虹橋(ホンチャオ)空港へ行ったら、田中角栄を思い出してください。

コンテンツ・ビジネス塾「田中角栄」(2007-40)10/9塾長・大沢達男
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○上海行きなら、虹橋(ホンチャオ)空港を、おすすめします。
10/29に、羽田空港と上海・虹橋空港を結ぶ、新路線が開設されました。いままで東京と上海は、成田と浦東(プードン)で結ばれていましたが、この新路線により往復の所要時間は2時間も短縮され、上海は日帰り圏になる、と報道されています(ビジネスアイ9/30)。成田も浦東も国際空港ですが、ともに東京と上海の中心部から遠い、という弱点がありました。報道では片道1時間短縮となっていますが、心理的にはそれ以上、現実的に2時間近い短縮になるのではないでしょうか。しかも、日本航空全日本空輸中国東方航空上海航空の4社が1日1往復します。「もう、国内出張みたいな、上海出張」(ANA新聞広告9/29のキャッチコピー)になるのです。
日中共同声明
新路線は、日中国交正常化35年を記念した開設されました。
1945年に、日本の敗北で連合国側の戦勝国となったのは、中華民国でした。ところが1949年に、中華人民共和国共産党政権が樹立されます。しかし1952年に日本は中華民国(台湾)と戦争を集結させる日華平和条約を結びます。このふたつの中国は、当時の激しい東西対立の象徴でした。その国際緊張に事件が起こります。1972年のニクソン米大統領の中国訪問です。新しい歴史の流れに敏感に反応した日本人がいました。田中角栄です。ニクソン訪中からわずか半年、田中首相は平和時の日本の総理大臣としてはじめて、中国を訪問します。そして、いまからちょうど35年前の1972年9月29日に日中共同声明を発表するのです。
1)日中国交正常化の実現。2)中華人民共和国を中国の唯一の合法政府であると承認(台湾は領土の不可分の一部であることを日本は十分理解し、尊重する)。3)戦争賠償の請求を放棄する。
中国は、毛沢東主席と周恩来総理の時代でした。田中首相はこのふたりに絶対的な信頼感を持ってました。周総理が、戦争では多くの中国人が殺されたと、数字をあげて説明しました。これに対して田中首相はひと言で答えたそうです。「だから、私はこうして北京にやって来た。あなたが東京へ来られたのではなくて、私がやって来たのだ」(「田中角栄の遺言」小室直樹 クレスト社)。
毛主席は自邸に田中首相を招きこう言いました。「もうけんかはすみましたか。けんかをしないとダメですよ。けんかしてこそ初めて仲よくなれます」(「政治家田中角栄早坂茂三 集英社文庫)。
田中角栄
田中角栄が亡くなったのは1993年。青山葬儀所には、歌手や映画スターの死のような長い葬列ができました。私たちも葬列に並びました。彼はまさしくヒーローでした。
まず、高等小学校(中学2年程度)卒業の首相であったことです。東大どころか、大学出ではなかったのです。28才で国会議員になり、39才で大臣になり、54才で総理大臣になりました。
つぎに、デモクラシーの権化、議員立法のプロ、政治家のお手本であったことです。国会とは立法府、法律を作るところ、彼は自らの仕事をしっかりやったのです。作った法律は33件。住宅、道路、国土開発、国民生活を整備し、弱者を救済。戦後の日本は田中の作品でした。
そして、最後は米国企業から賄賂をもらったというロッキード事件。2審有罪のまま、田中は亡くなり、裁判は終わっています。有罪無罪は、永遠の闇のなかですが、米国の陰謀だと噂が飛び交いました。異能・田中角栄を米国が警戒し、彼を葬り去るためワナにはめたのだというのです。
ここに、田中の無罪を証明する、エビデンス(証拠)があります。「私の履歴書」(田中角栄 日経ビジネス文庫)です。これは、日本を代表する文芸評論家小林秀雄が評価したという文章。50才を前にして書かれた、気の早い回想録です。
少年の角栄には、いつ寝るかわからないような働き者の母がいました。ふだんは何も言わない、その母が、突然厳しい顔つきで角栄を呼びつけます。「なにか悪いことをしましたネ」「悪いことなんかしないよ」「もし悪いことをしていたら、お母さんはお前といっしょに鉄道の線路の上で死にます」。・・・・・・田中角栄には、検事より、裁判所より怖い、母親がいたのです。
「水を飲むとき、井戸を掘った人を忘れてはならない」。周恩来田中角栄に感謝します。