日本人はかつて「西郷南洲」以上に強力な思想を一度も持ったことがなかった(江藤淳)。

THE TED TIMES 2022-17「南洲残影」 5/17編集長 大沢達男

 

日本人はかつて「西郷南洲」以上に強力な思想を一度も持ったことがなかった(江藤淳)。

 

1、西郷南洲

陽明学でもない、「敬天愛人」ですらない、国粋主義でも、排外思想でもない、それらすべてを超えながら、日本人の心情を深く揺り動かして止まない、「西郷南洲」という思想。マルクス主義アナーキズムもその変種も、近代化論もポストモダニズムも、日本人はかつて「西郷南洲」以上に強力な思想を一度も持ったことがなかった>(『南洲残影』 p.233 江藤淳 文藝春秋)。

このたび鹿児島を訪れることがなかったら、私は、ほんとの西郷隆盛を知らぬまま、上野の山に立つ犬を連れたおっさんのイメージを持ったまま、死んで行くことになりました。

まったく恥ずかしい限り。

無知を知ったら、学べばいい。学ぶ時間は残されています。

2022年4月17日(日曜日)、私が城山に登った朝、その日は東京に帰る日でした。

滞在中の鹿児島の駅前のホテルからあちらこちらを彷徨(さまよ)い、小1時間ほどかかって、西郷隆盛像のところにやってきて、城山を目指しました。

10分ほど登った時に、すれ違った初老の女性に聞きました。

「頂上まではあとどのくらいですか?」

「そうね。15分ぐらいかしら・・・。でもせっかくここまでおいでになったのですから、お登りになるのをおすすめしますよ!」

「ありがとうございます」

彼女の言葉に励まされ、頂上を目指しました。

そのとき城山が、西南の役の最後戦闘の場所、西郷隆盛の終焉の地とは知らずにいました。

そしてあの時、もし城山に登らなかったら、一生西郷隆盛を知ることなしに死んでいったことになったはずです。

初老の女性に感謝しかありません。

 

2、三島由紀夫

<一種電光のような戦慄が身内を走った。西郷隆盛と蓮田善明と三島由紀夫と、この三者を結ぶものこそ、蓮田の歌碑に刻まれた三十一文字の調べではないのか。西郷の挙兵も、蓮田や三島の自裁も、みないくばくかは「ふるさとの驛」の、「かの薄紅葉」のためだったのではないだろうか?>(p.91)。

蓮田善明は終戦直後の昭和20年8月19日、マレー半島ジョホールバルで、連隊長を通敵行為の理由で射殺し、ピストルで自裁しています。

三島由紀夫は昭和45年に、戦後の虚妄に抗議して、亡くなっています。

そして西郷隆盛は明治10年に田原坂で戦い、最後は城山で亡くなっています。

蓮田の歌碑とは、「ふるさとの 驛におりたち 眺めたる かの薄紅葉 忘れえなくに」で、田原坂にあるものです。

蓮田は昭和13年に「文藝文化」を創刊します。僚友池田勉が書いた創刊の辞が残されています。

<日本精神の声高く宣伝せらるるあれど、時に現実粉飾の政論にすぎず(中略)所謂国文学の研究は普及せるも、故なき分析と批判とに曝されて、古典精神の全貌は顕彰せらるるべくもない。>(p.89)

そして蓮田は学習院中等科の生徒だった三島由紀夫と見出し、『花盛りの森』を「文藝文化」に連載し、三島を悠久な日本の歴史の申し子であると評価します。

江藤は、<滅亡を知る者の調べとは、もとより勇壮な調べではなく、悲壮な調べですらもない。それはかそけく、軽く、優にやさしい調べでなければならない。何故なら、そういう調べだけが、滅亡を知りつつ亡びて行く者たちの心を歌い得るからだ。>(p.91)、と結びます。

むかし私は20代の頃、学友たちがマルクス主義に熱中しているとき独り、日本浪漫派を知り保田與重郎に憧れ、「浪漫的反抗」という言葉を心の中で繰り返していました。

蓮田と三島と西郷の田原坂。「かの薄紅葉 忘れえなくに」。西郷隆盛は忘れてはならない人だっと、知ります。

 

3、大島栄子

明治政府は文明開化を宣言しました。征韓論で対立した大久保利通西郷隆盛もその文明にありました。

日本は文明で遅れているが大久保、対して彼我の文明の量ではなく「精神気魄」で見ようとしたのが西郷です。

文明の量を増大させようという努力そのものによって、日本人の「精神気魄」は、頽廃し、崩壊し、空無に化していきます。

西郷は現政権に対立したのではなく、その堕落ぶりに怒り、維新の実現に命を捧げ去っていった志士たちに、謝罪の涙を流していました。

<草創の始に立ちながら、家屋を飾り、衣服を文(かざ)り、美妾を抱え、蓄財を謀りなば、維新の功業は遂げられ間敷(まじく)也。今と成りては、戊辰の善戦も偏へに私を営みたる姿に成り行き、天下に対し戦死者に対して面目無きぞとて、頻りに涙を催されける。>(『西郷南洲遺訓』 p.6 山田済斉編 岩波文庫)。

皇国(みくに)の風ともののふの/その身を護るたましひの/維新このかた廃(すた)れたる/日本刀の今更に/また世に出づる身のほまれ/敵も味方も諸共に/刃の下に死ぬぞべき/大和魂あるものの(p.189 外山正一「抜刀隊」)

明治10年8月15日西郷の戦いは、日本の戦いになりました。薩軍か官軍かではなく、血が流れなければならなかったのです。

<国と云ふものは、独立して、何か卓越したものがなければならぬ。西洋々々と云っても、善い事は採り、その外に何かなければならぬ。それが無いものだもの。つまり、亜細亜には人が無いのだよ。>(『海舟餘波』 江藤 p.179)。

西郷隆盛は、島津斉彬を支えた最先端の科学技術の人で、それでいながら敬天愛人、勇猛な薩摩隼人で、明治維新を成就させた「人」でした。

明治10年に日本はその「人」を失いました。

令和4年4月、なぜ私が鹿児島に行ったのか。

鹿児島出身のソプラノ歌手大島栄子のコンサート・スタッフとしてです。

1960年代にドイツに渡り70~80年代にドイツで活躍した大島の日本での凱旋公演のためにです。

大島は、シューベルトモーツァルトプッチーニ、と西洋を歌い、最後には「鹿児島おはら節」を歌いました。

そこには「薩摩おごじょ」の心がありました。

なぜ大島栄子の歌は、訴える力が強いのか。その秘密は西郷隆盛の精神気魄があるからです。

花は霧島 煙草は国分 燃えて上がるは オハラハー 桜島

 

(End)