TED TIMES 2021-18「きみが死んだあとで」 4/29 編集長 大沢達男
なぜ、ドキュメンタリー映画『きみが死んだあとで』に行った? 行かなければよかったか?
1、山本義隆(1941~)
ミーハー的な気分で山本義隆に会ってみたい。これが、ドキュメンタリー映画『きみが死んだあとで』(代島治彦監督)を観た動機でした。
元東大全共闘議長の山本義隆(1941~)は、全共闘世代のカリスマで、ヒーローで、アイドルした。東大で物理学科卒業、大学院で素粒子論専攻、湯川秀樹の後を継ぐような学者としての未来を嘱望されながら、全共闘運動のあとアカデミズムに背を向け予備校教師になりました。そして同世代が山本の名を忘れたころになって、『磁力と重力の発見(全3巻)』(2003年)を出版し、さまざまな賞を受賞し、読書界の話題になりました。劇画の登場人物のよう、カッコよかった。
伝説の山本義隆は映画の中でどうだったでしょうか。イマヌエル・カントか、小林秀雄か、哲学者を想像をしていた私は、いい意味で、全く裏切られました。大阪・大手前高校出身、なんや!大阪のオッサンやんけ。山本義隆は理知的な言葉を操るのではなく、ぶっちゃけの本音で、語る人でした。印象に残ったのは、全共闘内部でのセクトの対立に話が及んだ時に、仲間同士が相手を殲滅すると言って暴力をふるってどうすると、批判したことです。山本はセクト間の争いに心を痛めていました。
2、山崎博昭(1948~67)
1967年10月8日、羽田空港近くの弁天橋で、佐藤首相の南ベトナム訪問阻止のデモに参加していた京大生山崎博昭(当時18歳)が、機動隊により殺されます。ドキュメンタリー映画『きみが死んだあとで』は、反戦活動グループ「10.8山崎博昭プロジェクト」の協力により制作されました。兄の話から始まり、大手前高校の同級生、京大関係者の話は熱く、長編3時間20分のはあっという間に過ぎていきます。
まず、大手前高校同級生の詩人・佐々木幹郎(ささきみきろう)が面白い。同志社大の学生運動からの身の引き方がドラマチックです。佐々木はデモをやめて初めて歩いた京都の街の新鮮さに感動します。
つぎに、同級生には芥川作家の三田誠広(みたまさひろ)もいました。三田は受験戦争からドロップアウトし早大に行った自分を語ります。
そして、同級生には舞踏家になる岡龍二(おかりゅうじ)もいました。踊って見せる岡が、映画を立体的にします。
さらに、同級生黒瀬準(くろきじゅん)は、のちの劇団「四季」に在籍するのですが、羽田闘争の現場で当時を回顧し、「国際学連」の歌を歌います。♬学生の歌声に 若き友よ 手をのべよ 輝く太陽 青空を 再び戦火で乱すな 我らの友情は 原爆あるも 断たれず 闘志は火と燃え 平和のために 戦わん 立てよ 団結固く 我が行手を 守れ♬
詩人、作家、舞踏家、役者・・・偶然かもしれませんが、すべて語れる人、演ずることができる人ばかりです。だから奇跡のようなドキュメンタリー映画が成立しました。
そして、忘れられないのは大手前高校の先輩で、京大の学生運動のリーダーだった赤松英一(あかまつひでかず)です。かれはセクト間の対決を経験した人間として、武闘を振り返ります。
言葉を選びながら、言葉に詰まりながら、回顧します。しかし、最後になり、言葉が出なくなります。もうこれ以上話せない、言葉にできない。それは当然でした。重要な仲間の二人を内ゲバで失っていました。
山崎博昭さん、きみが死んだあとで、何が変わったでしょうか。あなたの最後のデモ以来、角材とヘルメットが当たり前になりました。つぎに悲しいかな、セクト対立が激しくなり、ここでもゲバルト(武闘)が必須になりました。
3、立花隆(1940~)
内ゲバとはなんであるか。映画を見ていて、立花隆のインタビューがあるといいのにな、と思いました。なぜなら、立花には『中核VS革マル 上下』(立花隆 講談社)があるからです。そこで、山本義隆、赤松英一の言葉の意味と沈黙の意味を探すため、この本を再読しました。
第1。ソ連のスターリンが1953年に没し、56年からスターリン批判が起こります。「ソ連共産党の最高指導者であるスターリン書記長は、世界の全ての革命運動の絶対の権威者であり、マルクス、レーニンとならぶ者と考えられていた」「スターリン批判が共産主義者に与えた衝撃は、(中略)天皇の人間宣言で受けた衝撃にも等しかったろう。いやそれ以上だったといってもよい」(上p.41)。
第2。そしてスターリンに暗殺されたトロっキーが再評価されるようになります。「中核派も革マル派も、”反帝・反スタ”をスローガンにしているが、これは”反帝国主義・反スターリン主義”の意味である」(上p.44)。
第3。「この両派(中核派、革マル派)はもともと革共同(革命的共産主義者同盟全国委員会)という一つの党派から生まれたものである」「69年ごろは、共闘体制をとっていたこともある」(上p.38)。
さらに暴力革命論があります。「人が罪の意識なしに人を殺せるのは、信仰の中においてだけである。我々の時代の物神化された革命概念は、革命の帰依者たちに、いかなる宗教にも優る劣らぬ強固な信仰を与えている」(上p.118)。
セクト対立の解消に知識人が立ち上がります。
「両派の闘いを、本来の党派間の闘い方に戻すこと。つまり、相互の思想闘争、運動上の競争によって、その正当性を人民大衆に理解させてゆくという方向に転換することである」(1975年6月27日、埴谷雄高をはじめとする12人の知識人による『革共同両派への提言』から三(3) 上p.175)。提言は失敗に終わり、内ゲバは続きます。
立花は最後のこう呼びかけます。1975年のことです。「お互いの思想と信仰の自由だけは保証しあうこと。もう一度くり返すが、このあまりにも明らかな大原則を守り抜くことはなしは、どちらの党派の考える革命も、退廃におちいらざるをえまい。そして革命の退廃こそ、ほんとの反革命なのである」(下p.200)。
4、代島治彦(1958年~)
代島治彦(だいしまはるひこ)は、『三里塚に生きる』(2014年)、『三里塚のイカロス』(2017年)で知られる映画監督です。監督の音楽の趣味はいい。『きみが死んでから』の音楽は、アバンギャルドなジャズです。
1967年はジャズ・ミュージックにとっても革命の時代でした。オーネット・コールマン、ジョン・コルトレーン、そしてアルバート・アイラーのフリー・ジャスです。メロディ、ハーモニー、リズム、全てで音楽は破壊され、創造されていました。
ギタリスト・大友良英が書いた音楽は、あの時代をいまによみがえらせる力があります。ジャズ評論家の富澤えいちは、この映画をいっさいの政治的な文脈関係なしに、フリー・ジャズの映画としてだけ評価しています。
反して賛成できないのは、映画の最後のシーケンス、山本義隆のベトナム・ホーチミンでのスピーチ。冒頭で山本は、「10.8山崎博昭プロジェクト」を代表して、と語っていますから、やむに止まれぬ事情があってからなのでしょうが、山本義隆がベトナムに行って喋るのは、党派性が強すぎます。幻滅です。
現在ベトナムは中国とならんで強権的政治の国として、世界の民主主義国と対立するものとして注目されています。現実に、日本にいるベトナム人女子の留学生から「ホーチミンは、嘘つきだ!」、と激しい抗議を聞いたことがあります(彼女は熱心なカソリック教徒でしたが)。それに、私が現代の世界3大映画監督のひとりと評価する、ベトナム出身、ヴェネチア国際映画祭金獅子賞受賞のトラン・アン・ユン監督は、フランスからベトナムに帰ろうともしません。おっといけねー。こんなところで党派的になっては・・・。
ドキュメンタリー映画『きみが死んだあとで』の白眉は、ラスト・シーンです。
山崎博昭が死んだ弁天橋の上に学生服姿の男が立ち、自らの上半身に故山崎の遺影をかぶらせ、山崎自身になります。雨が降っています。橋の上に立つ山崎を俯瞰で遠くから見ていたキャメラは、やがてアップで山崎をとらえます。顔になみだが溢れています。いや、ちがう。顔は雨で濡れています。学生服姿の山崎は、まるで私たちを見ているかのように、視線をそらしません。
そして、私たちは気がつきます。偉そうに映画を観ていた私たちは、映画によって逆に見詰められていたことに。あのとき、オマエはどうしていた。あれから、オマエはどう生きてきた。いま、オマエは何をしている。
私たちの心に、ノイズのようなメロディ、無調の不協和音、テンポがないリズムが、鳴り響いて・・・映画は終わります。
拍手は起こりませんでした。死者の前です。
でも観客たちは、心の中で精一杯のエールを、18歳で死んだ山崎博昭に送っていました。
山崎博昭さんのご冥福をお祈りいたします。合掌。
(end)