映画『哀れなるものたち』を見て、途方もない虚しさに襲われました。

THE TED TIMES 2024-07「『POOR THINGS(哀れなるものたち)』」 2/14 編集長 大沢達男

 

映画『哀れなるものたち』を見て、途方もない虚しさに襲われました。

 

1、『POOR THINGS』(ヨルゴス・ラモンティス監督 イギリス・アメリカ・アイルランド合作)

映画『哀れなるものたち』の原題は『POOR THINGS』(ふつうは「かわいそうに」と日本語にされる)で題名の中に「POOR」(貧しい)という単語が入っています。

ところがどっこい映画は、「wealthy」(裕福な)、「rich」(金持ちの)という言葉が似合うような、豪華なものです。

私が惹かれたのは、主人公の女性ベラ(エマ・ストーン)と旅をする男性ダンカン・ウェダバーン(マーク・ラファロ)が着ていたジャケットです。

船の中では、黄金のジャケットでした。

もちろん金ではありません。黄色と茶色の中間、絹が織り込まれているような厚手の生地の上着です。

中には同系色のタブルのベストを着ていました。

かっこいい。ダンカンの仕事は弁護士ですが、女遊びが職業のような伊達男(だておとこ)でした。

ダンカンは船の中で黒人の青年に会います。

黒人は襟に赤のスカーフをのぞかせた黒のジャケット。これもスリムな体型を想像させクール、かっこいい。

さらにダンカンは別のシーンでグレーの地に白のストライプのスーツを着ます。

弁護士といわれば、うなづかざるを得ませんが、どう見てもジゴロ(gigolo=ヒモ)にしか見えません。

スタイリッシュ。これもかっこいい。

映画のプログラムの解説ではベラのドレスが素晴らしいとありますが、私は男性のジャケットに注目していました。

「背広」という言葉は、ロンドンの紳士服街のセヴィル・ローズ(Savile Row)から、あるいは市民を意味するシビル(Civil)からです。

ジャケット、スーツといえばイギリスです。

昔、ロンドンを拠点とするメンズファッションの「トップマン(Topman)」というブランドにハマり、数年にわたりスーツを10着ほど購入しました。

いずれも満足、型紙がいい、伝統があります。以来スーツはイギリスという考えは揺らぎません。

ダンカンのジャケットに拍手です。

 

2、ヴェネチア国際映画祭金獅子賞受賞

コスチュームがリッチですが、セット(美術)もリッチでした。なかでも船のバックに見える雲が素晴らしかった。

天候が荒れ狂う寸前のドラマティックなものです。

ベートヴェンの田園交響曲の第4楽章で、突然のどかな田園が、雷雨と嵐に襲われますが、あれです。

映画で嵐はやってきませんが、恐ろしいほどの緊迫感があります。

音楽も全体を通していい。

映画の音楽はむずかしい。いい音楽を連ねても雑音になるだけ、映画は音楽的になりません。

音楽映画なのに音楽がピリッとしない日本映画『白鍵と黒鍵の間に』を見たばかりでしたので余計に印象に残りました。

映画『哀れなるものたち』の音楽の使い方に、YES!、です。

ひとことで言って映画『哀れなるものたち』の「映画IQ」は高い。

撮影、照明、美術、CG、衣装、編集、そしてMA・・・スタッフ全てがいい仕事をしています。

だからヴェネチアで金獅子賞になったのです。

***

しかし分からないものです。

LOVEと前戯のない機械的なセックス・シーン・・・エロを感じさせない性に関する露骨なトーク・・・を聞いているうちに、

初めは声を出して笑っていたのですが、急に虚しさにとらわれ始めました。

映画って何?。

私は何を見るために、ここに来ているの?。

死んだ母親の脳に彼女が産んだ新生児の脳を移植し再生させるという話。それがどうしたの?

ベラの肉体は大人なのに精神は子供。だから一緒に旅をするダンカンは精神的にゼロのベラを成長させなければならない。セックスの快楽すらも・・・。

へんてこりんな外国人ふたりの旅に、私はわざわざお金を払ってまでして、同行しなければならないの?。

・・・・・・。

映画館で、プアではないリッチな時間を過ごしていたはずなのに、その時間は音を立てて崩れ始めました。

 

3、19世紀のイギリス

ベラとダンカンは、旅の途中でアフリカのアレクサンドリアに寄航します。

そしてベラは、現地の人々の悲惨な生活を目撃し、ダンカンがギャンブルで手にした巨額の金を、プレゼントするというシーケンスがあります。

そのあたりで、私の神経はプチンと、切れたました。

映画の舞台は19世紀後半のイギリスです。

おいおい、イギリス人よ、あのころ君たちは、アジアで何をしていたのだよ。

いまさらヒューマニストぶって、自由だと平等とか、やめてくれ。

私は心の中で怒鳴り始めていました。

イギリスは1600年から東インド会社を設立しインド人を搾取してきました。

1857年のインド大反乱セポイの乱)では、老人・女子・小児などを血祭に挙げ、ムガル帝国を滅ぼし、イギリス領のインド帝国を成立させています。

イギリスは中国でも、中国人をアヘン中毒にし、1842年の不平等条約南京条約をむすび、中国国家を解体しています。

なぜそんなことをしたか、イギリス人は「科学的に正しい」ことをしただけです。

「北欧系に比べて、ほかの『人種』は知能能力は低い」。「動物の品種改良ができるなら、人間の品種改良もできる」。

19世紀のイギリスは、ダーウィンの『進化論』を生み、「優生学」で世界に冠たる「科学」の国でした。

映画はエンディングでなんでも銃で命令する紳士を登場させます。あれこそがまさにイギリス人でした。

「POOR THINGS(かわいそうに)」で「POOR DEVIL(哀れな人)」です。

***

ところで私はスーツを数着持ち、いまだに伊達男やジゴロに憧れています。

現在の世界では背広が標準服で、着ないのはインド人とアラブ人です。

私と私たちの知らない未来が、世界を待ち構えています。

 

 

 

 

 

チャールズ・ダーウィン(1809~1882)の進化論から、英米の帝国主義、そしてマルクス主義が始まりました。

THE TED TIMES 2024-06「進化論」 2/7 編集長 大沢達男

 

チャールズ・ダーウィン(1809~1882)の進化論から、英米帝国主義、そしてマルクス主義が始まりました。

 

1、英国

<英国のインド進出では、武力だけではなく、インド教徒と回教徒、藩王藩王、ジャット人とラージプト人、ブンデラ人とロヒラ人、仲間同士を戦わせました。

1857年のインド兵叛乱では、英国は残忍酷薄な行為を行っています。

「土民の老幼男女を屠った」、「老人・女子・小児なども血祭に挙げられた」。

大英帝国において、インド農民以上に悲惨なるものはない。彼は一切を絞り取られてただ骨のみを残している」

さらに英国は、中国(支那)で絹織物と茶を買い。代金を阿片で払います。

中国人は阿片中毒に、中国は経済的財政的危機を迎えます。

1839年、中国は林則徐に取締りを命じますが、英国は勝利し、1842年不平等条約南京条約を結び、中国国家を解体します。

「すべての支那将校を海賊や人殺しと同じく、英国軍艦の帆桁にかけよ。人殺しの如き人相して、奇怪な服装をなせるこれらの多数の悪党の姿は、笑うに耐えざるものである。

支那に向かっては、イギリスが彼らより優秀であり、彼らの支配者たるべきものたることを知らしめなければならぬ」>(『米英東亜侵略史』(大川周明 土曜社)からの要約)。

なぜ英国は、インド人と中国人に対して、こんなに非道いことをしたのでしょうか。

英国人は「科学的に正しい」とことをしたまでに過ぎません。

「北欧系に比べて、ほかの『人種』は知能能力は低い」(『ダーウィンの呪い』 千葉聡 講談社現代新書 p.194)。

「動物の品種改良ができるなら、人間の品種改良もできる」(p.190)

知能指数の低い、インド人・中国人は絶滅する運命にある、と科学的に信じていたからです。

2、米国

<「およそ150年以前から(中略)世界は白人の世界であるという自負心が昂(たか)まり、欧米以外の世界の事物は、要するに白人の利益のために造られている思想を抱き、いわゆる文明の利器を提(さ)げて、欧米は東洋に殺到し始め」ました。

そんな中で、1853年ペルりのアメリカ艦隊が浦賀湾に乗り込み、通商開港の条約締結を求めてやってきて、翌年の正月、やむなく幕府は長崎の他に、下田・函館を開く約束をします。

日清戦争(1894~5)で支那の無力が暴露され、帝国主義支那を略奪の対象とするようになります。

アメリカの東洋政策も変わります。

太平洋を支配するものが東亜を支配する、アメリカは日本の勢力圏である満蒙を進出の目標にします。

1905年ポーツマスで日露の講和談判が進行している最中アメリカの鉄道王ハリマンが、日本のものとなるべき南満州鉄道を買収しようとし、桂首相との間に覚書を成立させます。

驚いた小村寿太郎がこれを取り消しにします。

アメリカは満鉄、シベリア鉄道で世界一周船車連絡路を築こうとしていました。

ハリマン計画の失敗で、アメリカは日本が東洋進出の障碍であると考えるようになります。

アメリカは日本人排斥を始めます。

1906年にサンフランシスコの小学校から日本少年を放逐し、1907年に数十人のアメリカ人が日本人経営の商店を襲撃します。

加えて1911年加州議会で日本人土地所有禁止の法律が成立します。さら加州排日協会は、日本人の借地権を奪う、写真結婚の禁止、米国が排日法を制定する、日本人に帰化権を与えない、日本人の出生に市民権を与えない、以上を決議をします。

日米両国の政治的決闘が始まります。

アメリカは、1921~2年のワシントン会議で、第一に日英同盟を廃棄させ、日本を国際的に孤立させ、第二に日本海軍の主力艦を米英の6割に制限することに成功します。

「繰返して述べたる如く、米国の志すところは、いかなる手段をもってしても太平洋の覇権を握り、絶対的に優越たる地歩を東亜に確立するに在る。そのために日本の海軍を劣勢ならしめ、無力ならしめ、しかる後に支那満蒙より日本を駆逐せんとするのである」>(『米英東亜侵略史』(大川周明 土曜社)からの要約)。

そして1941年12月8日の開戦なり、1945年8月15日の終戦になります。

米国の日本に対する態度も、米国人が科学的に正しいと考えてしたことに、他なりません。

「奴隷は人間ではない。堕落した民族、依存的な民族、異質な民族が我々の国境内に存在したとしても、それらは合衆国の一部ではない。彼らは社会問題であり、平和と福祉に対する脅威である」(p.226)。

「この法律は日本で排日移民法と呼ばれてきたものだが、必ずしも日本からの移民を排除しようとしたものではなく、その本質は遺伝的に劣った「人種・民族」の移入阻止を目的とした優生思想である(p.234)。

3、マルクス

「『優生学とは、民族の先天的な資質を向上させるあらゆる効果を研究する科学』」(p.190)。

ギリシャ時代から優生思想はありました。紀元前4世紀のプラトンはこう言っています。

「上流階級の市民のうち良質と評価された男女だけが結婚し、それ以外は繁殖を禁じす。質の低い者は下層階級に追放する」(p.254)。

さらに近代になってからも近代オリンピックの父ピエール・ド・クーベルタン(1863~1937)が言っています。

「スポーツよ。あなたは豊穣だ。あなたは種族の完成に向け、真に高貴の努力し、不健康な種子を破壊し、その純粋さを脅かす傷を癒す」(p.278)。

そしてカール・マルクス(1818~1883)も社会進化論を展開しています。

「アジア的・古代的・封建的・および近代ブルジョア的生産様式が、経済的社会構成体のあいつぐ緒時期として表示されうる」(『経済学批判・序言』 カール・マルクス)。 

マルクスニュートン(1642~1727)の天体法則のように、社会変動の運動法則を発見し、自らの理論を「科学」としました。

さらにマルクスの理論にダーウィンの進化論を取り入れています。

ダーウィンは、(中略)動植物の諸器官の形成に関心を向けた。社会的人間の生産的諸器管の形成史、それぞれの特殊な社会有機体の物質的基礎の形成史も同じ注意に値するのではないか」(『マルクス・エンゲルス全集』23a p.487)。

進化論と優生学の影のある「科学的思想」は科学ではありません。

加えてマルクスは日本に対してたった1行ですが差別的な記述を残しています。

「日本でも、生命条件の循環は、もっと清潔に行われている」(『資本論』(三)p.303 向坂逸郎訳 岩波文庫)。

イングランドの労働者の劣悪な生活描写の後に出てくる、突然の日本そして日本人を奴隷扱いしたような、この記述は一体何なんでしょう。

 

篠山紀信、荒木経惟、坂田栄一郎の時代の終わり。なんだか自分も終わるようで、怖い。

THE TED TIMES 2024-05「篠山紀信」 1/29 編集長 大沢達男

 

篠山紀信荒木経惟坂田栄一郎の時代の終わり。なんだか自分も終わるようで、怖い。

 

1、篠山紀信(1940~2024)

篠山紀信さん(以下敬称略)が1月4日に亡くなりました。

残念です。私は電通のクリエーターでしたが、なぜか篠山紀信と仕事をすることがなく、そのまま終わってしまいました。

でも電通を辞めフリーになってからの事務所が、港区元麻布の篠山紀信の自宅のすぐそばにありましたので、いつも一緒ような気がしていました。

篠山といえば「オレレ・オララ」(1971)です。

リオのカーニバルの写真です。私はクリエーターになって間もない頃ですが、写真の迫力に圧倒されました。

写真家が身体ごと被写体にぶつかっていました。

写真への興味を開眼させられ、それ以来写真家といばまず篠山紀信と考えるようになりました。

16歳の宮沢りえを撮ったヘア・ヌード写真集「サンタフェ」(1991)があります。篠山は期待を裏切りませんでした。

写真評論家飯沢耕太郎篠山紀信を「時代のプロデューサー」と表現していますが、まさしく篠山紀信は時代を作りました。

そしていま、「三島由紀夫の家 篠山紀信」(1995年 美術出版社)を手に取っています。書棚から、偶然見つけました。

とんでもない写真集です。いかなる三島由紀夫へ追悼文や評論より優れています。

住宅の全景から、庭のアポロンの彫像を見ながら、玄関を入り、置物、椅子、家具、2階へ膨大な蔵書、書斎、執筆に使った机、そして3階へ窓から東京の景色を見せて、お仕舞いという構成です。

いちばん目を引くのは、三島が執筆に使っていた机が粗末な事務机であることです。家屋全体が装飾が多いものだけに印象的です。

「書斎は作家の頭脳であり心臓部であり、芸術家のもっとも神聖な秘密を宿した奥部である・・・」(篠田達美 p.215)。

私自身が三島の机に座り、万年筆を持ち、原稿用紙に文字を連ねている、ような気分になります。

写真集の中に、三島が客を接待したり、椅子に座ったり、書斎で電話に出たりの写真が出てきますが、それらはぜんぶ、三島家のアルバムから篠山が複写したものです。

篠山自身が三島を撮った写真は1枚だけです。でも家と家具と置物を撮るだけで、三島由紀夫のその息遣いまでが写っています。

篠山紀信は、戦後最大のスキャンダラスの芸術家三島由紀夫の精神を、撮影することに成功しています。傑作です。

そういえば思い出します。元麻布の篠山さんの自宅前を通ると、よくマリファナを吸っている匂いがしました。

あれは篠山さんの家からだったのしょうか。間違えていたらごめんなさい。でも違法の篠山が好きです。

ご冥福をお祈りします。

 

2、荒木経惟(1940~)

荒木経惟の方が半年だけ篠山の先輩です。

篠山は芝中、芝高、日大のまあお坊ちゃんですが、荒木は上野高校千葉大の秀才です。

荒木経惟電通の先輩で、電通時代で最後の高知ロケに一緒に行きました。

荒木はやっぱり天才でした。

乗った飛行機はYS-11でした。飛行機の中から荒木は全開でした。

窓から地上を眺めベラベラ喋りながらシャッターを切っていました。湖が見えると「青い精液だ」パシャ!。

飛行機を降りて電車に乗っても同じです。

「いいか電車が止まったらシャッター押すからね。撮り手の意思から解き放たれた写真。傑作が生まれる」カシャ!。

さらに旅館に入ると大騒ぎ。女中さんが現れると、「そう、それそれ!旅情だよ。襖のところに立って、いいねえ」パシャパシャ!

そして食事の後はストリップに行きました。コートの下にカメラを隠して、いざとなれば、すぐに撮れるようにしていました。

「ヤクザに見つかると、うるせ~から」「やつらに甘く見られないように、靴だけは最高級を履くんだよ」「いざという時、効くよ」。

荒木の出世作で最高傑作の「センチメンタルな旅」は電通時代の作品で1000円で買いました。

先日古本屋に売りました。なんと20万円。

しかし売るまで時間がかかりました。なぜなら買主は、USAだから。荒木のコレクターは世界です。

先日、香港で英語版の「ARAKI」を買いました。内容は全作品集のようなものです。

荒木は商売でも天才。日本では出版できない写真がたくさん入っていました。コート中のカメラから撮った写真です。

そういえば、羽田空港YS-11を見送りにきた奥さんの「陽子さん」の写真を私は撮っています。

もし、荒木さんお元気でしたら、ご連絡ください。

お売りします(笑)。

 

3、坂田栄一郎(1941~)

坂田は広告の制作会社ライトパブリシティで篠山の後輩です。

坂田は京北高校から日大出身、しかも大手飲料会社重役のお坊ちゃんです。

競馬が好きです。なぜなら、馬主席に入れるから(金持ち!)。

坂田とはアメリカのリチャード・アベドンのところから、日本に帰ってきた時からの付き合いです。

「アベドンは、コレだから(手のひらをほほのところで斜めにかざし)、タイヘンだよ(お尻を手のひらで覆う)」(聞いていたスタッフは笑う)。

坂田はいつもハッピーでした。背も高く、スラっとしていて、スタイリッシュでした。

坂田の代表作は「LOVE CALL」(坂田栄一郎 朝日新聞出版 2008)です。

1988年から20年間、週刊誌「アエラ」の表紙写真です。

その真骨頂は外国人の写真にあります。

レナード・バーンステイン、カストロアイルトン・セナアラファトゴルバチョフサッチャータイガー・ウッズカルロス・ゴーン・・・など。

カストロの時はヒドかったよ。自民党の誰だかが入っていきて、5分で撮れって、言ってきたんだよ」

「5分で撮れるわけないでしょう!お偉いさんを怒鳴りつけたよ」

「そしたらそれを聞いていたカストロがニヤニヤして・・・修羅場を経験しているからわかるんだよ」

「撮影はもちろん、うまくいったよ」。

私はサッチャーの写真が好きです。少女のようです。

日本でもいい人がいます。石原慎太郎堀江貴文佐藤琢磨・・・国際的な人は皆いい。

「日本人って、スタジオ入ってくると、構えちゃうでしょ。外国の人は、ハーイ!とか言って、フレンドリーでしょ。全然違うんだよね」

まあ、坂田栄一郎しか、アエラの仕事はできませんでした。

50年以上昔、初めて坂田と仕事をした時、彼だけスタッフの弁当を食べませんでした。

自分でランチボックスを持ってきていたのです。

70年代の初めです。69年にアメリカではウッドストックのロックフェスがありました。

ヴェジタリアン、ビーガン・・・、日本の私たちは、そんな流行を知る由もありませんでした。

エーちゃん、あのとき、ランチボックスには何が入っていたのですか。

***

荒木、篠山、坂田の前の世代写真界の巨匠、操上和美(1936~)、鋤田正義(1938~)、森山大道(1938~)は、みな元気です。

しかし篠山紀信は突然死にました。そして、荒木経惟の、坂田栄一郎の、噂を聞きません。

私も終わりなのでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「銀座の終わり」と「ジャズの誕生」を描いた映画『白鍵と黒鍵の間に』。

THE TED TIMES 2024-04「映画『白鍵と黒鍵の間に』」 1/22 編集長 大沢達男

 

「銀座の終わり」と「ジャズの誕生」を描いた映画『白鍵と黒鍵の間に』。

 

1、「アキラのズンドコ節」

70年代に、銀座日航ホテル(今はない)の地下で、ピアノ弾きのバイトをしていた坂本龍一が、当時を回顧して語っています。

<演歌をリクエストされると、バイトを終わった後もしばらく間、そのメロディが頭に残ってしまって、仕事にならなかった>。

映画『白鍵と黒鍵の間に』も同じです。

映画が終わって印象に残ったのは、親分A(熊野)が歌った「アキラのズンドコ節」だけに、なってしまったからです。

<銀座で小林旭はヘンだ、石原裕次郎だよ>。<原作では村田英雄の「王将」だったのに>。<そもそも「アキラのズンドコ節」は2003年リリースだから、映画が描いた1986~9年の銀座で歌われるのはおかしい>。

私は分けの分からぬことを考え始めていました。

しかし映画にとって、こんなことはどうでもいい、ことでした。映画は極めて観念的に「銀座の終わり」と「ジャズの誕生」を描いていました。

 

2、銀座

服部時計店を背にしてまず第一歩を踏み出す。晴海通りを渡り、右に曲がってすずらん通り方に左折、しばらく行ってみゆき通りを右折。その先の界隈が、僕が毎晩いた思い出の場所である」(『白鍵と黒鍵の間に』 p.183 南博 小学館)。

映画『白鍵と黒鍵の間に』の舞台は、鳩居堂ソニービル(今はない)、銀座電通、ライオンビアホール(交詢社通りの向かい)に囲まれた、銀座の四角形の中にあります。

四角形の頂点の古いビルの撮影は銀座描写には不可欠ですが、映画には出てきません。

そして銀座に欠かせない飲食の場所すらも登場しません。

まずそばの「よし田」。四角形から新橋側にちょっとだけ飛び出しますが、銀座で仕事をする人々が夕方になると集まり、食事をする場所でした。

とんかつの「とん通」(いまはない)、とんかつの「梅林」(昭和2年創業)、そして焼き鳥屋の「とり銀」も出てきません。

太宰治が飲んでいた「ルパン」、都知事美濃部亮吉(とんでもない革新知事)がランチを食べていたフランス料理「エスコフィエ」、となりの通りの「三笠会館」の看板すらも出てきません。

映画の中でバンドマンのたまり場として「ボストン」は、みゆき通り「風月堂」のそばのはずですが、どうしても思い出せません。

「ボストン」が実在していたとしても、映画で描かれているような場所は、銀座にはありませんでした。

あくまでも映画のコンセプチュアルな設定です(撮影に使われた町田のジャズ・バー「ノイズ」は客としてお世話になっているので、あまり突っ込みたくないありませんが)。

さらに映画にはクラブのホステスさんが登場しますが、当時の銀座を忍ばせるホステスさんがいません。

銀座のホステスさんは、ファッションモデルよりファッショナブルで、喋りは威厳のあるインテリでした。彼女たちが銀座のファッションを作り、日本の流行を生み出していました。

残念です。映画『白鍵と黒鍵の間に』には、銀座が撮影されていません。

でも映画は、銀座を描こう、などとハナから思っていません。

 

3、「奈落の底」

1)始まり

舞台は1980年代後半(1986~9)の銀座です。「ヒロシ(博)」がキャバレー(交詢社通り?)のピアニストとしてデビューします。

ある日キャバレーで銀座を二分するヤクザの「親分B」(あいつ)から映画「ゴッドファーザー」の『愛のテーマ』をリクエストされ弾きます。しかしこの曲は、銀座を二分するもう一人のヤクザの「親分A」(熊野)だけが、銀座で聴くことができる曲でした。

それを知らずにやってしまった「ヒロシ」の演奏は事件になります。

2)クラブ

「ミナミ」はあることからキャバレーのピアニストからクラブ(みゆき通り?)のバンドのピアニストに採用されることになります(「ヒロシ」は「ミナミ」に)。

そこはなんと『愛のテーマ』を聴くとこができる「親分A」(熊野)のシマで、「親分A」が馴染みの客でした。

クラブには外国人の女性歌手がいました。彼女はいつも客が演奏を聞いてくれない、と嘆いていました。「ミナミ」は、所詮ジャズ・バンドは店の飾り、花瓶のような存在だと諭すのでした。

3)最後の日

銀座最後の日がやってきます。

「ミナミ」はボストン・バークリーへの留学を決心していました。

女性歌手がそれにはデモテープが必要だとアドバイスし、クラブの演奏をラジカセで録音することにします。しかし店には最高の顧客である演歌が好きな「親分A」もやってくる。許されるだろうか。

ドラマは急展開します。

かつて「ミナミ」に『愛のテーマ』を弾かせた「親分B」(あいつ)が、懐かしのキャバレーに行き若いピアニスト「ヒロシ(博)」(一人二役、非常に分かりにくいところ)に、昔と同じように弾いてくれと『愛のテーマ』をリクエストします。

そして『愛のテーマ』を弾いたピアニストは、現在はクラブ(みゆき通り)のバンドのピアニスト「ミナミ」になっていることを知り、「親分B」(あいつ)は「親分A」(熊野)がいるクラブに乗り込んでいくとになります。

4)奈落

クラブでは「親分A」(熊野)が「アキラのズンドコ節」を歌っていました。

「親分A」(熊野)と「親分B」(あいつ)が対決します。殺し合いになります。もちろん「ミナミ」も巻き込まれます。そしてみんなは、デモテープも、ビルから奈落の底に転落していきます。全ては終わります。

しかしドラマはここから・・・奈落の底で死者たちは復活し、「ミナミ」も浮浪者として復活し、母に巡り合い「母子手帳」を受け取ります。それはハシカの接種証明書として渡米には不可欠のものでした。

「ミナミ」はジャズのアメリカへ、ピアニストになるためにボストン・バークリーへ行くことになります。

***

原作の南博はピアニストとして掛け持ちしていて、クラブSとクラブRの2軒の間は歩いて5分とかからないところだ、とあります。

疑問があります。

映画では、「どこに」クラブがあったのか、描かれていません。

映画で、親分B(あいつ)が「愛のテーマ」をリクエストしたキャバレーを小説のクラブR(交詢社通り)、親分A(熊野)が歌ったクラブをクラブS(みゆき通り)と想像するしかありません。

そしてもう一つの疑問。

映画はビルの谷間の「奈落の底」を描きますが、現実の銀座にあんな場所があるのか、です。

つい先日、銀座の四角形の中をくまなく歩きました。ビルの谷間はありましたが、浮浪者が住めるような空き地はありませんでした。

「奈落の底」は、ロケハン(シナハン)をしていて監督が思いついた、これも現実にはないコンセプチュアルな設定です。

そして再び、思います。

映画は現実の銀座など問題にしていない。

映画は、「銀座の終わり」の象徴である「奈落の底」から始まり、「ジャズの誕生」の象徴である浮浪者の主人公ミナミ・ヒロシが住んでいる「奈落の底」で終わります。

映画のエンディングになる奈落の底で、南博が言ったセリフが印象的です。

<戦争したり、地球環境を壊したり、只々糞を垂れて死んでいくだけではいやだから、僕は人間にできうる何か美しいものをこの世に提供したいと願う>(『白鍵と黒鍵の間に』 p.113)。

***

南博を弁護します。映画がキーとして取り上げたのは、南博がバンドを始めたばかりの頃に考えた「青い」言葉です。

それから20年後南博は、「ジャズは生き様。バークリーの栄光も、銀座の暗黒も、私。」(p.185)の趣旨のことを言っています。こちらの方が「ジャズの誕生」にふさわしい。

 

4、ギンザ・ポスト・ギンザ

現実の南博(1960~)が、銀座にやってきた頃(1986~9)に、銀座は終わりを迎えていました。

1980年代の末に銀座で重大事件が起りました。中華料理屋「東興園」の火災です。

東興園は、先ほどの四角形からちょっと外れた、銀座電通前で電通通りを挟んで日経金ビル(現ヒューリック)の裏の路地にありました。

映画監督小津安二郎(1903~1963)が愛した店でした。

小津は「深川」、女将さんは「浅草」、二人は気が合いました。

映画『東京物語』の撮影の時には女将さんが、東京駅で仕事をする撮影クルーに、シューマイを差し入れました。

小津が「東興園」に通っていた20年後に、「本所」生まれの私も、「シューマイ・ライス」を食べに通い、いつも特製スープをサービスしてもらっていました。

「東興園」だけが銀座なのに下町でした。

電通にクリエーターとして入社したばかりの私は、ほのかに少女の面影があるわずかな異形で、女将さんは「小津のような活躍をする」と将来を保証してくれていました。

火災には地上げ屋の放火の噂があります。

だとすると、「親分A」、「親分B」のどちらかが関与していたはず・・・。

「東興園」の焼失で銀座は終わりました。

そして私も電通を退職し、フリーランサーになり、銀座を離れます。2002年には電通も汐留へ、銀座を離れます。

そして決定的なことが起こります。

2015年にそばの「よし田」(創業明治18年)が閉店します。

「よし田」は160席、3階まである大きなそば屋でした。

19世紀のフランスの画家エドゥワール・マネ(1832~83)の絵画「フォーリー・ベルジールのバー」があります。

「よし田」の客は、あの絵に描かれた客にそのものでした。

銀座のキレイどころ、会社の重役、ボーイ、バンドマン・・・そして富裕の人々。

「よし田」の閉店は、銀座の終わりの象徴でした。

映画『白鍵と黒鍵の間に』が銀座を描かなかったのは必然です。

原作が、「ジャズ喫茶」と「ジャズクラブ」を失った「ジャズ・ポスト・ジャズ」の銀座を描いたように、

映画は、「東興園」と「よし田」を失った「ギンザ・ポスト・ギンザ」(銀座が終わった後の銀座)の物語でした。

 

5、「銀座の恋の物語」

映画『白鍵と黒鍵の間に』のかんじんの音楽について触れませんでした。それは「ジャズピアニスト・エレジー 南博 ライブアット新宿ピットイン」(2月3日)を聴いた後にしましょう。

冒頭に触れた「アキラのズンドコ節」(2003年)は当時の歌ではありませんでした。

あの頃の銀座で本当にヒットしていた歌がありました。石原裕次郎の「銀座の恋の物語」(1886年 映画は1887年)です。

もし・・・親分A(熊野)が「銀恋(ギンコイ)」を歌っていれば・・・映画は全く違う印象になっていました。

ゴッドファーザー』のマーロン・ブランドアル・パチーノ、そして任侠映画鶴田浩二高倉健(二人は歌もうまかった)に負けない、二人の親分が造形され、銀座伝説が生まれていたはずです。

そしてその映画は、エルメス(旧ソニー・ビルの隣)、ジュルジュ・アルマーニ(洋書店イエナ、近藤書店があった)、ルイ・ヴィトン(南博の仕事場あたり)、バーニーズ・ニューヨーク(交詢社ビル)に占領されてしまう前の、「銀座の終わり」の名画になった・・・

そこまでは言いますまい。

(終わり)

 

 

 

 

 

 

だれが、なにが、新聞の代わりを、やってくれるのでしょうか。

THE TED TIMES 2024-03「新聞の終わり」 1/15 編集長 大沢達男

 

だれが、なにが、新聞の代わりを、やってくれるのでしょうか。

 

1、「朝日の最下位」事件

まったく私的な会合ですが、「元旦社説ランキング」というイベントを、数年続けてやっています。

正月に6人の一家言持った老人が集まり、東京で発行されている6紙の元旦社説を読み比べ、評論しランキングをつけるという催し物です。

集まった6人とは東京6紙での元論説委員2人、東京キー放送局元政治部記者1人、野党党首元秘書1人、元大手広告代理店クリエーター1人、元広告代理店経営者で元学生活動家1人の6人です。

今年の「元旦社説ランキング」で事件が起こりました。朝日新聞が6紙の最下位になってしまってのです。

1)東京 2)産経 3)日経 4)読売 5)毎日 6)朝日。

普通、東京6紙といえば、朝日、毎日、読売、日経、産経、東京と言われますが、ちょうどその逆に順番になりました。

遊びの催し物とはいえ、ショッキングでした。

 

2、朝日と毎日の社説

朝日新聞(見出し「暴力を許さね 関心と関与を」)

ウクライナ、ガザ、ミャンマースーダンで戦火が激しく、「警察官」(米国)を失った世界は不安定化した。ガザに住む朝日の通信員ムハムド・マンスールさんは、まず水、そして薬、食糧、燃料の支援が必要だという。パレスチナイスラエルの互いの憎悪の深さに驚かされる。ウクライナとガザの戦争からの教訓がある。まず戦闘が始まれば止められないということ。国連も機能不全、しかし国連を見限るわけにいかない。つぎに戦争には憎悪と不信の蓄積があること。ロシアの侵略は10年前から、パレスチナイスラエルには長年にわたり壁やフェンスが築かれていた。理不尽を見過ごさない、争いの芽を摘む関心と関与を。

 

毎日新聞(見出し「二つの戦争と世界 人類の危機克服に英知を」)

欧州と中東の戦争は「人類の危機」だ。対テロ戦争を始めた米国が20年後のアフガンから撤退したように軍事力で対立は解消できない。まずは停戦で死傷者を減らすことである。国際社会の脆弱性が露呈しているいま、国家中心から人間中心の視座に転換しなればならない。世界人権宣言の精神である。国際司法裁判所(ICJ)そして「法の支配」。さらにもうひとつは国家に対して市民が声を上げることである。長男を戦闘で失ったイスラエル人母親すらが、パレスチナ人との共存の未来を望んでいるではないか。欧州の移民規制のような排外主義は許されない。多様性の尊重である。人類の危機には他者との共生の道がある。

 

二つの新聞とも、ウクライナとガザがテーマで、戦争に対してどうするのかを論じています。

朝日は紛争(暴力)の芽を摘む関心と関与を持たなければならないと警告し、毎日は人間中心・市民中心・他者との共生を説いています。

なぜ不評だったのでしょうか。まずテーマ設定が悪い。日本がどう関与すべきなのか、政権は何をすべきかなのか、外交的なテーマを論じられていません。

抽象的で高踏的な人道問題で終わっています。

横田めぐみさんの拉致に、イスラミックステイトの後藤さん湯川さん虐殺に、さらにはアフガニスタンでの中村医師の銃撃に、朝日と毎日は現状を変える力になり、メディアとしての責任を果たしたでしょうか。

さらに北朝鮮のミサイル発射に、中国の南沙諸島、台湾、尖閣への進出に、ロシアの北方領土問題の棚上げに、朝日が言う「暴力の芽を摘む関心と関与」が、毎日が言う「人間中心・市民中心・他者との共生」が説得力を持ち、有事を阻止する力になるでしょうか。

発行部数減少に悩む朝日と毎日は、日清、日露、大東亜の夢再び、戦争による発行部数増大に、期待をしているのではないでしょうか。

無責任な「平和と民主主義」議論は、論説委員と筆者の力不足以外の何物でもありません。

 

3、リベラリズムの終わり

新聞の発行部数の減少、新聞は読まれない、新聞記者の質の低下、新聞の終わりの時代が近づいています。

今回の「朝日の最下位」事件で明らかになったのは、朝日・毎日が続けてきた戦後の「平和と民主主義」の時代の終焉です。

朝日は戦後GHQより発行停止処分(1945.9.18)を受け、それ以来自己検閲によりGHQの機関紙になっていきます。

「兵器の戦争」は終わりましたが、米国は日本の歴史と伝統を全否定する「文化の戦争」を仕掛けてきました。

万世一系天皇と祭祀共同体の日本に、「日本国憲法」、「東京裁判」(靖国神社批判)そして「太平洋戦争」(大東亜戦争ではない)という用語で、リベラリズムの戦いを挑んできました。

リベラリズムとは、自由、平等、人権のいわゆる「戦後の平和と民主主義」です。

たとえば憲法13条には「すべての国民は、個人として尊重される。生命、自由及幸福の追求に対する国民の権利については・・・」とありますが、これは米国独立宣言の丸写しです。

独立宣言には「すべての人間は生まれながらにして平等であり、その創造主によって、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられている」とあります。

気をつけなければいけないのは、キリスト教の神によって、権利が与えれれていることです。つまり異教徒は、この限りではありません。

現在の国際紛争のほとんどは一神教の争いです。そしてリベラリズムとはアングロサクソン核家族イデオロギーでしかありません。

日本は「兵器の戦争」だけなく「文化の戦争」でも敗れ、民族としての誇りを失い人口減少で、30世紀初頭には地球上から姿を消そうとしています。

「朝日の最下位」事件の真相は、平和と民主主義の時代の終わり、とリベラリズムの終焉です。

私たち日本人が、日本人に還るとき、日本の新たなスタートを切るとき、がやってきました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『白鍵と黒鍵の間に』(小説:南博 小学館 )は「ジャズ ポスト ジャズ」の物語です。

THE TED TIMES 2024-02「ジャズ」 1/8 編集長 大沢達男

 

『白鍵と黒鍵の間に』(小説:南博 小学館 )は「ジャズ ポスト ジャズ」の物語です。

 

1、ジャズは終わった

『白鍵と黒鍵の間に』(南博 小学館)は、1987~9年の銀座を舞台にした、ジャズピアニストの物語です。

その20年前、1967年にジョン・コルトレーンが亡くなったとき、ジャズ評論家の相倉久人は「ジャズの死」と宣言しました(『あなたの聴き方を変えるジャズ史』 p.191 村井康司 シンコーミュージックエンターテイメント)。

じゃー残されたジャズプレーヤーはどうなるんだ。マイルスがいるじゃないか。

コルトレーン以降のジャズはどう評価すればいいのか。コルトレーンを知らない若いジャズファンは何を聞いていることになるか。

さまざまな疑問がありますが、相倉の予言は正しかった。まさしくコルトレーンの死で、ジャズは終わりました。

 

それは、東京の街を見ればわかります。

60年代後半から70年代の新宿は、ジャズ喫茶の街でした。

思い出せるだけでも、「ビレッジ・ヴァンガード」、「ジャズ・ヴィレッジ」、「木馬」、「ポニー」そして「DIG」がありました。

私が通ったのは、一番過激な「ジャズ・ヴィレッジ」です。

四角のスペースは、床、壁、天井すべて真っ白に塗装され、テーブルや椅子はなく、壁に沿って打ち付けられた板(ベンチ)の上に座る、捕虜収容所、犯罪者の取り調べ待合室のようでした。

ジョン・コルトレーンアルバート・アイラーオーネット・コールマンをやっていました。無名の作家の中上健次が客として通っていました。

渋谷も同じです。道玄坂・百軒店(ひゃけんだな)に、「オスカー」、「DIG」、「ありんこ」、「スウイング」など数軒のジャズ喫茶がありました。

私のお気に入りは「DIG」でしたが、レコード盗難事件で閉店しました。そして69年からロック喫茶の「ブラック・ホーク」になりました。

時代は変わりつつありました。ジャズからフォークへ、ロックへ。そこで私はブリティッシュ・フォークの「ペンタグル」を聴いたことを覚えています。

銀座には。「69(ローク)」、「XXX」(ピアノがあった地下の店。名前を思い出せない)・・・数軒のジャズ喫茶がありました。

ビルの中に立派なライブができる100席ぐらいの「YYY」(これも名前を忘れてしまいました)がありました。

さらに東銀座には伝説のジャズ喫茶「オレオ」がありました。

現在では、新宿、渋谷、銀座にあったジャズ喫茶はすべて姿を消しています。わずかに新宿の「DUG」(「DIG」の後継店)と「The Old Blind CAT」を残すのみです。

「ジャズの死」には、いろいろな説明がありますが、「ジャズ喫茶の消滅」がいちばん象徴的です。

『白鍵と黒鍵の間に』の時代にはジャズは終わっていました。

だからドラマの主人公のジャズ・ピアニストである南博(みなみひろし)は銀座のナイトクラブに仕事を探すしかありませんでした。

 

ライブができるところが、新宿の「ピット・イン」しかなかったいうのも象徴的です。

「ピット・イン」は1965年オープンですが、その名の通りカー用品のお店でした。

なんか、ガソリンの臭いがしそうで、コーヒーがまずそう。私たちは近寄りませんでした。

そしてこんなことを言うと笑われますが、ジャズ(貧乏)とクルマ(金持ち)は、ほとんど反対語でした。

さらにジャズを聴くとは哲学すること自らを問うことで、クルマで湘南や伊豆に女の子と出かけるのとは違うことでした。

北野武は新宿の「ヴィレッジ・ヴァンガード」でバイトをし、コルトレーンを聴きながら自分の人生を模索していました。

ヴィレッジ・ヴァンガード」のボーイ仲間の永山則夫は、アルバート・アイラーを聴き、結論としてテロリストになり、連続射殺魔として死刑になっています。

ジャズの60年代後半~70年代は、学生運動実存主義の時代でした。ジャズを聴くとは人生を問うことでした。

そこにジャズ(プロレタリアート)とクルマ(ブルジョワ)のミスマッチの「ピット・イン」が登場したわけです。

チャンチャラおかしい。

でもいまになって冷静に考えれば、『白鍵と黒鍵の間に』の南博が憧れた「ピット・イン」は、ジャズが終わったあとのジャズ「ジャズ ポスト ジャズ」の象徴でした。

 

2、ジャズの街だった銀座

60年代後半から70年代の銀座はジャズ喫茶だけなくジャズ・ライブの街でした。

CMクリエーターとして銀座(入社は築地・電通、その後銀座・電通)に勤めていた「私のジャズ体験」があります。

まず佐藤允彦(1941~)が1969年か70年に銀座のジャズバー「XXX」でピアノを弾いていました。

佐藤は1966~68年にバークリーへ留学していますから、帰ってきたばかりでした。

なにげにお店に入っていたら、佐藤允彦が弾いていた、銀座の住人には当たり前のことでした。

佐藤をバークリーに行く前にも聴いています。

64年か65年でしょう。銀座ではなく三田祭慶應大学の学園祭)です。

慶應の先輩でジャズ・シンガー笈田敏夫(1925~2003)との共演です。

笈田はピストル不法所持で刑事告発され芸能界から干されていました。

「佐藤くんがピアノが上手いというので、やってきました。今日はプロの厳しさを教えてあげましょう」

笈田が偉そうに喋っていたのを覚えています。

 

そのころもうひとり、バークリーに行った日本人ピアニストを聴いています。

これも銀座ではありません。自由が丘での小曽根真(1961~)です。

小曽根は1980年~83年にバークレーに行っていますが、そのずっと前です。

ジャズ評論家のいソノてルヲ(1930~99)がやっていた自由が丘の「5 Spot(ファイブスポット)」というジャズ・クラブに登場しました。

オスカー・ピーターソンが来ていました。

いソノさんが紹介しました。

オスカー・ピーターソンの演奏の前に、将来性豊かな日本のジャズ・ピアニストをご紹介します。16歳になったばかりの小曽根真クンです」

ドラムスは忘れましたが、ベースは「オマスズ」こと鈴木勲(1933~2022)でした。

残念ながら小曽根のピアノは、ピーターソンとは差がありすぎました。

ピーターソンは私たちに何かを伝えました。心を動かしました。演奏ではなく音楽でした。ピアニストではなく芸術家でした。

対して小曽根は上手にピアノを弾いていました。

 

銀座では強烈なライブをジャズクラブ「YYY」(ほんと残念、名前を思い出せない)で聴いています。

ボーカルの笠井紀美子(1945~)とサックスの峯厚介(1944~)の共演です。

70年代の初めです。仕事の後に何気なく寄っただけの話です。私は笠井紀美子のエロに圧倒されました。

60年代後半~70年代前半の銀座は、南博の80年代後半の銀座とは、まるで違います。

銀座にはジャズに溢れ、銀座ではジャズが生まれていました。

その銀座で、一つだけ残念というか悔いがあります。サックスの阿部薫(1949~78)の東銀座の「オレオ」での演奏を聞き逃していることです。

私は電通の新入社員で、丹下健三デザインで新装なったビル(築地・電通)に通っていました。

世間知らずの私は、電通のバッジをつけたまま、「オレオ」に通っていました。

電通社員」と「喫茶店」はほぼ「同義語」ですが、「オレオ」に行く電通社員はひとりもいませんでした。

ジャズ評論家の相倉久人(1931~2015)、平岡正明(1941~2009)が「オレオ」の常連客で、阿部薫の演奏がありました。

阿部薫は30歳にもならず、死んでいきました。それがジャズでした。

私も孤独でした

東大でも京大でも早大でも慶大でもない、たった一人の地方大学(横浜市立大学)出身、しかもなんのコネ(縁故)もない、母子家庭の子供。ダークスーツに電通バッジをつけたクリエーターは、孤独でした。

1967年7月コルレーンの死の2週間後に、私は電通から入社試験合格の知らせを受けています。

広告業界やクリエーターに憧れていたわけではありません。当時に東京都の公務員試験を受験し合格しているのですから。

私はジャズでした。

 

3、ジャズピアニスト誕生

ジャズ・ピアニスト南博(1960~)は、ヤクザの親分が歌う村田英雄の「王将」の伴奏をし、銀座のナイトクラブで3年間ピアノを弾きました。

そしてボストンのバークレー音楽院に願書を提出し、めでたく合格、1989~91年まで留学することになります。

一つ年下の小曽根真に遅れること9年、つまり小曽根より10年も遅れてバークレーに行ったことになります。

銀座での最後の日ナイトクラブのピアニスト南博は、同業のミュージシャン仲間から馴染みの喫茶店「ボストン」に呼び出されます。

ボコボコにされるのを覚悟で行くと・・・「アメリカから帰ってきたら顔を出せ」・・・と餞別に10万円をもらいます。

涙。・・・涙です。

 

私も20歳の頃、家出して岩手の盛岡のナイトクラブで1ヶ月、ピアニストではなく、ボーイとして働いたことがあります。

コルトレーンに熱中していた頃です。

「生きる意味がわからネーんだよ」「人生って何なんだよ」。

クラブにはジャズバンドが入っていました。私は東北弁のジャズ・ミュージシャンに話しかけていました。

コルトレーンやらないんですか?」

ナイトクラブのラストは、いつも啜り泣くようなチーク・ダンスのナンバー「Good Night Sweet Heartでした。

岩手・盛岡のジャズ喫茶でも、60年代の半ばですから、コルトレーンの「オレオ」がかかっていました。

印象的なのは、マル・ウォルドロンの「レフト・アローン」が、私を新宿から送り出し、私を盛岡で迎えてくれがことです。

ナイトクラブでのボーイ最後の8月31日の夜、ナイトクラブのマネージャーが送別会をやってくれました。それも3次会まで。

ジャズ・バンドのメンバー、クラブの女の子、マネージャー、ボーイ・・・10数人が、深夜の盛岡駅のホームで万歳三唱をしてくれ、東京に帰る私を送ってくれました。

「マネージャーにお礼の手紙を出せよ、わかったな!」。

東京に向かう深夜急行「やまびこ」で、私は涙を流し続けていました。

 

南博は、『白鍵と黒鍵の間に』のあとがきで、ジャズに目覚めます。

「暗黒時代に、身に付いた銀座サウンドを演奏で出したくないのだが、それもアリだと思うようになった」。

「音楽はその人の生き様さえ表現できるのだから、銀座で弾いていた3年間のことも、その生き様に刻まれている筈だから」(『白鍵と黒鍵の間に』 p.285)。

南博はキース・ジャレットの「フェイシング・ユー」でジャズに目覚めました。

そしていま、本当の意味で南博は自分と向き合っています。

ジャズ・ポスト・ジャズ、ジャズが終わった後のジャズではなく、ほんとのジャズと向き合っています。

南博(みなみひろし)というジャズ・ピアニストはいま誕生したばかりです。

End

 

各社の社説を、1)新聞力(ニュースがあるか)、2)論説力(論があり説があるか)、3)創造力(オリジナリティがあるか)で、採点しました。

THE TED TIMES 2024-01「元旦社説」 1/1 編集長 大沢達男

 

各社の社説を、1)新聞力(ニュースがあるか)、2)論説力(論があり説があるか)、3)創造力(オリジナリティがあるか)で、採点しました。

 

朝日新聞(暴力を許さね 関心と関与を)

ウクライナ、ガザ、ミャンマースーダンで戦火が激しく、「警察官」(米国)を失った世界は不安定化した。ガザに住む朝日の通信員ムハムド・マンスールさんは、まず水、そして薬、食糧、燃料の支援が必要だという。パレスチナイスラエルの互いの憎悪の深さに驚かされる。ウクライナとガザの戦争からの教訓がある。まず戦闘が始まれば止められないということ。国連も機能不全、しかし国連を見限るわけにいかない。つぎに戦争には憎悪と不信の蓄積があること。ロシアの侵略は10年前から、パレスチナイスラエルには長年にわたり壁やフェンスが築かれていた。理不尽を見過ごさない、争いの芽を摘む関心と関与を。

*2年連続して偉そうに国際問題を論ずる朝日。北朝鮮から帰ってこないめぐみさん、ISに虐殺された湯川さん・後藤さん、アフガンで銃撃された中村医師を忘れたのか。「暴力を許さぬ、関心と関与」とは何か。日本は何もできないではないか。高校生の新聞ではあるまいし。○新聞力B、論説力C、創造力 C、総合C

 

毎日新聞(二つの戦争と世界 人類の危機克服に英知を)

欧州と中東の戦争は「人類の危機」だ。対テロ戦争を始めた米国が20年後のアフガンから撤退したように軍事力で対立は解消できない。まずは停戦で死傷者を減らすことである。国際社会の脆弱性が露呈しているいま、国家中心から人間中心の視座に転換しなればならない。世界人権宣言の精神である。国際司法裁判所(ICJ)そして「法の支配」。さらにもうひとつは国家に対して市民が声を上げることである。長男を戦闘で失ったイスラエル人母親すらが、パレスチナ人との共存の未来を望んでいるではないか。欧州の移民規制のような排外主義は許されない。多様性の尊重である。人類の危機には他者との共生の道がある。

*人類の危機を論じるほど、毎日新聞が国際社会に影響力があるのだろうか。朝日と同じ。日本を代表する「朝毎」は終わりに近づいている。昨年は苦労して、プーチンから武蔵野市へと問題を引き寄せたが、無理だった。大風呂敷を広げる時代は終わった。ただし文章はよい。○新聞力A ○論説力B ○創造力C ○総合B

 

○読売新聞(磁力と発信力を向上させたいー平和、自由、人道で新時代開け)

ウクライナ、中東、そして北方領土のロシア、尖閣と南太平洋の中国、核ミサイルの北朝鮮・・・大変な時代なのに日本の政治は立ち往生している。戦場をテクノロジーが支える不都合な現実がある。深い理念が必要である。コモンセンスという「常識」という意味ではない人道、平和、自由を求める「共通感覚」がある。これが日本の使命である。日本には安全・安心。伝統文化、アニメ、さらにはスーパーコンピューター、医薬品の研究・開発がある。しかし新技術には生成AIの偽動画のような弊害もある。そして「静かな有事」である人口減少がある。読売新聞は自由・人間・国際主義を読売信条を起点にして平和に貢献する。

*新聞が何をするのか、日本は何をすべきか、そして世界をどうすべきか。当たり前の議論が展開されているのが、好感持てる。朝日、毎日との明らかな差別化ができている。ただし渡部恒雄氏が発明した読売だけの長い社説を書く力が今の記者にはない。再考すべきだ。○新聞力B ○論説力B ○創造力A ○総合B+

 

産経新聞(「内向き日本」では中国が嗤(わら)う)

国民と政治が内向きなら、中国は傍若無人に振舞う。外交安全保障路線の推進を忘れてはならない。台湾有事は日本有事である。トランプ当選なら、ウクライナはロシア有利に、日本の安保環境も激変する。米核戦力の日本配備、日本核武装を論じなくてはならなくなる。今年は国際政治上の暴風圏に突入する年である。政治改革は重要だが、外交安保政策を疎かにしてはならない。30年前の第一次北朝鮮核危機のとき日本は「内向き」だったが運に恵まれただけである。いまや米国は衰退、中国を阻止できない。若手、中堅議員に告ぐ、「乃公(だいこう)出でずんば」(俺がやらなきゃ誰がやる)の心意気で、国家国民のために働き抜いてほしい。

*快いアジテーション。産経らしい。論説委員長は売り出し中の防大出身の新聞記者。ひとつ問題がある。以前の社説は必ず現場で書かれていただけに、理屈中心になったのは残念。理屈に対する裏付け、エヴィデンスが不足。

○新聞力B ○論説力A ○創造力A ○総合A

注:「及公(だいこう)出でずんば蒼生(そうせい)を如何(いかん)せん」(自分が行動しなければ、人民をどうすることもできない)。東晋の政治家・謝安(320~385)の言葉。

 

日本経済新聞(分断回避に対話の努力を続けよう)

岸田政権は防衛関係費を27年度までにGDPの2%まで引き上げる計画だ。脅威には日米間の抑止力が必要だが、抑止だけで戦争は防げない。外交努力も欠かせない。昨年11月の米中、日米、首脳会談は大切な一歩になった。中国、ロシア、北朝鮮権威主義国家には、首脳に直接こちらの主張を伝えることが有効である。国家間の分断だけでなく民主主義国家の中でも分断はある。対話が必要である。SNSでは先鋭的な言論が増幅される。「よりオープンな話し方と聞き方を学ぶ必要がある」。今年は、国家、企業、個人、各レベルで対話を増やし、話し合いで物事を解決する力を磨きたい。

日本経済新聞が「経済」新聞でなくなったのは、喜ぶべきか悲しむべきなか。フィナンシャル・タイムズの真似をしているのか。しかし「話し方聞き方」はとてもいい。日本はコミュニケーションを教育していない。もっと深く書きたかった。朝毎よりまとも。

○新聞力B ○論説力A ○創造力B ○総合B+

 

東京新聞(贈り物ではなく預かり物)

100年後の自分たちの子孫も基本的に私たちと同じように暮らしていると私たちは想像します。では100年後の地球となると正直、疑問符がつきます。地球異変が起きています。<地球は先祖からの贈り物ではない。子孫からの預かり物だ>。今の世代が欲望を満たすために病んだ地球を未来の世代が押し付けられる、こんな理不尽な話はありません。<政治屋は次の選挙を考え、政治家は次の世代を考える>。身勝手な理由で借金まみれの国を次世代に手渡すことはできません。国もまた子孫からの預かり物です。子孫が生きる未来をゴミだらけにしたくはありません。

*東京の社説のスタイルが確立された。論説というより、下町のいなせな若旦那のぼやきのようである。粋で洒脱、まさしく「都新聞」の伝統。昨年よりさらに進化している。

○新聞力A ○論説力B ○創造力A ○総合力A+

 

○元旦社説ランキング

岐路に立つ新聞

1)新聞は読まれていない。広告メディアにならない。(2022年上半期  朝日430万部 毎日193万 読売686万部 産経102万部  日経175万部)

2)新聞は20年以内に消滅する(2023年10月 新聞は2859万部 前年比225万部減  新聞購読は2世帯に1世帯)

3)新聞記者の劣化(新聞を読むのは大学生の1%、新聞を読むのはおじいちゃん、新聞記者は憧れの仕事ではない)

でも、・・・・・・私たちは新聞を読み続ける、新聞とともに死ぬ。

そこで、2024年のランキング

1)東京 2)産経 3)日経 4)読売 5)毎日 6)朝日

○論じられなかった問題。

1)リベラリズムの危機(ウクライナ戦の敗北とは米国リベラリズムの敗北であり 日本国憲法の敗北)

2)東京地検特捜部の暴走(東京五輪汚職事件、自民党のパーティー券売上金のキックバック・裏金)

3)劣化する日本(少子化高齢化社会認知症)と新しい日本(大谷翔平 藤井聡太 映画「The Perfect Day」)

 

End