大滝栄一さん、さようならそしてありがとう。

クリエーティブ・ビジネス塾13「大滝詠一」(2014.3.26)塾長・大沢達男
1)1週間の出来事から気になる話題を取り上げました。2)新しい仕事へのヒントがあります。3)就活の武器になります。4)知らず知らずに創る力が生まれます。5)ご意見とご質問を歓迎します。

1、大滝さんを語る会
昨年(2013年)12月30日に突然、音楽プロデューサーでシンガーソングライターの大滝詠一さんが亡くなりました。亡くなった12月30日を逆さに読んだ03月21日、「大滝さんを語る会」が開かれました。大滝さんが住んでいた東京都の瑞穂町の図書館、発起人は栗原勤さん、全国から50人ほどのファンが集まりました。「みなさんご存知でないでしょうが。私は大滝さんと『花王のドレッサー』という仕事をしました」、恐る恐る告白すると、ファンには常識!すぐに、レコードをかけてくれました。
2、アメリカン・ポップ・ミュージック
大滝詠一(本名:大瀧榮一)さんを何で知ったのか、もちろん「はっぴいえんど」です。私は広告代理店のクリエーターでしたが、先輩たちは「はっぴいえんど」を知りませんでした。というより大人たちは新しい音楽に無知でした。長髪、Gパン、スニーカーで会社に通勤し始めた「ボクたち」は、革命家でした。ロックとフォークは新しい時代の言葉でした。「ボクたち」は、当然のように大滝さんの音楽をCMに使用することを提案しました。それもいちばん正統的で保守的な花王さんに。
大滝さんが日本の音楽界でどんな功績があったか。それは音楽評論家のまかせます。私にとっての大滝さんは新しい音楽(New Music)をやる、新しい時代の新しい人でした。
私は43年生まれ、東京で、17歳つまり60年からFEN(Far East Network=駐留軍極東放送)にかじりついていました。大滝さんは48年生まれ、オマセな坊やは岩手で、12歳60年からアメリカン・ポップ・ミュージックに親しんでいます。私たちは同じ音楽を聞いて育ちました。
大滝さんは音楽プロデューサー・フィル・スペクターPhil Spector)をリスペクトしていました。フィル・スペクターといえば、「To know him is to love him.(The Teddy Bears)」58年、「Be my baby(The Ronettes)」63年です。大滝ミュージックの秘密はこの二曲にあるといって過言ではありません。まずティーンの心を捉えて放さない甘いメロディー、次にリードボーカルを支えるバックコーラス、そしてメロディを支える壁のような音(ウォール・オブ・サウンド)です。
花王ドレッサーでは、アレンジ替えで2~3曲の作っていただきました。ファンク風のリズムにしたり、ドゥーワップ風のコーラスを入れたり。これはあれ風、これはなに風、狙いがわかって面白い。音楽の新しい時代が始まっていました。もちろん花王さんにOKをいただくには苦労をしましたが。
だからそれからしばらくあとの、「A long vacation (ロンバケ)」(81年)の発売には驚きました。え!?このリズムってヤバいんじゃないの。あれ風どころか、マンマじゃない?次の曲もやりすぎ。ここまでくるとバレちゃうよ!新しくないよ。「ビキニ・スタイルのお嬢さん(ブライアン・ハイランド」60年、「恋の売り込み(エディ・ホッジス)」61年、「霧の中のジョニー(ジョニー・レイトン」61年、「サヨナラ・ベイビー(ボビー・ビー)」61年、「シェリー(ファーシーズンズ)」62年、「ボビーに首ったけ(マーシー・ブレーン)」62年。「ロンバケ」は、60年代ヒットのDNAを持った、30男の懐古趣味の遊びでした。
3、スキヤキ
日本のポップ・ミュージックは1度だけ奇跡を起こしています。『スキヤキ(上を向いて歩こう坂本九』(中村八大作曲 永六輔作詞)が全米チャートで3週連続1位に輝きました(1963.6.15~6.29 『ビルボード・トップ10ヒッツ'58~'68』ジョエル・ホィット・バーン 音楽之友社)。ピンク・レディ『キッス・イン・ザ・ダーク』(79年37位)、YMO『コンピューター・ゲームズ』(80年60位)、松田聖子『ザ・ライト・コンビネーション』(90年54位)は遠く及びません(前掲書p.177)。日本のポップ・ミュージックは国境を越えて、世界で通用するのでしょうか。「ロンバケ」はダメです。まず大滝さんが世界発売を拒否します。あれはさ、冗談なんだから・・・。いつになったら日本から、プレスリービートルズのようなポップ・ミュージックが生まれるのでしょうか。
芸術家には詩人と職人のふたりが住んでいる。大滝さんはアメリカン・ポップ・ミュージックに詳しい音作りの職人でした。でもそれだけだと単なる物マネでおしまい。大滝さんはいつまでもティーンの心を持った詩人でした。はずかしがりやで、冗談ばかりで、でもいつもロマンティックを夢見ていました。最後の言葉は、「ママ、ありがとう」だって?さよならそしてありがとう、大滝詠一さん。