コルトレーンアルバート・アイラーオーネット・コールマンをやっていました。無名の作家の中上健次が客として通っていました。

渋谷も同じです。道玄坂・百軒店(ひゃけんだな)に、「オスカー」、「DIG」、「ありんこ」、「スウイング」など数軒のジャズ喫茶がありました。

私のお気に入りは「DIG」でしたが、レコード盗難事件で閉店しました。そして69年からロック喫茶の「ブラック・ホーク」になりました。

時代は変わりつつありました。ジャズからフォークへ、ロックへ。そこで私はブリティッシュ・フォークの「ペンタグル」を聴いたことを覚えています。

銀座には。「69(ローク)」、「XXX」(ピアノがあった地下の店。名前を思い出せない)・・・数軒のジャズ喫茶がありました。

ビルの中に立派なライブができる100席ぐらいの「YYY」(これも名前を忘れてしまいました)がありました。

さらに東銀座には伝説のジャズ喫茶「オレオ」がありました。

現在では、新宿、渋谷、銀座にあったジャズ喫茶はすべて姿を消しています。わずかに新宿の「DUG」(「DIG」の後継店)と「The Old Blind CAT」を残すのみです。

「ジャズの死」には、いろいろな説明がありますが、「ジャズ喫茶の消滅」がいちばん象徴的です。

『白鍵と黒鍵の間に』の時代にはジャズは終わっていました。

だからドラマの主人公のジャズ・ピアニストである南博(みなみひろし)は銀座のナイトクラブに仕事を探すしかありませんでした。

 

ライブができるところが、新宿の「ピット・イン」しかなかったいうのも象徴的です。

「ピット・イン」は1965年オープンですが、その名の通りカー用品のお店でした。

なんか、ガソリンの臭いがしそうで、コーヒーがまずそう。私たちは近寄りませんでした。

そしてこんなことを言うと笑われますが、ジャズ(貧乏)とクルマ(金持ち)は、ほとんど反対語でした。

さらにジャズを聴くとは哲学すること自らを問うことで、クルマで湘南や伊豆に女の子と出かけるのとは違うことでした。

北野武は新宿の「ヴィレッジ・ヴァンガード」でバイトをし、コルトレーンを聴きながら自分の人生を模索していました。

ヴィレッジ・ヴァンガード」のボーイ仲間の永山則夫は、アルバート・アイラーを聴き、結論としてテロリストになり、連続射殺魔として死刑になっています。

ジャズの60年代後半~70年代は、学生運動実存主義の時代でした。ジャズを聴くとは人生を問うことでした。

そこにジャズ(プロレタリアート)とクルマ(ブルジョワ)のミスマッチの「ピット・イン」が登場したわけです。

チャンチャラおかしい。

でもいまになって冷静に考えれば、『白鍵と黒鍵の間に』の南博が憧れた「ピット・イン」は、ジャズが終わったあとのジャズ「ジャズ ポスト ジャズ」の象徴でした。

 

2、ジャズの街だった銀座

60年代後半から70年代の銀座はジャズ喫茶だけなくジャズ・ライブの街でした。

CMクリエーターとして銀座(入社は築地・電通、その後銀座・電通)に勤めていた「私のジャズ体験」があります。

まず佐藤允彦(1941~)が1969年か70年に銀座のジャズバー「XXX」でピアノを弾いていました。

佐藤は1966~68年にバークリーへ留学していますから、帰ってきたばかりでした。

なにげにお店に入っていたら、佐藤允彦が弾いていた、銀座の住人には当たり前のことでした。

佐藤をバークリーに行く前にも聴いています。

64年か65年でしょう。銀座ではなく三田祭慶應大学の学園祭)です。

慶應の先輩でジャズ・シンガー笈田敏夫(1925~2003)との共演です。

笈田はピストル不法所持で刑事告発され芸能界から干されていました。

「佐藤くんがピアノが上手いというので、やってきました。今日はプロの厳しさを教えてあげましょう」

笈田が偉そうに喋っていたのを覚えています。

 

そのころもうひとり、バークリーに行った日本人ピアニストを聴いています。

これも銀座ではありません。自由が丘での小曽根真(1961~)です。

小曽根は1980年~83年にバークレーに行っていますが、そのずっと前です。

ジャズ評論家のいソノてルヲ(1930~99)がやっていた自由が丘の「5 Spot(ファイブスポット)」というジャズ・クラブに登場しました。

オスカー・ピーターソンが来ていました。

いソノさんが紹介しました。

オスカー・ピーターソンの演奏の前に、将来性豊かな日本のジャズ・ピアニストをご紹介します。16歳になったばかりの小曽根真クンです」

ドラムスは忘れましたが、ベースは「オマスズ」こと鈴木勲(1933~2022)でした。

残念ながら小曽根のピアノは、ピーターソンとは差がありすぎました。

ピーターソンは私たちに何かを伝えました。心を動かしました。演奏ではなく音楽でした。ピアニストではなく芸術家でした。

対して小曽根は上手にピアノを弾いていました。

 

銀座では強烈なライブをジャズクラブ「YYY」(ほんと残念、名前を思い出せない)で聴いています。

ボーカルの笠井紀美子(1945~)とサックスの峯厚介(1944~)の共演です。

70年代の初めです。仕事の後に何気なく寄っただけの話です。私は笠井紀美子のエロに圧倒されました。

60年代後半~70年代前半の銀座は、南博の80年代後半の銀座とは、まるで違います。

銀座にはジャズに溢れ、銀座ではジャズが生まれていました。

その銀座で、一つだけ残念というか悔いがあります。サックスの阿部薫(1949~78)の東銀座の「オレオ」での演奏を聞き逃していることです。

私は電通の新入社員で、丹下健三デザインで新装なったビル(築地・電通)に通っていました。

世間知らずの私は、電通のバッジをつけたまま、「オレオ」に通っていました。

電通社員」と「喫茶店」はほぼ「同義語」ですが、「オレオ」に行く電通社員はひとりもいませんでした。

ジャズ評論家の相倉久人(1931~2015)、平岡正明(1941~2009)が「オレオ」の常連客で、阿部薫の演奏がありました。

阿部薫は30歳にもならず、死んでいきました。それがジャズでした。

私も孤独でした

東大でも京大でも早大でも慶大でもない、たった一人の地方大学(横浜市立大学)出身、しかもなんのコネ(縁故)もない、母子家庭の子供。ダークスーツに電通バッジをつけたクリエーターは、孤独でした。

1967年7月コルレーンの死の2週間後に、私は電通から入社試験合格の知らせを受けています。

広告業界やクリエーターに憧れていたわけではありません。当時に東京都の公務員試験を受験し合格しているのですから。

私はジャズでした。

 

3、ジャズピアニスト誕生

ジャズ・ピアニスト南博(1960~)は、ヤクザの親分が歌う村田英雄の「王将」の伴奏をし、銀座のナイトクラブで3年間ピアノを弾きました。

そしてボストンのバークレー音楽院に願書を提出し、めでたく合格、1989~91年まで留学することになります。

一つ年下の小曽根真に遅れること9年、つまり小曽根より10年も遅れてバークレーに行ったことになります。

銀座での最後の日ナイトクラブのピアニスト南博は、同業のミュージシャン仲間から馴染みの喫茶店「ボストン」に呼び出されます。

ボコボコにされるのを覚悟で行くと・・・「アメリカから帰ってきたら顔を出せ」・・・と餞別に10万円をもらいます。

涙。・・・涙です。

 

私も20歳の頃、家出して岩手の盛岡のナイトクラブで1ヶ月、ピアニストではなく、ボーイとして働いたことがあります。

コルトレーンに熱中していた頃です。

「生きる意味がわからネーんだよ」「人生って何なんだよ」。

クラブにはジャズバンドが入っていました。私は東北弁のジャズ・ミュージシャンに話しかけていました。

コルトレーンやらないんですか?」

ナイトクラブのラストは、いつも啜り泣くようなチーク・ダンスのナンバー「Good Night Sweet Heartでした。

岩手・盛岡のジャズ喫茶でも、60年代の半ばですから、コルトレーンの「オレオ」がかかっていました。

印象的なのは、マル・ウォルドロンの「レフト・アローン」が、私を新宿から送り出し、私を盛岡で迎えてくれがことです。

ナイトクラブでのボーイ最後の8月31日の夜、ナイトクラブのマネージャーが送別会をやってくれました。それも3次会まで。

ジャズ・バンドのメンバー、クラブの女の子、マネージャー、ボーイ・・・10数人が、深夜の盛岡駅のホームで万歳三唱をしてくれ、東京に帰る私を送ってくれました。

「マネージャーにお礼の手紙を出せよ、わかったな!」。

東京に向かう深夜急行「やまびこ」で、私は涙を流し続けていました。

 

南博は、『白鍵と黒鍵の間に』のあとがきで、ジャズに目覚めます。

「暗黒時代に、身に付いた銀座サウンドを演奏で出したくないのだが、それもアリだと思うようになった」。

「音楽はその人の生き様さえ表現できるのだから、銀座で弾いていた3年間のことも、その生き様に刻まれている筈だから」(『白鍵と黒鍵の間に』 p.285)。

南博はキース・ジャレットの「フェイシング・ユー」でジャズに目覚めました。

そしていま、本当の意味で南博は自分と向き合っています。

ジャズ・ポスト・ジャズ、ジャズが終わった後のジャズではなく、ほんとのジャズと向き合っています。

南博(みなみひろし)というジャズ・ピアニストはいま誕生したばかりです。

End