THE TED TIMES 2023-43「ロウ・イエ」 11/15 編集長 大沢達男
映画のロウ・イエ監督が、世界No.1(私のベストテン)から陥落しました。
11月3日文化の日、映画「サタデーフィクション」のプロモーションで、ついに憧れのロウ・イエ監督のナマの姿を、拝見することができました。
映画館「シネ・リーブル池袋」の昼下がり、9時30分からの1回目の上映の後、映画俳優、オダギリ・ジョー、中島歩、そして中国側から脚本・プロデューサーのマー・インリー(馬英力)とともに、ロウ・イエ監督が登場しました。
観客席の後ろ方から拝見しただけですが、まあ、想像の範囲内の普通の人でした(ハッハッハ、当たり前です)。
舞台の上からのオダギリジョーの話が耳に残りました。
「劇場の外で出待ちをしていましたが、映画が終わったあと、拍手があったのに驚きました。映画ではあまりないことではないでしょうか」(筆者注:観客がこれから登場する監督に気を使っていただけ)
「ロウ・イエ監督の映画は、他の映画と映画世界が違います」
「本番では5台のキャメラが回っています。『カット!』の声がかかるまでが、長いんです」
「音楽がつかない映画なんてありますか」(注:作中のジャズバンドの演奏以外に音楽はつかない)
「監督の映画は、早送りしてみたり、スマホで見る映画ではありません。劇場で見る映画です」
「きょうから『ゴジラ』をやっていますが、そういう映画ではありません。・・・いけない・・・。また怒られることを言ってしまった。まあ、冗談ですよ。・・・私が言いたいことは、この映画が普通の映画と違う、ということです」
2、『サタデー・フィクション』
ロウ・イエ監督の映画の魅力は、過激なエロとテロです。しかしエロとテロは検閲されます。
たとえば、私が好きな『天安門、恋人たち』(2006年 Summer Palace)は、中国では公開されない映画でした。
私は何も知らずそれを新宿で観て、あまりに過激なセックス・シーンに度肝を抜かれ、ロウ・イエ監督に熱狂しました。
対して2019年制作の『サタデー・フィクション』は、検閲を通過した映画です。
おとなしい。
期待は裏切られたばかりでなく、いくつかの疑問を持ってしまいました。
ケチをつけるまえ、忘れないうちに、この映画の素晴らしいところを、言っておきます。
ロウ・イエ監督が映画を発明しようとしていることです。
全ての芸術に共通しますが、新しい表現とは発明です。映画も、絵画も、小説も、名作と呼ばれるものは、そのジャンルでの表現の発明をしています。
映画でいえば、映画をぶち壊し、新しい映画を生み出すことです。
まず、モノクロで撮っています(これについては後述)。
つぎに、オダギリジョーが指摘したように、映画は音楽を使っていません(ジャズの演奏シーンを除く)。
映像制作の経験者はわかりますが、音楽を使わないと困ることが起こります。
カットとカットがつながらず、シーンになりません。モンタージュが難しくなります。でもロウ・イエ監督は挑戦しています。
そしてロウ・イエ監督はシーン転換で驚くべきことをやります。
パン(カメラを横に振る)をするだけで、一つのシーンが次のシーンに変わってしまいます。
さらにアクション・シーンは、お手の物。これもオダギリジョーが驚いたように、いくつもカメラが回っているからからです。
スパイの撃ち合いは、ハリウッドの「ジェットコースター・ムービー」のよう、いやそれ以上です。ロウ・イエ監督は編集がうまい。
ロウ・イエ監督の映画は、映画を発明しています(しようとしています)。
この際だからついで言っておきます。
日本人は北野武監督を甘く見ています。
映画『3-4X 10月』のイントロでは、セリフ、ナレーション、音楽なしで、延々とそのシーンのノイズだけ映画を進め、怖いほどの緊迫感を生み出しています。忘れられません。
また『あの夏、いちばん静かな海』では、聾唖者という設定で、主人公からセリフを奪っています。映像の実験です。
さらに『座頭市』では、ゲタ履きのタップダンスを音楽として使っています。今も耳に鳴り響きます。
映画には実験、映画の発明にあふれています。
話がそれました。ロウ・イエ監督の映画に戻ります。
つぎに『サタデー・フクション』について三つの疑問を提出します。
まずシナリオ。複雑すぎます、あらすじすらわかりません。
映画は1941年12月1日から7日までの大東亜戦争が始まる前日までの上海での話です。
1)香港からやってきた上海にやってきた女優、彼女の養父はフランス人連合国のスパイ。女優の上海訪問の目的は、舞台に出演するためと日本軍に捕らえれている前夫を救うため。
日本から海軍少佐が部下と共に上海にやってくる。訪中の目的は暗号更新のため。
2)海軍少佐と香港女優の銃撃戦が始まり海軍少佐は負傷する。養父たち連合国側の暗号解読の作戦が始まる。少佐は睡眠薬を飲まされ、香港女優が暗号の秘密を聞き出そうとする。
3)劇場で海軍少佐と香港女優の銃撃戦が始まる。海軍少佐は射殺される。そして女優は連合国のスパイである養父に、暗号の「ヤマザクラ」は「ハワイ」、であると伝える。そして大東亜戦争が始まり。上海の租界は終わりを告げる。
映画は日本海軍の「暗号更新」をメインテーマにしています。それを巡って、連合国のスパイ、重慶政府(蒋介石・国民党)、南京政府(日本の傀儡・王兆銘政権)の諜報部員の暗躍するというわけです。
このあらすじは、劇場で買ったプログラムを読んでも、わかりません。
映画は作為に過ぎます。映画が生まれていません。プロデューサーの責任です。
つぎは、先ほど触れたモノクロ映像の話です。
ロウ・イエ監督に、なぐられることを覚悟で、言います。
映像に、色調や輝きが、ありません。
モノクロ映像の黒は黒光(くろびかり)し、白は輝くはずです。
画面にツヤがないのはなぜでしょう。わかりません。
デジタル撮影だからでしょうか。
手持ちカメラで長回しするから、ライティングいい加減になる、からでしょうか。
あるいは、上映館の映写機のレンズが悪かったせいでしょうか。
いずれにせよたとえば、モノクロ時代の巨匠、溝口健二監督に完全に負けています。
溝口監督は、カメラがどう動こうとも、絶妙のライティングで、どのカットにも光と影がありました。
アーティザンでアーティストでした。
だからあのゴダールが、一にミゾグチ、二にミゾグチ、三にミゾグチ、と絶賛したのです。
3つ目はロウ・イエ監督の世界観の話です。
多少映画を離れます。お許しください。映画を理解するために知っておかなければならない、ことばかりです。
1)海軍暗号書D
映画に出てくる、海軍少佐の暗号更新のための上海訪問は、フィクションではありません。歴史的事実に基づいています。
1941年12月4日の「海軍暗号書D」の「一般乱数表第八号」への更新のことです。
しかし映画は重大なことに触れていません。
暗号更新の背景には、10日前に日本が米国から戦争への最後通牒を突きつけられていた、という歴史的事実があることです。
2)ハル・ノート
1941年11月26日に日本は、コーデル・ハル米国国務長官から「ハル・ノート」を、突きつけられていました。
①中国から日本軍の撤退、⓶フランス占領地のインドシナ(ラオス、ベトナム、カンボジア)から日本軍の撤退、③王兆銘の南京政府の否認。
米国の権益を主張し、日本外交を全否定するものです。
コーデル・ハルはただの米国務長官です。なぜ偉そうに、日本撤退を命令したのでしょうか。
歴史的に見ると米国は、日本が日露戦争に勝利した頃(1905年)から、中国での権益そして太平洋の制海権で、日本を邪魔だと考えていました。
映画は、「ハル・ノート」の存在、米国の存在について、一言も触れていません。
「ハル・ノート」を受けて帝国海軍の機動部隊は、ハワイに向けて出発していました。
すでに戦争は始まっていました。
3)租界(そかい、concession=居留地、settlement=植民地)
映画は、上海に租界(外国人が警察・行政を管理している)があることを、当然のこととして描いています。
租界の歴史は100年以上前から始まる中国人の屈辱の歴史です。
英国はインドを侵略したあとに中国を狙い、中国人にアヘンを売りアヘン戦争を起こし、1842年に南京条約を結び、香港島を割譲させ上海その他を開港させました。
その時に租界は始まり、次第の拡張されていきます。
映画は租界を当然のものとして受け入れ、しかも中国人が、租界に住む連合国の人々の諜報戦に、積極的に協力するさまを描いています。
困ったものです。
さらに映画は、日本人と日本を、英米仏の白人の連合国と同じ侵略者で侵略国、と考えています。
とんでもない間違い。
日本は、アジアを西欧諸国の侵略から解放し、大東亜共栄圏を建設するために戦いました。
侵略者ではありません。
しかも日本軍は、ぶっきらぼうに、偉そうに、命令口調で話します。これは絵に描いたような・・・コミックです。
無表情で暴力的な日本人・・・これは人種偏見、西欧的な価値観でしかありません。
日本人の役者、オダギリジョーと中島歩の演技に文句を言っているのではありません。
米国製の「平和と民主主義」で育った若い彼らは、何も知らずに、監督に従っているだけです。
ロウ・イエ監督、申し話ありません。
せっかく初めてお目にかかれたのに、監督の世界観に問題がある、などと罵声を浴びせかけてしまって・・・。
結論的に、映画製作に立ち返って言えば、『サタデー・フィクション』に数々の疑問点があるのは、いつものプロデューサーであるファン・リー(方励)がいないから、ということにしておきましょう。
3、『兎たちの暴走』
今年の中国映画での収穫は、残念ながら『サタデー・フィクション』ではなく、『兎たちの暴走』(シェン・ユー監督 2020年)です。
エロやテロではなく、アンニュイ(倦怠)とノンシャラン(無気力)を描いた、中国で初めてのおしゃれな映画です。
この映画に、ロウ・イエ監督のプロデューサーであった、ファン・リーがついています。
時代は変わりました。
ロウ・イエ監督は世界の映画監督第1位でしたが、ついにすべり落ちることにしました。
だれを1位にするか、激戦、注目作が目白押しです。年末に決めます。
『ポトフ』のトラン・アン・ユン監督でしょうか。
『首』の北野武監督でしょうか。
・・・そしてロウ・イエ監督の新作に期待します。
End