THE TED TIMES 2023-36「大川周明」 10/1 編集長 大沢達男
なぜ学校で、大川周明の『米英東亜侵略史』を、教えてくれなかったのだろう。
1、東京裁判
東京裁判(極東国際軍事裁判)でただ一人民間人で、A級戦犯容疑者として逮捕されながら、精神障害のために免訴(訴追免除)された男、それが大川周明(1886~1957)です。
大川は東京大学を卒業し、拓殖大学、法政大学で教壇に立った学者です。
それも、とんでもなく優れた学者でした。英語、フランス語、ドイツ語、サンスクリット、そしてアラビア語、以上は完璧、さらに中国語、ギリシャ語、ラテン語にも手を出していたというのですから、本物です。
並ぶ学者を知りません。わずかに昭和の清水幾太郎(1907~1988)を知るのみ、それでも清水はフランス語、ドイツ語、英語、そしてロシア語を少々というものでした。
なぜ免訴になったか。梅毒による精神障害とされていますが、実情を違います。連合国側の都合です。
大川周明の論述を検討すれば、東京裁判で裁かれなければならないのは、裁く側の米国、英国になってしまうからです。
臭いものには蓋をしろ、連合国側は屁理屈を並べ、大川を法廷に立たせなくしたのです。
もし大川が法廷に立っていたなら、どうなったか、それが、『米英東亜侵略史』(大川周明 土曜社)で語られている内容です。
大川周明は、1941年12月8日の開戦直後の14日~25日まで、NHKラジオで全12回の連続講演をやり、単行本になりベストセラーになりました。
『米英東亜侵略史』には、いかにして米国と英国がアジアを侵略してきたか、の事実が並べてあります。
反米とか反英とかの意見ではありません。動かし難い事実の列挙、豊かな語学力がある大川だけがなしうることです。
大東亜戦争は不可避、開戦の大義名分ある、日本は立ち上がらなければならない、戦わなければなりない。その論理的な言説に米国は怖気付き、そして免訴にした。
東京裁判の法廷で大川周明は席の後ろから、前に座る東條英機の頭をピシャリと叩きました。
しかしそれは精神障害ゆえの狂気の沙汰ではなく、東京裁判の理不尽な裁きを嘲笑した、パフォーマンスでした。
2、米国東亜侵略史
1)ペルリ
「およそ150年以前から(中略)世界は白人の世界であるという自負心が昂(たか)まり、欧米以外の世界の事物は、要するに白人の利益のために造られている思想を抱き、いわゆる文明の利器を提(さ)げて、欧米は東洋に殺到し始め」ました。
そんな中で、1853年ペルりのアメリカ艦隊が浦賀湾に乗り込み、通商開港の条約締結を求めてやってきます。
江戸幕府は周章狼狽、浦賀では国書は受け取りかねる長崎へ回航へ、と言うがペルリは耳をかさず武力で威嚇します。
やむなく国書を受け取り、返事は来年と追い払います。
しかしペルリは上海に寄っただけ、翌年の正月には浦賀、神奈川沖にやってきます。やむなく幕府は長崎の他に、下田・函館を開く約束をします。
本題からそれますが、大川は日本側の周章狼狽ぶりをユーモラスに紹介しています。
「 情けなかったのはペルリ艦隊が浦賀停泊中の日本側の警備であります。(中略)その方法は各大名が漁師から借り集めた漁船をもって、アメリカ艦隊を取囲み、いわゆる八陣の備をとっているのであります。(中略)三方から軍艦を取巻き、陣鐘・陣太鼓を鳴らし、法螺貝を高らかに吹立て・・・(後略)」威嚇するものでした。
あまりに情けないのでここまでしておきます。
ペルリは日本を研究していました。日本人が高尚な国民であること、礼儀を守り、対等に交渉しなければならないことを知っていました。戦争を開く意図はなく、開港だけを目的にしていました。
大川は回想しています。アメリカ合衆国は堕落した、もし(フランクリン・)ルーズヴェルト大統領がペルリのような魂をもっていれば・・・と。
2)日本はアメリカの邪魔
日清戦争(1894~5)で支那の無力が暴露され、帝国主義が支那を略奪の対象とするようになります。アメリカの東洋政策も変わります。
まずセオドア・ルーズベルトは1898年米西戦争でフィリピン群島とグアム島を獲得します。
つぎに未だいずれの国々の勢力も絶対的でなかった東亜をアメリカはターゲットにします。
太平洋を支配するものが東亜を支配する、アメリカは日本の勢力圏である満蒙を進出の目標にします。
1905年ポーツマスで日露の講和談判が進行している最中アメリカの鉄道王ハリマンが、日本のものとなるべき南満州鉄道を買収しようとし、桂首相との間に覚書を成立させます。
驚いた小村寿太郎がこれを取り消しにします。
アメリカは満鉄、シベリア鉄道で世界一周船車連絡路を築こうとしていました。
ハリマン計画の失敗で、アメリカは日本が東洋進出の障碍であると考えるようになります。
アメリカは日本人排斥を始めます。1906年にサンフランシスコの小学校から日本少年を放逐し、1907年に数十人のアメリカ人が日本人経営の商店を襲撃します。
加えて1911年加州議会で日本人土地所有禁止の法律が成立します。さら加州排日協会は、日本人の借地権を奪う、写真結婚の禁止、米国が排日法を制定する、日本人に帰化権を与えない、日本人の出生に市民権を与えない、以上の5事の決議をします。
3)ワシントン会議
日米両国の政治的決闘が始まります。
アメリカは、1921~2年のワシントン会議で、第一に日英同盟を廃棄させ、日本を国際的に孤立させ、第二に日本海軍の主力艦を米英の6割に制限することに成功します。
「アメリカの乱暴狼藉かくの如くなるに拘らず、世界のいかなる一国もアメリカに向かって堂々とその無理無法を糾弾せんとする者なかったのであります」。
大川周明は怒りを爆発させます。
「繰返して述べたる如く、米国の志すところは、いかなる手段をもってしても太平洋の覇権を握り、絶対的に優越たる地歩を東亜に確立するに在る。そのために日本の海軍を劣勢ならしめ、無力ならしめ、しかる後に支那満蒙より日本を駆逐せんとするのである」。
そして1941年12月8日なっていきます。
3、英国東亜侵略史
1)アメリカ大陸とインド航路
かつては地中海がヨーロッパの商圏の中心で、イギリスはヨーロッパの片隅の弱小国家に過ぎませんでした。
それがアメリカ大陸とインド航路の発見により大西洋が第2の地中海になり、イギリスが世界の中心になっていきます。
1588年にイギリスはスペインを破り、1652~74年の戦いでオランダを退け、1688~1815年の長い戦いでフランスに勝利します。
なぜイギリスは強いのか、海軍の基礎を、ジョン・ホーキンス、フランシス・ドレークの海賊が作ったからです。
イギリスはインド全部を領土にし、ビルマを併合、紅海の入り口アデン、そしてペリム島を占領、香港を支那から奪い、キプロス島をトルコから奪い、豪州、ニュージーランドを英国国旗の下におきます。
さらに1875年にはわずか4000万円でエジプトからスエズ運河の株券を取得しています。イギリスの世界制覇は実現します。
2)インド
イギリスがインドを失えば三等国に成り下がると言われていました。
インドは、イギリスの投資場所、イギリス人の立身出世の舞台、英国商品の市場、英国海軍の軍事拠点でした。
貿易会社である東インド会社は莫大な利益を上げました。その利益は真実と思えないほど莫大でした。
しかもその利益は少数の富豪が独占していました。イギリスの輿論は沸騰します。会社の特権を取り消せ・・・。
対して東インド会社は賄賂を、カシミアン・ショール、絹織物、薔薇香水、ダイアモンド、金貨・・・を、大臣・女官・僧侶に送ります。
イギリスのインド進出は征服ではなく、貿易のためでしたが、最終的には1876年ヴィクトリア女王がインド皇帝に位におさまります。
イギリスが使ったのは武力だけではなく、インド教徒と回教徒、藩王と藩王、ジャット人とラージプト人、ブンデラ人とロヒラ人、仲間同士を戦わせました。
1857年のインド兵叛乱では、イギリス人は残忍酷薄な行為を行っています。
「土民の老幼男女を屠った」「老人・女子・小児なども血祭に挙げられた」。
さらに残酷な記述が続きますが、止めておきます。
「大英帝国において、インド農民以上に悲惨なるものはない。彼は一切を絞り取られてただ骨のみを残している」
これがイギリスのインド統治の実態です。
3)中国
1635年イギリス船の艦長ウェツデルがマカオへ、しかし寄航をポルトガルが許しません。
そこで広東へ。河口で支那兵の攻撃を受けますが、応戦し砲台を占領し、支那はイギリスとの通商を認めます。
中国からの主要商品は絹織物と茶。代金は現銀。それが莫大になり、現銀の代わりに阿片で払うことにします。
支那は打撃を受けます。国民が阿片中毒に、現銀が流出し経済的財政的危機を迎えます。
支那は、1796年阿片の輸入禁止、1815年に阿片の吸引を禁じます。そして1839年、林則徐に取締りを命じます。
しかしイギリスは、逆に林則徐に勝利し、船山列島、香港を略奪、上海など各地を占領し、1842年不平等条約南京条約を結びます。
支那国家は解体します。
アロー号事件を契機とする第二次英支戦争中、イギリスの新聞デーリーテレグラグは以下のような社説を掲載しています。
「すべての支那将校を海賊や人殺しと同じく、英国軍艦の帆桁にかけよ。人殺しの如き人相して、奇怪な服装をなせるこれらの多数の悪党の姿は、笑うに耐えざるものである。支那に向かっては、イギリスが彼らより優秀であり、彼らの支配者たるべきものたることを知らしめなければならぬ」。イギリス人の下品な言葉遣いに、大川周明は驚いています。
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「大東亜戦は、単に資源獲得のための戦いでなく、経済的利益のための戦でなく、実に東洋の最高たる精神的価値および文化的価値のための戦いであります」。
そして「日本精神とは、やまとごころによって支那精神とインド精神を綜合せる東洋魂であります」、と大川周明は12回のラジオ講演を結んでいます。
4、佐藤優
現代の日本を代表する知性である佐藤優は、『日米開戦の真実』ー大川周明著『米英東亜侵略史』を読むー(佐藤優 小学館文庫)で、大川周明を高く評価しています。
「実証性と論理性を重視する説明が当時の多くの国民に受け入れたのである」(p.153)、そして「客観的データに基づいて、日本が戦争へ追い込まれていった道筋をきちんと国民に説明している」(p.175)、と文章として一流であると絶賛しています。
もちろん『米英東亜侵略史』はラジオ講演をもとにしていますから、引用文献、参考図書などの記載はありませんが、大川周明が豊富な資料から論理を組み立てているのがよくわかります。
インターネット時代の今ならまだしも、1941年にエヴィデンス(証拠、事実)を列挙することができた、大川周明の語学力、情報力、学習力、学者として超一流であったことに驚きます。
そして佐藤優は戦後の平和と民主主義の今の状況を批判します。
「国民は騙されて無謀な戦争に突入した」、「大本営発表はすべて大嘘だったとの通説は実証されるのだろうか」(p.146)。
さらに「国民が政府・軍閥に騙されて勝つ見込みのない戦争に追いやられたというのは、戦後に作られた神話である」(p.152)と言い切ります。
そして歴史に「もし」はないとしながら、「あの状況で戦争を避け、アメリカの理不尽な要求を呑んでいても」、「植民地にならずとも保護国のような状態になった」(p.200)、もしくは社会主義国家になったかもしれないと推定しています。
結論的には「アメリカと太平洋をはさんだ隣国という地政学的状況におかれた日本は『運が悪かった』と認めるほかはない」(p.200~1)と両手をあげて降参しています。
大川周明そして佐藤優に基本的に賛成しますが、3人の言説が気になります。
まず終戦時の帝国海軍主計大尉で、その後総理大臣になった中曽根康弘です。
中曽根は「大東亜戦争は間違った戦争で、やるべからざる戦争であった」(『21世紀の国家戦略』 p.75)と述べ、外交の4原則を示しています。
1)国力以上のことをするな。2)外交をギャンプルでやるな。3)内政と外交を混交させるな。4)世界史の正統的潮流に乗れ。(筆者の要約)
そして軍令が天皇と直結した旧憲法の統帥権の欠陥を指摘しています。
次は『失敗の本質』(中公文庫)の野中郁次郎です。
1)大本営は「白兵銃剣主義」、「艦隊決戦主義」に縛られていた。陸軍『歩兵操典』(明治42年)の「戦闘二最終ノ決ヲ与フルモノハ銃剣突撃トス」は大東亜戦争の敗北まで墨守されていた(『失敗の本質ー戦場のリーダーシップ篇ー』p.312野中郁次郎編著 ダイアモンド社)。
2)ガダルカナル島が米軍に占領されたという知らせが入ったときに、大本営陸軍部内にその名「ガダルカナル」を知っているものは、1人もいなかった(『失敗の本質』p.110野中郁次郎他 中公文庫)。
陸軍の主力は中国・インド、太平洋はあくまでも海軍の担当。ガダルカナルの惨状を知らなかった。
握り飯ひとつにありつけない同胞を見捨て、兵站と情報での敗北を無視しました。陸軍の兵站への考え方は、補給は敵軍から奪取もしくは現地調達でした。ジャングルに、白米、納豆、さんま、味噌汁、おしんこ、それより、水、お茶があるというのでしょうか。
3)陸軍と海軍の対立は積年の伝統で深刻でした。双方が面子を重んじ、弱音、撤退は禁句でした。そして戦争をやめることができず、最後の破滅まで進みました。現場での合理的な判断は、「健在主義」、「卑怯者」と否定され、突撃、玉砕が奨励される組織文化がありました。
対して米軍は「海兵隊」を発明し、水陸両用作戦を展開していました。
そして最後は亡き安倍晋三です。
安倍は、経済のブロック化により日本は孤立し、力で解決しようと世界の大勢を見失って行った、と先の大戦を総括しました。
1)安倍は、国際的なビジネスパースンとして能力、コミュニケーション、ネゴシエーション、プレゼンテーションができる、日本で初めての政治家でした。
プーチンともトランプとも友達関係を築きました。
2)国内では、教育基本法を改訂し、安保法制を見直し、日本国憲法を改定しようとしました。
3)そして国際的には「自由で開かれたインド・太平洋(戦略)」を示しました。これはインド共和国の国会での演説が基本になっています。
安倍は中曽根の外交4原則をクリアしています。そして憲法改正により、9条と自衛隊の存在の矛盾、を解決しようとしていました。
(以上)