クリエーティブ・ビジネス塾27「ドビュッシー」(2012.7.18)塾長・大沢達男
1)1週間の出来事から気になる話題を取り上げました。2)新しい仕事へのヒントがあります。3)就活の武器になります。4)知らず知らずに創る力が生まれます。5)ご意見とご質問を歓迎します。
1、バッハVSドビュッシー
果てしなく続くバッハのオルガン曲を聴いていて思います。あらゆるメロディはすでにバッハによって試されている。本質的に新しい曲を作ることはできない。すべての音楽はバッハの模倣に過ぎない。
バッハは日本の詩歌でいえば、万葉集のようなものです。喜怒哀楽の叙情も、雪月花の叙景も
すべての表現は試されている。言語表現の仕事でカベに突き当たったら万葉集を開けばいい。そこには必ず突破口がある。きっとバッハも同じです。音楽表現の仕事で行き詰まったら、バッハを聴けばいい。
バッハには音楽のすべてがある。それに挑戦したのがフランスの作曲家クロード・ドビュッシー(1862~1918)です。ドビュッシーはバッハ以来200年続いたヨーロッパ音楽に革命を起こしました。
1)長調/短調の二元論に中世や異文化の旋法を取り込んで多様化した。
2)4拍子3拍子の変化しない拍節構造に自由な時間を持ち込んだ。
3)音のならびのみならず、音の色に注目した。
(小沼純一「ドビュッシーが世界の音楽を自由にした」ART RE VUE 日経文化事業部)
要約すれば、ドビュッシーの音楽は「多様式であって、一つの音階とか、語法とか、和声法とかに収斂されない」(諸井誠『音楽の現代史』P.16 岩波新書)ものだったのです。
2、アートVSドビュッシー
パリのエフェッル塔は1889年の万国博覧会のときに完成。ドビュッシーは時を同じくして芸術の世界にそびえたちました。世紀末と20世紀初頭の、絵画、アート&クラフト、詩歌、文学、舞踏、バレエ・・・さまざまな人と交わりました。
1)印象派・・・モネ、ルノワール、セザンヌがグループ展(1874年)を開き、印象派と呼ばれるようになります。ドビュッシーも音楽の世界の印象派として分類されました。つまり新しかったのです。「伝統の古い埃(ほこり)を振り払おうとした人」(松橋麻利『ドビュッシー』p.40 音楽之友社)でした。
2)象徴主義・・・ボードレール、ヴェルレーヌ、マラルメ、象徴主義と呼ばれる詩人たちの言葉と音楽をコラボレーションさせます。感情や心の襞(ひだ)をさらさない、歌いすぎない。言葉は象徴的なイメージを喚起するために使われました(松橋 p.47)。
3)バレエ・リュス(Ballets Russes)・・・ディアギレフ(プロデューサー)とニジンスキー(振り付け師、舞踏家)のロシアバレエ団は、パリで活躍した20世紀初頭の芸術集団でした。ピカソ、マチスそしてシャネルまでがロシアバレエ団とコラボレーションしています。晩年のドビュッシーも依頼により曲を提供しています。しかし彼はロシア人を野蛮人と考えていたようです(松橋 p.138)。
3、ミュージックVSドビュッシー
「ビートルズのショック、別な種類の驚きをドビュッシーに感じた」、「ドビュッシーの音楽には、旋律の支配がない、浮遊している」(坂本龍一『坂本龍一・音楽史』p.535、p.539 山下邦彦編著 太田出版)。
ドビュッシーの音楽は、ジャズのセロニアス・モンクやビル・エヴァンス、ボサノバのアントニオ・カルロス・ジョビンに影響を与えました。そして日本の武満徹、坂本龍一にも。
交響詩『海(La mer)』(夜明けから昼までの海、波の遊び、風と海の対話)を聴いてみます。
「気づかれないようなふとした音の動きがより大きな動きを誘い出し、それが次々に広がっていく。つまり音が自らの内部から進む力を繰り出していく」(松橋 p.200、p.201)。
つまりぼくたちは、リビングルームのオーディオ・セットのまえで、ドーバー海峡ならぬ、湘南・葉山の岩場に座っていると思えばいいのです。角度を変える太陽、水のきらめき、流れる風、押し寄せる波を想像しながら、海辺で遊ぶのです 。
『海』を聴いた24分53秒の至福の時間のあと、鏡に映ったわが顔を見ると、はっきりと日焼けしている。そしてのどの渇きを覚えます。水はエヴィアンがいいでしょう。それから赤ワインをグラスに満たし、ドビュッシーに乾杯!さらにデザートとして、『亜麻色の髪の乙女』を聴くのです。