コンテンツ・ビジネス塾「濱田庄司」(2011-35) 9/7塾長・大沢達男
1)1週間分の日経が、3分間で読めます。2)営業での話題に困りません。3)学生のみなさんは、就活の武器になります。4)毎週ひとつのキーワードで、知らず知らず実力がつきます。5)ご意見とご質問を歓迎します。
1、スローライフ
茶碗と湯のみ、皿と丼、テーブルとイス、鏡とクシ。身の回りにおしゃれな物を置いて暮らしていますか。身の回りの美しい物を、民芸品と言います。民衆の工芸品です。貴族や権力者がぜいたくに金を惜しまずに作った芸術品ではありません。私たちがふだんに使う美しい品々です。
民芸運動は、柳宗悦、河井寛次郎、濱田庄司の3人によって始められました。中でも濱田庄司は、民芸を生きたような人でした。イギリスのディッチリングの工芸家村を見て、ひとつの理想を体験します。そこでは、ゆったりとした時間の中で、作家たちが身の回りのすべてをデザインしていました。そして濱田は、日本に帰り栃木県の益子に移り住み作陶生活を始めます。地元の人と交わり、地元の産物を料理し、地元で作った陶器に盛りつけ、語り、食べる。地産地消、いまでいう「スローライフ」を実践していました。
2、民芸の人間国宝
濱田は1955年に人間国宝(第1回重要無形文化財保持者)に認定されています。そして死ぬまで器を作り続けました。しかし芸術家という呼び名はふさわしくありません。
まず、濱田のあこがれは「井戸茶碗」でした。井戸とは、高麗茶碗の最高峰。高麗茶碗とは朝鮮で作られた茶碗。井戸は茶席で珍重されますが、もともとは15~16世紀の李王朝時代に作られ、民間で使われていた雑器です。無骨で、荒々しく、気取りがありません。「何といっても私には井戸茶碗に勝るものはないと思う」(『無尽蔵』P.96 浜田庄司 講談社文芸文庫)。
次に、濱田は自分の作品にサインをしようとしませんでした。「益子の入ってからは自作品に印を押すというようなことは、自然考えもしないようになりました」(前掲 P.62)。作家としての自分を主張しませんでした。良い土、轆轤(ろくろ)、筆、絵、窯(かま)、天気、風、そして薪。仕事の一割もしていないのに、印を押して結果のすべてを自分のものにするのは無責任だと思ったのです。
そして、濱田は仕事が、作ったというより生まれたもの、になることを願いました。「出来た物は、自分が作ったというよりも、何かにこしらえてもらった品なんです」(前掲P.62)。
「李朝のものには素晴しいというような形容詞はおよそ縁遠い。むしろたどたどしい。しかし(中略)特別の美しさがある」(前掲P.18)。つまり、民芸品は、粋でおしゃれ。
3、鑑賞も創作
濱田は、東京府立第一中学校(日比谷高校)、東京高等工業高校(東工大)で学びました。文章の達人でもあります。
1)目垢(めあか)。「(茶席での茶碗には)お茶人の目垢というものがついています。それを取らなくてはいけない。(中略)黒板を消して、あらたに書かなくてはなりません」(前掲P.115)。たとえば『白磁大壺(Large Jar)』があります(『濱田庄司スタイル』美術出版社P.53)。なんの模様もない、ただふっくらした白く大きな壷です。これは朝鮮を旅行した濱田が発見し、日本に持ち帰ったものです。直感、白くまろやかな曲線に惹かれます。白は、観るもの、使うものの、言葉を待っています。
2)忘れる。「私は物を持っても、勉強しても、なるたけ忘れようと思います。(中略)忘れきれないものが残ります。(中略)いやおうなしに生きてくるものが、それなんです」(『無尽蔵』P.114)。たとえば『飴釉青白流掛大鉢(Large bowl, brown ash glaze)』 があります(『濱田庄司スタイル』P.90)。たった15秒で描かれた十文字が大皿の中心にあります。濱田はその15秒を、60年+15秒と表現しました。十文字は60年の総決算であり、見るものを60年の未来に連れて行きます。
3)見る創作。「自分の眼で自分らしく物を見ることが出来ればこれは一つの創作といっていい」(『無尽蔵』P.254)。たとえば『茶碗(Rice bowl)』(『濱田庄司スタイル』P.114)があります。茶碗の内に赤く一本の線がふちにそって描かれ、外にはいくつものの窓があり模様が描かれている。濱田の晩年の沖縄での仕事です。
中学時代にイラストを描き、やがて陶芸にあこがれ、イギリスに滞在しました。そして東京から益子に移り住み、日本の土ともに生きました。この小さな濱田の茶碗には、濱田の一生があります。