ファイティング原田は、偉大だったが、ヒーローではなかった。

クリエーティブ・ビジネス塾49「原田政彦」(2012.12.27)塾長・大沢達男
1)1週間の出来事から気になる話題を取り上げました。2)新しい仕事へのヒントがあります。3)就活の武器になります。4)知らず知らずに創る力が生まれます。5)ご意見とご質問を歓迎します。

1、学芸大
ヒーローのいる時代は不幸せだが、ヒーローのいない時代はもっと不幸せだ、と昭和の天才詩人の寺山修司(1935~83)は言いました。そのことを証明するかのように、戦中(1941~1945)生まれのヒーローは誕生していません。
ボクシングの笹崎ジムは東横線学芸大学駅のそばにありました。大学受験に失敗した僕は学芸大学駅のひとつ渋谷よりの祐天寺駅そばの水道局の事務所でアルバイトをしていました。仕事は毎日警察に行き道路工事の申請をし、工事の許可をもらうというもので、自転車に乗るのが仕事でした。ときどき寄り道をして、笹崎ジムをのぞきました。1943年生まれのファイティング原田(原田政彦)の練習を見に行ったのです。
目的がありました。アルバイト先の事務所には工事現場で働く人夫(作業員)がいて、昼休みにボクシングをして遊んでいました。プロが試合で使う8オンスの倍ある16オンスのグラブを使っていました。僕も試合しました。50キロちょっとの僕が、巨漢の人夫と戦うのは危険極まりないのですが、同時代の天才ボクサーに自らの姿を重ね合わせ、勝利を信じて戦っていました。
2、青木、海老原、原田
60年代の初期にはボクシングのテレビ中継が毎日のようにありました。ボクシングと野球のテレビ中継、『ララミー牧場』などのアメリカ製テレビドラマ、そしてFEN(極東放送。現在のイーグル810)から流れてくるアメリカンポップミュージックが僕たちの青春でした。ボクシングには、青木勝利(42年生まれ)、海老原博幸(40年生まれ)、原田政彦(43年生まれ)のフライ級3羽ガラスがいました。まず伝説の東新人王戦決勝で、海老原博幸ファイティング原田が戦い原田が勝ちました。やがて原田はポーン・キングピッチと戦い、世界フライ級チャンピオンになります。
青木勝利は黄金のバンタムといわれたエデル・ジョフレと戦いました。ジョフレは、当時無敗、しかもバンタム級史上最強、黄金のバンタムといわれていました。攻めてよし守ってよし、そしてハンサム、理想の選手でした。対する青木は天才。そのパンチ力は無限、いつ倒すかわからない。見るものは、緊張で両腕の筋肉がピクピクさせながら、テレビの前に群がっていました。しかし青木は破れ去り、その後しばらくしてリングから姿を消し、その後行方すらわからなくなります。カミソリパンチの海老原博幸も緊張を強いるボクサーでした。新人王戦では原田に破れますが、その後フライ級世界チャンピオンになっています。劇画『明日のジョー』は、海老原博幸がモデルといわれています。
練習を見に行った原田は、世界フライ級チャンピオンになり、その後黄金のバンタムエデル・ジョフレを破り世界バンタム級チャンピオンになります。原田は1ラウンドから15ラウンドまで休むことなく打ち続ける異常なスタミナの選手でした。お手本にできない、マネができない選手でした。
3、ヒーローがいない時代。
『「黄金のバンタム」を破った男』(百田尚樹 PHP文芸文庫)は、奇跡のノンフィクションです。1956年生まれ、原田より13歳も年下の作家が当時を鮮やかに再現しているからです。原田の偉大さがよくわかります。
ボクシングの世界チャンピオンが8人しかいない時代に(現在は70人ほどのチャンピオンがいる。前掲書P.10)、フライ級とバンタム級、ふたつの階級を制覇した原田は、日本はもとより世界を見渡しても偉大なボクサーでした。しかし不思議とヒーローにはなれなかった。『「黄金のバンタム」を破った男』も、原田をヒーローとして描いていません。
石原裕次郎長嶋茂雄王貞治は、戦前生まれ、北野武矢沢永吉松任谷由実は戦後生まれ。
戦中にヒーローは生まれていません。芸能人だけに限ってみても、坂本九(1941年生まれ)、小松政夫(1942年まれ)、浜田光夫(1943年生まれ)、舟木一夫(1944年生まれ)、タモリ(1945年生まれ)。およそヒーローとは呼べない人ばかりです。
戦中生まれは、ヒーローがいる時代よりもっと不幸せな、ヒーローを生むことができない不幸せな時代に生まれたということになります。