柳宗悦の日本民芸館に行ったことがありますか。

コンテンツ・ビジネス塾「柳宗悦」(2010-27) 6/28塾長・大沢達男
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1、民芸
美しいものを身の回りに置いて生活していますか。木工の家具、陶芸の食器、染織の衣料品、金工の装身具をことを工芸品といいます。工芸品には使命があります。それは生活の役に立つこと、「用」を果たさなければならないことです。工芸品には、「用」を離れて「美」は存在しません。「工芸」に似た「民芸」という言葉があります。「民芸」は、柳宗悦(1889~1961)によって提唱さました。
1)民芸は、民衆の「民」と工芸の「芸」から創られました。2)民芸は、民衆的工芸です。貴族的な工芸美術と相対するものです。3)民芸は、無名の職人によって作られた、普段使いの品です。但し機械工場で乱造されるもの、利を目的にした商業主義の品は、民芸とは言えません(『民藝四十年』P.159~P.160 柳宗悦 岩波文庫)。
2、柳宗悦
柳宗悦は、海軍提督の家に生まれ、学習院の初等中等高等で学び東京帝大を卒業した、育ちの良いお坊ちゃんです。柳は奇妙な軌跡で「民芸」を発明し発見します。まず柳は、日韓併合時代の朝鮮に渡り(1916年)、名もない工芸品の美しさに感動し、収集をはじめます。
「朝鮮の芸術に対して心からの敬念と親密の情を抱いているのである。(中略)そこにはいつも悲しさの美しさがある。涙にあふれる淋しさがある。私はそれを眺める時、胸にむせぶ感情を抑え得ない。かくも悲哀な美がどこにあろう」(前掲P.31~P.32)。
この李朝時代の陶磁器への美の告白は異常でした。日本は朝鮮を軍事と政治で支配していました。しかも朝鮮での陶工の社会的な地位は低く、美など語れぬ、無教養な下賤の民でしかありませんでした。柳は、誰も振る向かぬ、見捨てられていた李朝の焼き物に光を当てました。熱い思いはやがて、陶磁、木工、金石工、民画を集めた「朝鮮民族美術館」となって実ります(1924年)。そして
この経験が、昭和11年(1936)の「日本民芸館」オープンにつながります。
民芸館には、いままでの美術館と違うものが並べられました。湯呑、聖徳太子の木彫、絵馬、みやげ物の大津絵、百姓の女たちが作った刺子(さしこ)、琉球の織物、沖縄の染め物用の型紙、茶臼(ちゃうす)、茶釜、湯釜、経机、印箱、絵漆椀、塩壷、大皿、水滴・・・。いままでだれもその美しさに気づかなかったものたちが全国から足で集められました。
民芸館の所蔵品ではありませんが、天下随一の茶碗「喜左衛門井戸」があります。喜左衛門とは大阪の商人の名前、井戸とは朝鮮製の茶碗の名前。柳がこの茶碗を出会ったときの感想があります。
「(井戸茶碗は)誰でも作れるもの、誰にだってできたもの、誰にも買えたもの(中略)それがこの茶碗の有つありのままな性質である。(中略)だがそれでよいのである。(中略)坦々とした波瀾のないもの、企みのないもの、邪気のないもの、素直なもの、自然なもの、無心なもの、奢らないもの、誇らないもの、それが美しくなくしてなんであろうか」(前掲P.247~P.248)。
これが、民芸の美しさで、柳宗悦の美意識のすべてです。
3、韓国
韓国国立中央博物館を訪れた日本人はだれもが驚きます。そこには柳宗悦がいるからです。「朝鮮民族美術館」の品々が受け継がれているからです。たとえば私たちは、「青華白磁壷」(15世紀)(韓国『国立中央博物館』日本語版 P.151 通川文化社)のまえで、始めて見たものなのに、あまりのなつかしさに、立ち止まってしまいます。
なぜなつかしいか。理由はふたつあります。ひとつはこれを作った陶工の子孫が、その後日本に渡り伊万里を焼いた、と夢想させるから。もうひとつは、柳宗悦がこの壷を朝鮮の農家の物置から見つけ、柳の美意識がこれを選んだ、と想像させるからです。
身の回りを美しくと願った柳は、「日本の眼」を「無の美」、簡素を見る目と表現しました。茶碗は原則、無地ではないか。「無」の要素が奥にひそむ時、さらに美しさが深まる、そう言ったのです。
日本民芸館の西館は、かつての柳の自宅。居間の畳に正座して、庭を眺めれば、一本のしだれ桜が、青葉を初夏の陽に輝かせ、花のことなどつゆ知らぬように枝を揺らせていました。