だれが、キヨシロウを愛したのでしょうか。

コンテンツ・ビジネス塾「忌野清志郎」(2009-16) 5/12塾長・大沢達男
1)1週間分の日経が、3分間で読めます。2)営業での話題に困りません。3)あすの仕事につながるヒントがあります。4)毎週ひとつのキーワードで、知らず知らず実力がつきます。5)ご意見とご質問を歓迎します。

1、青山ロックンロールショー
5/2に亡くなった、ロック歌手忌野清志郎(イマワノキヨシロウ、享年58歳)さんの葬儀が、「青山ロックンロールショー」というタイトルで、5/9に青山葬儀所で行われました。
地下鉄の乃木坂駅で降り、葬列に並んだのが午後2時15分、再び乃木坂駅にたどり着いたのが午後8時15分、なんと6時間ほぼ立ちっぱなし、5月の強い日差しの中をペットボトル1本の水でトイレにも行かず、がんばったことになります。
葬列には東京以外の人がたくさんいました。年齢は30代後半から40代。男女比は同じ。ロッカーの葬儀にしては目立った格好の人も少なく、変なパフォーマンスをする人もいず、葬列はおとなしく、乱れることがありませんでした。
翌日の新聞は、昭和の大スター「美空ひばり」と同じ4万2000人が葬儀に参列したと報じました。
忌野清志郎は、「矢沢永吉」と日本を代表し、矢沢の対極にある、ロックミュージシャンです。
4万2000人は想定外。実際に6時間も並んでみると恐るべき数です。誰がキヨシロウの死を悼んだのでしょうか。キヨシロウのファンは誰だったのでしょうか。
2、キヨシロウのファンは誰なのか。
1)キヨシロウ・サウンド
キヨシロウの音楽活動は、高校時代に始まっています。おもなバンド名は、「RCサクセッション」。ヒットソングは、♪「ぼくの好きな先生」、♪「トランジスタラジオ」、学園ソングです。初期の詩には「ぼく」が溢れています。「ぼくを認めておくれ」、「ぼくのことすべてわかってくれる」、「ぼくは疲れているのさ」。何と軟弱。今風に言えば、キヨシロウは草食系です。
化粧をはじめ、コスチュームがハデになってくるのは、30歳に近くになってから、いわば大人の知恵の演出です。♪「雨上がりの夜空」は、デビッド・ボーイ風、♪「スロー・バラッド」は、オーティス・レディング風。軟弱な詩と強烈なサウンドのミスマッチで名曲になっています。
キヨシロウ・サウンドは、「軟弱」系、「草食」系によって支持されてきたロックでした。
2)キヨシロウ・オピニオン
キヨシロウは、反核反戦、平和のミュージシャン、ということになっています。また自転車を愛したことから、「ロハス」(健康で持続するライフスタイル)で環境派の人にも、なっています。
しかし「ぼく」中心の草食系が突然、反核反戦・平和の思想家になることは考えれません。少なくとも、葬列のファンの中にそんな気が利いた人間はいない、と見受けられました。キヨシロウ・オピニオンも、反抗するロッカーのアクセサリーのようなもの、大人の知恵が生み出した演出です。
3)キヨシロウ・スマイル
参列者には全員(4万枚)キヨシロウの写真入りのポストカードが、会葬御礼として配られました。
ツンツン・ヘアでネクタイを締めた正装のキヨシロウがニッコリ笑っていました。献花の祭壇まで待ちに待った会葬者は、このスマイルに疲れを癒され、泣きました。
キヨシロウは、危ないステージをする不良でした。キヨシロウは、放送禁止歌を連発するテロリストでした。でもそれらは演出、と誰もが知っていました。ほんとのキヨシロウは、スマイルの天使でした。
3、ママの子。
キヨシロウは、多摩川甲州街道、吉祥寺を歌った、都会の子(都立日野高校)でした。「死を受け入れない」と言った泉谷しげる(都立目黒高校)、「い・け・な・いルージュマジック」を歌った坂本龍一(都立新宿高校)は、その仲間でした。都会の子とは、控え目で、はずかしがりやのことです。
初めてキヨシロウの才能を認めたのは、ママでした。縁側でギターを弾き、が鳴っている高校生のキヨシロウの歌を聴き、「お前の歌はジーンときてほんとにいいね」、と言ったのです。それでキヨシロウはロックを決心したのです。そんなママは、世界中のどこを探しても、いません。お葬式は5/9、そして翌日の5/10は母の日、キヨシロウはママにプレゼントを届けるために天国に行きました。
「忌わしき野を駆る夢に目覚めれば清き志し朗々と歌う(下北テッド)」