クリエーティブ・ビジネス塾29「昭和史2」(2016.7.4)塾長・大沢達男
「『昭和史』が、占領軍とマルクス主義に戦った、半世紀」
1、教科書
歴史学者・伊藤隆(1932~)たちは『歴史学研究』に掲載したマルクス主義批判により、完全に学会主流から浮き、大学のポストなど先行きはない、孤立無援の立場に追い込まれます。1960年代の話です(伊藤隆『歴史と私』中公新書p.38)。マルクス主義に反旗をひるがえすことは自らの生活を脅かすことでした。戦後の日本は反「ファッシズム」で、平和と民主主義の占領軍の政策と、天皇制と軍国主義に反対する共産主義者の主張が、奇妙に重なっていました。伊藤隆は、日記などの史料にあたる、歴史の証人にインタビューするという実証的な研究によって、その流れを変えようとしました。
それから10年後、伊藤隆は山川出版社の高校生用の日本史教科書にかかわるようになります(1975年版)。それは、「ファッシズム」と「天皇制」という言葉を使わない、画期的な教科書でした。。
「(東大)入試の答案を見ていると、受験生の大半が過激な左翼としか思えない。(中略)『高校の先生たちは、日本の戦前は法治国家ではなかったと教えているに違いない』・・・」(前掲p.98)。
先生たちは、「左翼的」と意識せずに「常識」として、戦前を教えていたのです。先生たちの常識、それは占領軍と『昭和史(新版)』(遠山茂樹、今井清一、藤原彰 岩波新書)による、常識でした。
2、昭和史
『昭和史(新版)』(岩波新書)は国際共産主義運動のためにマルクス主義史観によって書かれた本です。
「1932年5月のコミンテルンで(中略)、『日本における情勢分析と日本共産党の任務に関するテーゼ』いわゆる『32年テーゼ』が決定され(中略)、戦争反対の闘争と軍部を先頭とする天皇制にたいする闘争との重要性を強調」した(p.95)。
まず天皇制を打破することでした。「天皇制」などという言葉はない。コミンテルンが使った言葉です。
「マルキシズムは天皇制に真向から対決する唯一の思想であった」(p.26)
マルキシズムは天皇を倒すためのものでした。そして『昭和史』は「ファッシズム」論を展開していきます。
「(二・二六事件の終わりは)日本におけるファッシズム支配をうちたてる上での天皇制の機構とイデオロギーがはたす強大な役割を示すものであった」(p.128)。
理路整然としているようですが、ここに『昭和史』(岩波)の大きな矛盾があります。伊藤隆はそこを追求しました。まず「ファッシズム」。「ファッシズム」とは何かを規定できない(前掲伊藤隆p.87)。さらに「ファッシズム」と「天皇制」の矛盾があります。まず「ファッシズム」とは近代資本主義の金融資本による暴力的独裁形態である。しかし「天皇制」は封建社会最後の段階の絶対主義のものである。「天皇制」が続いているなら、「ファッシズム」など起こりようがない(前掲伊藤隆p.88)。
3、真相箱
占領軍はサンフランシスコ講和条約が締結されるまで、「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画)」で、検閲し、言論統制をしました。
主な検閲は、1)東京裁判(極東軍事裁判)の批判、2)占領軍が新憲法を起草した事実の暴露と批判、3)検閲が行われていることへの言及、4)神国日本、天皇の宣伝、5)大東亜共栄圏の宣伝などに関して行われした(江藤淳『閉ざされた言語空間』文春文庫からの要約)。
検閲は悪質でした。まず検閲されているのが分からないようにする検閲でした。見逃せないのは、1万人近くの日本の指導的な知識人が、この検閲に協力していることです。
占領軍は直接的なプロバガンダも行いました。「太平洋戦史」(占領軍の造語)を1945年の年末にすべての全国紙に10回にわたり掲載し、日本軍の残虐行為を強調しました。そしてラジオ30分番組『真相はこうなどを週1回のペースで放送します。さらにこの放送の内容を本にした『真相箱 太平洋戦争の政治・外交・陸海空戦の真相』(1946.8.25発行)を発売します。
櫻井よしこは以上の事実を、『「真相箱」の呪縛を説く』(櫻井よしこ 小学館文庫)で明らかにします。
伊藤隆がマルクス主義に反旗を翻したのは1960年代、教科書が書き改められ始めたのは70年代、江藤淳の暴露は80年代、櫻井よしこの仕事は2000年に入ってからです。そしてついに、伊藤隆の門下生の古川隆久が2016年に新しい『昭和史』(ちくま新書)を書きます。日本人全体が「天皇制」や「ファッシズム」から自由になり、この国の伝統や価値観を取り戻すにはまだまだ時間がかかります。